反転術式
どうやら俺は、転生したらしい。
そう自覚したのは、まだハイハイもままならぬ赤子の頃だった。
だが、そこは俺の知る物語にあるような異世界ファンタジーではなかった。
慈悲深い女神様もいなければ、転生特典のチートスキルもない。
ステータス画面も開かなければ、経験値の概念もない。
俺が転生したのは、架空の日本。
もしもの歴史を辿った、パラレルワールドのような場所。
陰と陽のバランスが崩れ、男女比が1:15の歪な世界。
魔力は妖力に、魔術は妖術に。モンスターは妖魔。
前世で親しんだゲームや漫画の知識に置き換えてみれば、存外、構造としては分かりやすいファンタジーだ。
だが、俺に与えられた役割は、勇者でも賢者でもなかった。
「……若様。お着替えの時間でございます」
部屋に入ってきたのは、若い女中だ。
彼女は恭しく頭を下げるが、その瞳の奥には冷ややかな侮蔑の色が潜んでいるのを、俺は見逃さない。
四歳になった俺、土御門遥明に向けられる視線は、いつだってこの温度だ。
原因は、あの『妖儀』とかいう能力鑑定の結果にある。
俺には『最下級』の妖力しかなく、おまけに術式は『反転術式』などという前代未聞の烙印を押されたらしい。
陰陽師の名門・土御門家の嫡男でありながら、俺は歴代最低の無能として生を受けることになったのだ。
着替えを済ませた女中が部屋を出て行き、襖が閉まる。
その日から、俺を取り巻く運命が確定した。
広大な屋敷の一室を与えられ、身の回りの世話をする人間もいる。
だが、そこに温もりはない。
彼女らは俺を『遥明様』とは呼ぶが、その声には一片の敬意も含まれていなかった。
『所詮は、ただ男というだけの器だったのですな』
『お顔立ちだけは、あんなに愛らしいのに』
『まさに土御門の面汚し……。期待されていた分、旦那様の落胆ぶりも哀れでなりませんわ』
障子一枚を隔てた向こう側。
世話をする乳母や女中たちが、俺の見ていないところで、ひそひそと陰口を叩くのを、何度となく聞いた。
四歳の子供の耳には届かないとでも思っているのか、あるいは、意図的に聞かせているのか。
稀少な男子。
けれど、中身は空っぽの器。
それが、屋敷の使用人たちから見た俺の評価だった。
だが、もっとも堪えたのは、他人である彼女たちの陰口ではない。
実の父親である、土御門景明だった。
あの『妖儀』の日以来、父が俺に何かを期待する眼差しを向けたことは一度もない。
あれは、俺が三つになった頃だ。
俺の処遇について、父が側近と話しているのを偶然聞いてしまったことがある。
『……遥明に、陰陽師としての修練は不要だ』
その時の言葉を、俺は生涯忘れないだろう。
『才なき者に努力を強いるのは、ただ子を不幸にするだけ。伸びしろのない者にとって、それは責め苦でしかあるまい』
声色には、失望を通り越した無関心だけが宿っていた。
『最下級の妖力しか持たぬ者に術を教え込んだところで、身の丈に合わぬ夢を見させるだけだ。それは、あやつにとってかえって不幸になる』
そこで一度、言葉が途切れた。
重苦しい沈黙の後、父は吐き捨てるように言ったのだ。
『家から放り出しはせぬ。無能とはいえども、男であることに変わりはない。奴には、土御門の血を残すという役割だけがある』
つまり、そういうことだ。
俺は戦う必要もないし、学ぶ必要もない。
ただ大切に飼い殺され、やがて来る初夜の日に備えて、健康な肉体だけを維持して生きていればいい。
俺の存在価値は、ただ一つ。
血を繋ぐための種馬であることなのだから。
それ以来、父が俺の話題を出した記憶はない。
絶望するには、十分すぎるほどの環境だ。
普通なら、ここで心が折れてグレるところだろう。
あるいは、自らの運命を呪って部屋に引きこもるか。
だが、前世の記憶を持つ俺は、四歳の子供が抱くにはあまりに不釣り合いな冷静さで、己の状況を分析していた。
泣き叫んだところで、妖力が増えるわけではない。
癇癪を起こしたところで、父が振り向くわけでもない。
必要なのは、活路だ。
妖儀の結果を思い出す。
【妖力 最下級】 【妖術 反転術式】
希望がないわけではない。
なぜなら俺の妖力はゼロではないからだ。
最下級とはいえ、乾いた井戸の底に僅かに滲む水のように、確かに存在している。
そして、謎の『反転術式』。
俺には、微かな、しかし確信にも似た記憶があった。
生まれてきたあの瞬間。
一度は止まった心臓が、再び鼓動を始めた時の、あの奇妙な感覚。
父が注ぎ込んだ膨大な妖力が俺の魂に触れた瞬間、何かが裏返った感覚。
誰に教わるでもなく、本能が理解していた。
俺はあの時、無意識に『死』という絶対的な結末を『生』へと反転させたのだ。
それは父の妖力を利用させてもらったからこそ成し得た大技。
今の俺の、最下級の妖力で何ができる?
