許嫁
孤独という名の澱が沈殿するこの屋敷において、唯一、鮮やかな色彩が差し込む日がある。
それは週に一度、決まった曜日の午後に訪れる、愛らしい来客の時間だった。
「……遥明さま、ごきげんよう」
客間に通された少女は、消え入りそうな声でそう挨拶をし、畳に手をついて深々と頭を下げた。
顔を上げると、真っ直ぐに切り揃えられた黒髪のボブカットがさらりと揺れ、その隙間から、雪の精霊を思わせる透き通った白い肌が覗く。
大きな黒い瞳は、いつも不安げに揺れていて、俺と視線が合うと、驚いた小動物のようにすぐに畳へと逸らされてしまった。
賀茂粉雪。
それが彼女の名だ。
俺と同い年の少女であり――そして、許嫁である。
「こなちゃん、いらっしゃい。今日も来てくれたんだね」
俺が努めて明るく声をかけると、彼女は「……はいっ」とぱっと花が咲いたように表情を輝かせ、けれどすぐに恥ずかしそうに視線を逸らして、もじもじと指先を合わせる。
最初の頃は、この「はい」すら聞くのに一苦労だった。
三十分も向かい合って、ただ黙ってお互いの前の畳の目を見つめ続ける、という奇妙な時間が流れたこともある。
俺が何かを尋ねても、こくりと頷くか、ふるふると首を横に振るばかり。
それが今では、週に一度の逢瀬を重ねるうちに、すぐに返事をしてくれるようになった。
俺にとっては、大きな進歩だ。
彼女は、陰陽師の名門・賀茂家の息女にあたる。
まず、この世界において、陰陽師の頂点に君臨する『御三家』と呼ばれる三つの名門がある。
一つは、我が土御門家。
伝説の大陰陽師・安倍晴明の血を色濃く受け継ぎ、数多の強力な術師を輩出してきた、まさしく陰陽師界の宗主。
一つは、芦屋家。
晴明のライバルであった芦屋道満を祖に持ち、土御門とは異なる形で陰陽師界を発展させてきた一族。
良くも悪くも、実力主義の気風が強いと聞く。
そして最後の一つが、彼女の生家である賀茂家だ。
かつて安倍晴明に術の基礎を教えた師の家系であり、千年の時を経た今もなお、土御門と並ぶ名門中の名門。
そんな家の姫君が、なぜ落ちこぼれの俺の元へ足繁く通い、あまつさえ許嫁として定められているのか。
理由は、この歪な世界における"血"の事情にある。
男一に対し、女十五。
男子の誕生が極端に少ないこの世界において、御三家といえどもその例外ではない。
特に賀茂家は深刻で、ここ数代にわたり男子が生まれておらず、直系の血脈が断絶の危機に瀕していた。
婿養子を迎えて家を存続させてきたが、それも限界が近づいていた。
強力な陰陽師の血筋は、薄まれば薄まるほど、その力を失っていくからだ。
強い妖力を持つ血筋を残すことは、一族にとっての至上命題であり、特に御三家ともなれば、その重圧は計り知れない。
一方で土御門家には、俺という(能力はともかく)男子が生まれた。
本来ならば、家督を継ぐべき男子を他家にやるなど有り得ない話だが、俺には「無能」というレッテルが貼られている。
土御門としては、出来損ないの俺に当主を継がせるつもりなど毛頭ない。
だが、腐っても晴明の血を引く種としての価値はある。
そこで両家の利害が一致した。
賀茂家は、次代に強力な男子を生むための種として俺を欲し、土御門家は、無能な俺を厄介払いしつつ、賀茂家との結びつきを強める政略の道具として利用したのだ。
大人の考えることは、いつだって合理的で、そして残酷だ。
土御門の血と、賀茂の血。
この二つの血を混ぜ合わせれば、かつての晴明に匹敵するような『最強の個体』が生まれるのではないか――。
そんな、まるで血統書付きの犬でも作るかのような、単純で傲慢な発想が、俺たちを許嫁にした。
もちろん、家系の純血を守りたい保守派からは、「土御門の落ちこぼれの血など入れたくない」という反発があったり、御三家間のパワーバランスを巡る思惑だとか、水面下では色々と政治的な駆け引きがあったらしい。
だが子供の俺からすれば、知ったこっちゃない話だ。
俺は『無能な種馬』。
彼女は『男子を産むための器』。
最強の血と血を掛け合わせ、究極の個体を作出する。
字面にすれば反吐が出るような優生思想だが、当事者である俺自身の気持ちは、意外にも悪くなかった。
なぜなら――。
「あ、あの……遥明様。これ、お土産です。うちのお屋敷の近くで、綺麗な紅葉を見つけたので……」
