第3話 氷の公爵と、初めての夜
客間に案内され、豪奢な天蓋付きのベッドと暖炉のある室内を見渡した。
侯爵家の屋敷よりも広く、贅沢なはずなのに……どこか空気が冷たい。
「ここが今夜から君の部屋だ。何か足りないものがあればクロードに言え」
アレクシスは短く告げると、部屋を出ようとした。
その背に、わたしは思わず問いかけていた。
「あの……本当に、愛情は求めないのですね?」
彼は振り返らず、ドアノブに手をかけたまま答える。
「求めない。だが、守ると決めた以上、君に危害が及ぶことは許さない」
低く落ち着いた声が、静かに胸に響く。
わたしは言葉を失い、ただ彼の背中を見送った。
◆◇◆
湯浴みを終え、ベッドに身を横たえる。
厚いカーテン越しに、遠くの鐘の音が聞こえる。
婚約破棄から数時間で、わたしは公爵家の妻になってしまった――この現実が、まだ夢のようだった。
そのとき。
――ドンッ!
窓ガラスが強く揺れた。
思わず起き上がり、カーテンを開くと、夜の庭に不気味な青白い光が漂っていた。
「……魔力?」
身を乗り出した瞬間、光が渦を巻き、巨大な影が現れた。
それは四足の獣の形をしているが、目は赤く爛々と輝き、口から黒い霧を吐き出している。
――魔力暴走体。
わたしは息を呑む。
魔術の訓練で本だけは読んだことがあるが、実物を見たのは初めてだ。
「エリシア、下がれ!」
背後から鋭い声。
振り返れば、アレクシスが杖を手に駆け込んできた。
その瞳は氷の刃のように鋭く、魔力の奔流が全身からあふれている。
「防御結界を張った。君は絶対に外へ出るな」
「でも……あれは、わたしの魔力で鎮められるはずです!」
言葉が口をついて出た。
自分の力を使えば、戦わずに済むかもしれない。
けれど、彼は首を横に振る。
「駄目だ。君の力はまだ制御が甘い。無防備な状態で接触すれば、逆に取り込まれる」
その言葉と同時に、彼は結界を解き放ち、外へ飛び出した。
◆◇◆
窓越しに見るアレクシスの戦いは、まるで氷雪の嵐だった。
杖の先から放たれた魔力が獣を凍らせ、黒い霧ごと封じ込めていく。
しかし、暴走体は咆哮を上げ、氷を砕いて襲いかかった。
――あのままでは危ない。
理性より先に、体が動いていた。
わたしは結界の残滓をすり抜け、庭へ飛び降りる。
足元に魔法陣を描き、両手を獣へ向けた。
「……眠って」
掌から柔らかな光が溢れ、獣の赤い目が徐々に閉じていく。
黒い霧が晴れ、影はゆっくりと形を失い、消えた。
静寂が戻る。
だが次の瞬間、アレクシスが振り向き、険しい顔でわたしに歩み寄った。
「……命令に逆らったな」
低い声が、夜気よりも冷たく響く。
叱責されると思い、唇を噛んだそのとき――
彼の手が、わたしの肩に置かれた。
「……だが、助かった」
驚いて顔を上げると、彼はほんの僅かに口元を緩めていた。
その表情に、胸の奥が不意に熱くなる。
「次は必ず、俺の指示を待て。……我が妻よ」
その一言が、耳から離れなかった。