輪廻転生
轟々、と。
まるで生き物のように松明の炎が揺らめき、屋敷の長い廊下に伸びる影を不気味に震わせる。
産屋から漏れ聞こえるのは、苦悶に満ちた声と、産婆たちの慌ただしい足音。
そして祈るような囁き。
屋敷全体が、熱に浮かされたような喧騒と緊張に包まれていた。
「まだか……!」
土御門景明は、苛立ちを隠しもせずに呟いた。
陰陽師の頂点に連なる名門・土御門家の現当主であり、自身も『最上級陰陽師』の位を持つ彼が、これほど感情を露わにする姿を他の者に見せれば、驚かれることだろう。
だが、今の景明にそんな体面を気にしている余裕はなかった。
産屋で今まさに生まれようとしているのは、彼にとって七番目の子。
そして、神通力に長けた術師の予見によれば―――間違いなく、男子である。
この世界において、男子の誕生がどれほどの意味を持つことか。
本来、この世界は陰と陽が拮抗し、均衡によって成り立っている。
女は「陰」、男は「陽」の力をその魂に強く宿す。
だが、そのバランスは遥か昔に崩壊した。
原因は、伝説の大陰陽師・安倍晴明の死にある。
彼は、あまりにも強大すぎた。
その存在そのものが、巨大な『陽の楔』として世界の均衡を無理やりに保つ調整装置と化していたのだ。
彼の規格外の力は、妖魔たちの本能的な恐怖を煽った。
本来、互いに反目し合うはずの特級の妖魔たちが、晴明という“異物”を排除するためだけに、史上初めて共闘したのである。
結果、晴明は相打ち覚悟で全ての特級妖魔を封印し、その代償として絶命した。
英雄の死は、しかし、世界に決定的な歪みをもたらした。
『陽を支える楔』が失われたことで、世界は急速に陰へと傾いたのだ。
陰が優勢となった世界では、陽の象徴たる男の魂が肉体に定着しづらくなった。
結果、男女比は崩壊。
今や、男一人に対し、女が十五人。
街を行けば女ばかり。
男であるというだけで、それは宝石以上の価値を持つ希少種となった。
ましてや、強い妖力を継ぐ陰陽師の家系においては、血を繋ぐ男子は何物にも代えがたい至宝だった。
土御門家は、晴明の血脈に連なるだけあって、他の家よりは男子が生まれやすい。
そして景明は土御門家当主。
妖魔と戦う陰陽師の総本山を背負う身として、強力な妖力を持つ血統を残さねばならぬ義務がある。
だが、彼をもってしても、これまでに生まれた六人の子は、すべて女子だった。
女子が悪いわけではない。
だが、陰の気が強いこの現代で強力な妖魔を祓うには、どうしても陽の男児が必要なのだ。
だからこそ、景明は逸る気持ちを抑えきれなかった。
「旦那様、お気を確かに……」
「分かっている」
側近の言葉を遮る。
今、産屋にいるのは第四婦人だ。
彼女の腹には、これまでのどの子よりも強い「陽」の気配があった。
七度目の正直。
今度こそ、跡取りが――。
障子に映る影が、目まぐるしく動いている。
苦悶に喘ぐ第四婦人のシルエットと、それを囲むようにして立ち働く産婆たちの影。
時折、湯気を立てる桶や、手拭いを絞る仕草が見て取れた。
中の様子は窺い知れないが、障子一枚隔てた向こう側で繰り広げられている命の営みが、嫌でも緊張感を高めてくる。
景明は固く拳を握りしめ、ただひたすらに、力強い産声が上がる瞬間を待っていた。
「―――生まれました! 旦那様!」
産婆の甲高い声が、廊下の静寂を破った。
弾かれるように顔を上げ、襖に手をかける。
祝福の言葉を口にしかけた、その時。
「……で、ですが」
産婆の声が、絶望に震えた。
「息を、なされておりません……!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が景明を襲った。
死産。
その二文字が、脳内で不吉に反響する。
冗談ではない。
これほど待ち望んだ男子だ。
そんなことがあってたまるか。
景明は躊躇なく産屋に踏み込んだ。
