妖魔大百科
『図解・妖魔大百科 ~改訂版~』
晴明の伝記を棚に戻し、次に俺が手を伸ばしたのは、分厚い『妖魔大百科』なるものだった。
男の子なら動物図鑑や昆虫図鑑に心躍るものだが、この世界においてこれは実用書であり、警告の書でもある。
俺は重たい本を広げ、ページを捲る。
そこには、グロテスクで、しかしどこか生物的な美しさを伴う異形たちの姿が描かれていた。
『妖魔――人の持つ恐怖、憎悪、嫉妬、あらゆる負の感情が淀み、形を成した災厄である。その発生源は未だ定かではない』
冒頭の定義を読み飛ばし、生態のページへ進む。
奴らはどこからともなく湧いて出る。
空間の裂け目から、あるいは深い闇の底から。
今、俺がこうしてのんびりと本を読んでいられるのは、土御門の屋敷が幾重もの強力な『結界』によって守られているからだ。
敷地の四方に打ち込まれた杭。張り巡らされた注連縄。
それらが鉄壁の守りを生み出し、妖魔の侵入を阻んでいる。
だが、一歩敷居を跨げば、そこは弱肉強食の世界だ。
妖魔にとって、強い陽の気を持つ男子は極上の餌であり、同時に自らの妖力を高めるための苗床にもなり得る。
「……外に出るのは、まだ先だな」
最弱の妖力しかない俺が外に出れば、格好の的だ。
それこそ、瞬きする間に骨までしゃぶられる未来しか見えない。
俺はページを飛ばし、巻末に近い『特級妖魔』の項目を開いた。
ページの色が、ここだけ警告色である赤黒いものに変わっている。
記載されているのは、かつて世界を滅亡の淵に追いやった伝説の妖魔たち。
酒呑童子。
九尾の狐。
大嶽丸。
そこに記されているのは、一体一体が国家を滅ぼすほどの力を持つ特級妖魔。
しかし、どの妖魔の解説にも、必ず同じ一文が添えられていた。
『――大陰陽師・安倍晴明により、現在は封印されている』
そう。現在、この世には特級妖魔の脅威は存在しない。
すべて、晴明がその命と引き換えに封印したからだ。
だからこそ人類は、陰に傾いた世界でもかろうじて繁栄を維持できている。
俺は、その中でも一際異彩を放つ妖魔のページで指を止めた。
【名:ぬらりひょん】
別名:ぬらり姫
階梯:特級
そこに描かれていたのは、前世の知識にあるような、頭の長い老人の妖怪ではなかった。
艶やかな黒髪を滝のように流し、蠱惑的な微笑みを浮かべた、絶世の美女。
流し目が妖艶な、十二単のような着物を着崩している。
額に小さな角があり、その周囲には金の靄のようなオーラが漂っている。
その姿は妖魔というより、「妖姫」と呼ぶにふさわしい。
解説文にはこうある。
『ぬらり姫。またの名を、妖魔の女帝』
これが、この世界のぬらりひょんらしい。
お姫様とは恐れ入る。
だが、その能力の記述を見て、背筋が寒くなった。
【固有妖術:百鬼夜行】
効果:自身より妖力の低い妖魔を、無条件で支配下に置き、意のままに操る強制支配の術。
発動条件:日が落ちた後の夜間のみ。
単純にして、最悪の能力だ。
特級のぬらりひょんより妖力が低いということは、実質的に「自身以外のほぼ全ての妖魔」を指す。
つまり彼女がその気になれば、世界中の妖魔を一箇所に集め、軍勢として人里を蹂躙させることも可能なのだ。
個の武力ではなく、王としての統率力。
それが彼女を特級たらしめている所以だった。
だが、彼女もまた例外ではない。
【状態:封印済(安倍晴明による)】
『晴明は、ぬらりひょんを含む全ての特級妖魔の肉体を消滅させ、その強大な魂を封霊箱と呼ばれる呪具に封じ込めた』
さらに、注釈が続く。
『封霊箱は、晴明の血脈に連なる土御門家の本邸・地下深くに厳重に安置され、一千年の時を経た今もなお、歴代当主によって守護されている』
……記述はそこで終わっていた。
だが、俺の思考はそこで止まらない。
安置されているのだ。
この屋敷に。
俺の足の下、遥か地底に。
ぞわり、と肌が粟立つ感覚があった。
本のページから目を離し、床を見つめる。
分厚い畳、その下の板張り。
さらにその下の土の中。
そこに、かつて世界を終わらせかけた化け物たちの魂が、圧縮されて眠っているのだ。
これではまるで、核弾頭の上で暮らしているようなものじゃないか。
もちろん、晴明の施した封印だ。
1000年もの間、一度も破られていないという事実が、その絶対性を証明している。
だが、もし、万が一、何かの拍子に封印が綻んだら?
