第6話 王太子の囁き
青白い光に照らされた夜の庭。
窓越しに見た人影は、間違いなくルシアン殿下だった。
なぜ……どうやって、この公爵家の結界を抜けてここに?
わたしは反射的にカーテンを閉じ、心臓を押さえた。
けれど次の瞬間――
「エリシア……」
耳元で囁く声。
振り返ったときには、殿下がもう部屋の中にいた。
「っ……どうしてここに……!」
「来ずにはいられなかった。君が、あんな男のもとにいるなんて」
月光を背にしたその顔は、記憶の中の優しい微笑と同じだった。
だけど、もうわたしは簡単には信じない。
「帰ってください。あなたとは、もう――」
「待て。全部、誤解なんだ」
その言葉に、息が止まる。
殿下は一歩近づき、低く続けた。
「クラリッサとの婚約は、君を守るためだった。……あの時、王宮には君を狙う勢力がいた。君を遠ざけなければ、命が危なかった」
「……守るため?」
「そうだ。私は……ずっと君を想っていた」
真剣な眼差し。
あの日の冷たい言葉も、すべては芝居だったのだと彼は語る。
胸の奥で何かが揺れた。
――もしかして、本当に?
「アレクシス・レーヴェンタールは危険な男だ。彼は自分の目的のためなら、君を利用する。君の力が目当てなんだ」
その台詞は、初めて会った夜にアレクシスが言った「愛情は求めない」という条件と重なってしまう。
確かに、彼はわたしの魔力を必要としている……。
「私のそばに戻ってこい。君を守れるのは、この国の王太子である私だけだ」
差し出された手が、月明かりに浮かぶ。
指先まで知っているその形が、過去の甘い記憶を呼び覚ます。
――その時。
「……何をしている?」
低く冷たい声が、背後から響いた。
振り返れば、扉の前にアレクシスが立っていた。
氷のような蒼い瞳が、殿下とわたしを射抜く。
「侵入とは、随分と無礼だな……殿下」
「無礼をしているのはそちらだ、アレクシス。エリシアを危険に晒すなど、王家への反逆に等しい」
「危険に晒しているのはお前だ。……その足で、今すぐここから消えろ」
二人の間に、張り詰めた空気が流れる。
魔力の気配すら漂い、呼吸が苦しい。
「エリシア、君は……どちらを信じる?」
殿下の問いかけが、胸に突き刺さる。
信じたい言葉と、信じるべき行動――どちらを選べばいい?
「答える必要はない」
アレクシスが一歩踏み出し、わたしの腕を引いた。
その手の力強さに、思わず体が傾く。
「彼女は、私の妻だ」
冷徹な宣言。
けれど、わたしの耳には、不思議と温かく響いた。
殿下の表情がわずかに歪み、次の瞬間には彼の姿が光の中へ溶けて消えた。
結界が再び強化され、静寂が戻る。
「……大丈夫か?」
「……はい」
本当は心臓が激しく打っている。
でも、アレクシスの手がまだ離れないことが、その鼓動を少し落ち着かせていた。