血と羊水の匂いが立ち込める中、ぐったりと動かない小さな赤子を抱く産婆の顔は真っ青だ。
第四婦人は、力尽きたように荒い息を繰り返している。
「退け!」
景明は産婆から奪い取るように赤子を抱いた。
腕に抱いた小さな体は、まだ温かい。
だが、心臓の鼓動は感じられない。
魂が肉体に定着できず、抜け落ちかけている。
景明は自らの内にある生命エネルギーの源―――妖力を練り上げた。
陰陽師の中には、この妖力を他者に流し込むことで、消えかけた命の灯火を再び燃え上がらせる者がいる。
しかし、それは諸刃の剣。
生まれたばかりの赤子の体に、大人の、それも最上級の妖力を流せば、器が耐えきれずに破裂しかねない。
生と死、その境界線を見極める繊細なバランス感覚が要求される。
景明は全神経を集中させ、一条の光にも似た妖力を、赤子の小さな胸へと慎重に流し込んだ。
頼む、生きてくれ。
お前は、この土御門の、いや、この世界の希望なのだ。
その時だった。
――ゾクリ。
景明の背筋を、奇妙な感覚が走り抜けた。
妖力を流し込んだ瞬間、何かが逆流したような、あるいは注ぎ込んだ力が裏返ったような、得体の知れない感触。
水が滝を逆さに登るような、理に反する違和感。
なんだ……? 今のは。
思考を遮るように、腕の中の赤子が、けたたましい産声を上げる。
奇跡が起こったのだ。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
赤子の胸が大きく波打ち、世界にその生を主張し始める。
「おぉ……! 息を吹き返した!」
「なんと力強い泣き声……! 流石は男子ですな……!」
生命力に満ちた力強い泣き声に、産屋にいた誰もが安堵の息を吐いた。
「まさか、一度は事切れた命を繋ぎ止めるとは……!」
「これぞ最上級陰陽師たる景明様の大妖術! お見事でございます!」
側近たちが、畏敬の念を込めて口々に景明を讃える。
誰もが諦めかけた状況を、当主自らの力で覆したのだ。
その圧倒的な実力を前に、産屋にいた者たちは改めて主の偉大さを思い知らされていた。
「……よかった」
景明もまた、張り詰めていたものが切れ、深い安堵と共に赤子を見下ろした。
額の汗を拭い、抱きしめた我が子の重みに震える。
「よくぞ、戻ってきた」
景明は赤子の頬に指を這わせる。
気のせいだ。
先ほどの違和感など、焦りが生んだ錯覚に過ぎない。
大事なのは、息子が生きているという事実だ。
景明は赤子を抱いたまま、憔悴しきった第四婦人の枕元へ歩み寄った。
「よくやった。……この子の名は遥明だ。遥か未来まで、この世界を明るく照らす者となれ、という願いを込めて」
初めての男子が生まれた時に、そう名付けようとずっと決めていた。
彼女は涙で濡れた瞳で景明を見上げ、幸せそうに、こくりと頷いた。
しばしの祝福の後、景明は遥明を産着に包み、屋敷の最も清浄な一室へと運ぶ。
これより、陰陽師の家系に生まれた赤子に必ず執り行われる『妖儀』を行う。
それは、その者が生まれ持つ妖術の系統と、将来的な妖力の伸び代―――その素質を占う神聖な儀式だ。
術には大きく分けて三つの系統がある。
『陰陽五行術』――火、水、地、風、雷など。
世界の根幹を成す『理』そのものを操る術。
『陰陽四法術』――契約、結界、封印・解封、呪縛・解呪。
理によって生まれた『事象』を縛り付ける術。
『神通力』――物体操作、物体具現化、肉体浮遊、肉体変化、探知、治癒、予知、透視、洗脳。
理の枠組みすら超える『奇跡』を起こす術に分類される術。
陰陽師は、これらいずれかの系統に属する一つ、あるいは複数の術に才能を示す。
ちなみに当主たる景明自身は、これら三系統すべてを高いレベルで修める万能型であり、特に『陰陽四法術』における【契約】の才は、若かりし頃の妖儀で『特級』の可能性を示唆されたほどだ。
数多もの強力な式神を使役し、従える彼の力は、土御門家当主の座に相応しいものと言えた。