魂は風化せずとも、それを閉じ込める箱は、千年の時の中で綻びが生じるかもしれない。
だからこそ土御門家には『封印の上書き』という儀式が存在することを、俺は別の書物で読んで知っていた。
『封印の上書き』
年に一度、封印術に長けた高位の陰陽師たちが総出で行うメンテナンス。
『土御門家は、年に一度、封印に長けた陰陽師たちを集め、封霊箱の封印を上書きする儀式を執り行う。これにより、封印の効力は常に維持される』
そして、それとは別に、もっと重要な鍵となる儀式がある。
『また、晴明の血を直接引く土御門の子は、満五歳を迎えた誕生日に、この儀式に初めて参加する習わしがある。その穢れなき妖力を封霊箱に注ぐことは、封印を清め、強化するための重要な神事とされる』
封霊箱は、晴明の妖力で作られた檻だ。
それを維持するために最も適した燃料は、同じ波長を持つ「晴明の血を引く者」の妖力。
穢れなき幼子の、純粋な妖力を注ぐことで、封印は新品同様の強度を取り戻すという。
いわば、おまじないを兼ねたようなものだろう。
「五歳……か」
俺は無意識に、自分の小さな掌を見つめた。
俺の五歳の誕生日は、もう目前に迫っている。
通常ならば、当主の息子として盛大に祝われ、そのメインイベントとしてこの封印の儀が執り行われるはずだ。
晴明の再来と謳われる神童が、その溢れる才能の一端を披露し、一族の安泰をアピールする晴れ舞台。
だが、俺はどうだ?
一族の恥晒しであり、無能な種馬でしかない。
父・景明は、俺にこの儀式を行わせるのだろうか?
そもそも、俺の存在を息子としてカウントしているのだろうか?
ガタン、と微かな音が廊下から響いた。
「っ!」
俺は弾かれたように顔を上げ、本を閉じた。
女中たちがやってきたのかもしれない。
ここに見つかれば、勝手なことをしたと折檻される可能性もある。
体罰はないにしても、唯一の楽しみであるこの書庫への出入りを厳重に封じられるのが一番困る。
俺は素早く、しかし慎重に、本を元の棚へと戻した。
背表紙の列を指で整え、自分がここにいた痕跡を消す。
埃の一つも乱さぬよう、踏み台を元の位置へ。
そして、忍び足で扉へと向かう。
体の中で、微かな妖力を練る。
身体強化なんて大層なことはできないが、足音を消すくらいのコントロールは、毎夜の反転術式の修行の副産物として身についていた。
扉を数ミリだけ開け、隙間から廊下を窺う。
誰もいない。
今のうちに部屋に戻らなければ。
俺は廊下を滑るように走り出した。
幼い体は非力だが、軽い。
皮肉にも、誰からも期待されていない影のような存在であることが、今の俺の隠密行動を助けていた。
部屋に戻り、布団に潜り込むと同時、障子が開く音がした。
「遥明様、昼食のご用意ができました」
戻ってきた女中の声は、相変わらず抑揚がなく、義務的だった。
運ばれてきたのは、黒塗りの立派なお膳だ。
ふっくらと炊かれた白米、豆腐と三つ葉の味噌汁。
主菜は鰆の西京焼きで、副菜には季節の野菜の炊き合わせと、卵焼きが添えられている。
たまには洋食が食べたいなぁ……ハンバーグとか。
俺はそれを口に運びながら、先ほど読んだ本の挿絵を思い出していた。
妖艶な笑みを浮かべる、ぬらり姫。
そして、地下深くに眠る封霊箱。
平穏に見えるこの日常が、薄氷の上に成り立っていることを、やがて俺は知ることになる。




