第5話 罠の始まり
クラリッサが去ったあとも、図書室の空気は重く淀んでいた。
アレクシスは棚の本を一瞥し、わたしの前に立つ。
「何を言われた?」
「……ただの、挨拶です」
その一言で済ませた。
あの女の挑発を口にすれば、アレクシスは間違いなく動く。
それが狙いかもしれない――そう感じたから。
「そうか。……だが、彼女には気をつけろ」
低く、鋭い声。
アレクシスの蒼い瞳がわたしを射抜く。
胸の奥で、なぜか安堵の熱が広がった。
◆◇◆
その夜。
屋敷の食堂は長いテーブルの中央だけに灯りが落ち、銀食器が静かに輝いていた。
向かいに座るアレクシスは、淡々と食事を口に運び、ほとんど会話をしない。
「……あの、今日は宮廷へ行かれるのですか?」
「行く必要がある。暴走体の件で、魔術師団と情報を交換する」
「……王太子とも?」
「避けられぬだろうな」
その一言で、食欲がすっと引いていった。
殿下と再び会う日が近づいている――そう思うだけで、胸がざわめく。
◆◇◆
翌日。
アレクシスは朝から王宮へ向かい、屋敷にはクロードと数人の使用人だけが残った。
わたしは庭を散歩し、温室の前で足を止める。
色とりどりの花々が咲き乱れるその奥に、人影が見えた。
「まあ、やっぱりいらしたのね」
――クラリッサ。
柔らかなドレスに身を包み、手には籠を抱えている。
中には色鮮やかな果実が詰まっていた。
「お礼を持ってきたのです。昨日はご挨拶だけで帰ってしまいましたから」
「お気遣いなく」
「遠慮なさらないで。ほら、こちらの果実は疲労回復に効くのですって」
そう言って差し出された籠。
けれど、その果実から漂う甘い香りに、どこか不自然な刺激を感じた。
――これは、ただの食べ物じゃない。
「申し訳ありませんが、いただけません」
「あら、どうして? 公爵閣下もお好きだと伺いましたのに」
意地悪く笑うその目が、真実を物語っている。
毒か、それに近い魔術的な細工が施されているはずだ。
「お帰りください、クラリッサ様」
毅然と告げると、彼女は肩をすくめて温室を出て行った。
しかし、その足取りには余裕があり――すでに何か仕掛けを終えた者のそれだった。
◆◇◆
夕刻、アレクシスが戻るなり、屋敷に異変が起こった。
台所から上がる叫び声。
駆けつけると、料理長が床に倒れ、全身から冷たい汗を流している。
「魔力干渉による中毒だ」
アレクシスが料理を検分し、即座に診断を下す。
その皿の上には――温室で見た果実があった。
「……あなたが狙われたのだな」
「……はい。クラリッサが、今朝、持ってきました」
告げると、彼の瞳が鋭く細められる。
「次に同じことがあれば、遠慮なく排除する」
その声音に、背筋が震えた。
彼は静かにわたしの手を取り、その甲に触れる。
「君は私の妻だ。契約でも、形だけでも関係ない。守ると決めた」
低く、確信に満ちた声。
その瞬間、胸の奥で何かが揺れ動いた。
◆◇◆
だが、アレクシスの言葉がまだ耳に残っている夜更け――
窓の外に、またあの青白い光が漂い始めた。
今度は、獣ではなかった。
人影だ。
その瞳が、真っ直ぐにわたしを見つめていた。
――ルシアン殿下。