差し出されたのは、丁寧に押し花にされた一枚の紅葉。
高価な菓子や玩具ではない。
彼女が自身の感性で美しいと感じ、俺に見せたいと思って拾ってきてくれた、ささやかな贈り物。
政略結婚だの、血の配合だのといった大人のドロドロした思惑とは無縁の場所に、彼女の純粋な心はあった。
「ありがとう。すごく綺麗だね。大切にするよ」
「はい……っ!」
彼女が嬉しそうに微笑む。
この笑顔を見続けられるなら、種馬という運命も、そう悪いものではないかもしれない。
*
「遥明様、粉雪様。おやつの時間でございます」
障子の向こうから、女中の声がした。
やがて、黒塗りの盆に載せられた菓子と湯呑みが、俺たちの前に静かに置かれる。
女中は恭しくそれらを配膳すると、音もなく下がっていった。
今日の菓子は、うさぎの形をした可愛らしい練り切り。
そして、湯気の立つ緑茶。
「わぁ……うさぎさん、かわいい」
粉雪はきらきらと瞳を輝かせて練り切りを見つめている。 甘いものと可愛いものには目がないらしい。
「いただきます」
粉雪は行儀よく手を合わせ、お菓子を小さく切り分けて口に運ぶ。
上品な仕草だ。
もぐもぐと口を動かす姿は、小動物が餌を食べているようで微笑ましい。
問題は、お茶だった。
彼女は湯気を立てる湯呑みを、困ったような目で見つめている。
「……ふぅー、ふぅー」
小さな唇を尖らせて、一生懸命に息を吹きかけ始めた。
恐る恐る口をつけようとするが、すぐに唇を離して眉を寄せる。
「…………っ!」
彼女は極度の猫舌なのだ。
熱いものが苦手で、いつもお茶が冷めるまで寂しそうに待っている。
「こなちゃん」
俺が呼びかけると、彼女は息を吹きかけるのをやめて、不思議そうに小首を傾げた。
「なんでしょう、遥明さま?」
「ちょっと貸してごらん」
俺は彼女の手から湯呑みを受け取った。
まだ熱を帯びた陶器の感触が指先に伝わる。
「遥明さま、危ないですよ。熱いですから……」
「大丈夫……こなちゃんには特別に、魔法を見せてあげる」
俺は悪戯っぽくウィンクをして、湯呑みに右手をかざした。
周囲に人がいないことは確認済みだ。
女中たちは菓子を置いて早々に退室している。
ここには俺と彼女の二人きり。
意識を集中する。
臍下丹田に眠る、僅かな妖力の残り滓を汲み上げる。
イメージするのは、この湯呑みの中にある『熱』、 そして、その対極にある『冷』という状態。
────反転。
俺の手のひらから、目には見えない波動が伝播する。
妖力が術式へと変換され、物理法則に干渉した瞬間――。
スッ、と。
立ち上っていた湯気が、嘘のように消え失せた。
「えっ……湯気が?」
粉雪が目を丸くする。
俺はニッと笑って、湯呑みを彼女に差し出した。
「ほら、もう熱くないよ。飲んでごらん」
促され、彼女は恐る恐る湯呑みに口をつける。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「冷たっ!」
驚きのあまり、行儀悪く声を上げてしまう粉雪。
彼女は信じられないといった様子で、湯呑みの中と俺の顔を交互に見比べた。
「え、え? どうしてですか? 本当に魔法みたい……」
「ごめん。これは魔法じゃなくて『反転術式』っていうんだ。熱いものを冷たくしたり、枯れた花を咲かせたり……物事の状態を"あべこべ"にする力……かな?」
「はんてん、じゅつしき……」
彼女は言葉を反芻するように呟き、それから首を傾げた。
「聞いたことが、ありません。陰陽五行術の【水】で冷やすのとは違うのですか?」
「ちょっと違うかな。温度を操るんじゃなくて、熱そのものを逆転させてるから」
「すごい……遥明様、すごいです!」
彼女は尊敬の眼差しを向けてくる。
だが、その時だった。
「――ほう。聞いたことがないな、そんな術は」
低く、地を這うような男の声が、静寂な茶室に響いた。
「っ!?」
粉雪の足元。彼女が落とす影が、不自然に揺らめいていた。
まるで墨汁を垂らしたかのように濃く、深く渦巻いている。
それはまるで、水面のように蠢き、やがて中心が盛り上がって、一つの形を成していく。
ズズ、ズズズ……。
影が盛り上がり、立体的な形を成していく。
現れたのは、漆黒の毛並みを持つ、一匹の狼だった。