その答えを求めて、今日も俺は夜を待つ。
屋敷が深い静寂に包まれ、世話役の女中たちの気配も遠のいた深夜。
俺は布団から音もなく抜け出し、床の間に置かれた小さな花瓶の前に座り込んだ。
月明かりが、花瓶に生けられた一輪の花をぼんやりと照らしている。
数日前に生けられた桔梗だ。
水を替えるのを忘れられていたのか、あるいはもう寿命なのか。
花弁は茶色く変色し、茎は力を失って項垂れている。
今の俺のように、惨めで弱々しい姿だ。
「……スゥ」
俺は小さく呼吸を整え、枯れかけた桔梗に小さな手をかざした。
目を閉じ、意識を内側へ、魂の核へと沈めていく。
血の巡りとは違う、もう一つの流れ。
身体の奥底に淀む、微かな力の源――妖力を、必死に練り上げる。
天才たちは、呼吸をするように妖力を練るという。
だが俺にとってそれは、砂漠で一粒の砂金を探すような気の遠くなる作業。
父のように、滝のようなエネルギーを放出することはできない。
コップ一杯の水すら満たせない、雫のような妖力だ。
やっとの思いで掻き集めた塵芥のような妖力を、指先へと集中させる。
強く、強く、イメージした。
この花の状態。『枯れている』という事実。
そして、その対極。
『咲き誇っている』という、本来あるべき姿。
――反転させろ。
俺の妖力が、燐光のように淡く指先から溢れ、枯れかけた花に触れた。
その瞬間、世界が裏返るような眩暈がした。
枯れたという原因を、咲くという結果に。
萎れたという過去を、瑞々しいという現在に。
時の流れを逆行させるように、確定した事象を、その根源から覆す。
―――パッ。
月明かりの下、奇跡は起きた。
そこには、今朝摘んできたばかりのような、鮮やかな紫色の桔梗が咲き誇っていた。
「……成功だ」
俺は額に滲んだ汗を拭い、小さく拳を握りしめた。
俺の目の前で、一度は死にかけた花が、再び咲き誇っている。
全身から力が抜け、どっと疲労が押し寄せる。
最下級の妖力は、この小さな奇跡一つでほとんど空っぽになってしまった。
だが、それでも俺の心は満たされていた。
父は言った。
無能だと。
世間は言う。
面汚しだと。
だが、この力はなんだ?
陰陽五行術でも、四法術でも、神通力でもない。
死すら生に、枯れた花さえ咲き誇らせる、理を覆す力。
これはただの治癒や再生ではない。
因果そのものを捻じ曲げる、神の領域にすら踏み込むような御業だ。
俺は、咲き誇る桔梗の花をそっと指でなぞった。
ひんやりとした花弁の感触が、確かに俺が生きていることを教えてくれる。
――反転術式。
それが俺の唯一の才。
ならば、この絶望的な運命そのものも。
『無能』という烙印さえも。
いつか必ず、この手で『反転』させてみせる。