妖儀を執り行うのは、土御門家お抱えの老婆だ。
神通力、その中でも特に『予知』に長けており、彼女こそ遥明が男子として生まれることを予見した張本人でもあった。
儀式の間の中央。
清められた床に、巨大な和紙が広げられている。
「神託の刻」
老婆が呪を唱えると、傍らに置かれた巨大な筆がひとりでに宙へと浮かび上がった。
才能の階梯は、最下級、下級、中級、上級、最上級、そして伝説とされる特級の六段階で示される。
我が息子だ。
晴明の血を色濃く受け継ぐ土御門の嫡男。
最低でも上級、いや、特級の器であっても何らおかしくはない。
「最上級妖術・妖儀」
老婆が厳かに宣言し、枯れ木のような指で印を結ぶと、宙に浮いた筆が静かに動き始めた。
期待に胸を膨らませ、景明は固唾を飲んで見守る。
墨を含んでいないはずの穂先から、漆黒の文字が和紙の上に滑るように現れていく。
まず、名前。
【名 土御門 遥明】
次に、妖力。
遥明の未来を示す、最も重要な指標だ。
景明の心臓が大きく脈打つ。
【妖力 最下級】
「………………は?」
時が、止まった。
そこに書かれた文字が、景明には理解できなかった。
最下級?
なんだ、それは。
見間違いか?
妖儀の不手際か?
最下級とは、文字通り最低の階梯。
陰陽師の家系ですら、滅多に出ることのない才能の底辺。
それは、どれだけ血反吐を吐く努力を重ねようと、生涯をかけても下級にすら上がれないという、絶望的な素質を意味している。
だが、絶望はそこで終わらなかった。
景明の動揺をよそに、筆は最後の項目を書き記していく。
【妖術 反転術式 ―不明―】
「な……んだ、それは……」
景明は、ただ唖然とするしかなかった。
反転術式?
聞いたこともない。
陰陽五行術、陰陽四法術、神通力、どの系統にも属さない未知の術。
そして何より、階梯が『不明』とはどういうことか。
術式適性が不明など、前代未聞だ。
五行や四法にも属さず、神通力でもない。
おまけに妖力は最下級。
これでは、術を使うための燃料(妖力)がなく、使うためのエンジン(術式)も壊れていると言われたようなものだ。
陰陽師の家系としては「無能」の烙印を押されたに等しい。
景明の背後で、控えていた側近たちが息を飲む気配がした。
誰もが、信じられないといった表情で、和紙に記された結果を凝視している。
「ふざけるなッ!!」
怒りが、堰を切ったように爆発した。
「おい! 貴様! これはどういうことだ! 妖儀に間違いがあったのではないか!」
景明は予知の老婆に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
老婆は青ざめた顔で震えながら、か細い声で答える。
「も、申し訳ございません、景明様……。ですが、何度やろうと、神託は……神託にございます……」
「もう一度だ! 今すぐもう一度やり直せ!」
景明の怒号に従い、老婆は震える手で再び呪を唱え、妖儀をやり直した。
だが、宙を舞った筆が和紙に記した結果は、先程と一言一句違わぬ、残酷なものだった。
【妖力 最下級】 【妖術 反転術式 ―不明―】
妖儀は何度も繰り返された。
七度目の結果が出た時、とうとう景明は膝から崩れ落ちた。
伝説の陰陽師・安倍晴明の血脈。
最上級陰陽師たる自分の息子。
世界が待ち望んだ、土御門家の至宝。
その才能は―――観測史上、最低最悪の『ハズレ』だった。
激昂は、いつしか深い絶望へと変わっていた。
彼はただ力なく項垂れるしかない。
ゆりかごの中では、何も知らぬ我が子、遥明が、すやすやと安らかな寝息を立てている。
その寝顔が、今の景明にはひどく虚しいものに思えた。
しかしこの時、彼は知らなかったのだ。
死産だった息子が蘇った理由こそが、その『反転術式』にあることを。
影明が注ぎ込んだ妖力を使い、死という確定した事実を、生へと反転させた奇跡の御業だということを──。




