第7話 揺れる心、離れぬ手
殿下が消えたあとも、アレクシスはわたしの腕を離さなかった。
その手は、氷のように冷たいのに、不思議と心は温まる。
「……あの人の言葉を信じるな」
低く、感情を押し殺した声。
わたしは視線を落とし、指先を見つめる。
「でも……殿下は、わたしを守るために――」
「嘘だ」
鋭く遮るその響きに、胸が揺れる。
アレクシスはわたしを正面から見つめ、静かに言った。
「守るために捨てるような男は、本当に守る気などない」
……そうだろうか。
あの夜の冷たい言葉も、今夜の真剣な瞳も、どちらが本物なのかわからない。
胸の奥で二つの記憶がせめぎ合い、息が詰まった。
「エリシア。もし君が彼を選ぶと言うなら、私は契約を破棄する」
「……え?」
「だが、その場合、ヴァレンタイン家は守れない。それでもいいなら……」
言葉が途切れた。
アレクシスは一瞬だけ視線を逸らし、深く息を吐く。
「……いや、もういい。今は休め」
そう言ってわたしを部屋へ送り届けると、彼は背を向けた。
扉が閉まる音が、妙に胸に響いた。
◆◇◆
眠れないまま迎えた朝。
窓から差し込む光は柔らかいのに、胸の奥のもやは晴れなかった。
「おはようございます、エリシア様」
朝食の席で、クロードが穏やかに声をかけてくれる。
けれど、アレクシスの姿はなかった。
「閣下は?」
「早朝から外出されました。……宮廷か、もしくは――」
言いかけたクロードが言葉を飲み込む。
その表情に、不穏な影が差していた。
◆◇◆
昼過ぎ、温室の外で足音が止まった。
扉を開けると、そこにはクラリッサが立っていた。
「あら、今日は一人なのね」
「何のご用でしょうか」
「別に。ただ……殿下からの伝言を預かっているの」
その名を聞いただけで、心臓が跳ねた。
クラリッサは薄く笑い、紅い唇を開く。
「“君を信じている。必ず迎えに行く”――だそうよ」
「……」
「それと……あまりアレクシス閣下に深入りしない方がいいわ。あの方、婚約者を二度も不幸にしたことで有名なのよ」
その言葉は、鋭い刃のように心に突き刺さる。
だが、詳細を聞く前にクラリッサは背を向け、去っていった。
◆◇◆
夕刻、アレクシスが戻った。
玄関ホールで出迎えると、彼は少し驚いたように眉を上げた。
「どうした? 何かあったのか」
「……いいえ。ただ、帰ってきたのを見て、ほっとして」
自分でも理由がわからない言葉。
けれど、アレクシスは一瞬だけ微笑んだ。
「そうか。……それなら良かった」
彼はそのまま通り過ぎようとしたが、ふいに立ち止まり、振り返る。
「今夜、少し話がある。……必ず来い」
その声はいつになく低く、重かった。
胸の奥で、また何かが揺れ始めた。