第29話 灰霧の魔
翌朝、まだ太陽が森の端から顔を出したばかりの頃だった。
遠くの地平線に、灰色のもやが立ち上っているのが見えた。
それは風に流れるでもなく、じわりじわりとこちらへ迫ってくる。
「……灰の霧だ」
ルシアンが剣の柄を握りしめる。
「峡谷まで行かずに、もうこっちまで来てるなんて……」
ミレーユが短く息を呑んだ。
「普通はあの霧の中に入った者しか襲われないのに……」
◆◇◆
わたしたちは馬を降り、武器を構えた。
霧はやがて道を覆い、足元が見えなくなるほど濃くなる。
鼻を刺すような金属臭が漂い、耳鳴りのような低い音が響き始めた。
その時――霧の中から、影が動いた。
◆◇◆
四つ足で這うような巨体。
皮膚はひび割れた灰色の石のようで、目は燃えるように赤い。
口を開くと、牙の間から灰色の煙が漏れ出す。
「《灰霧の魔》……!」
ミレーユが呟くや否や、魔物が咆哮し、一直線にこちらへ飛びかかってきた。
アレクシスが剣を振るい、ルシアンが横から切り込む。
金属と石のぶつかる鈍い音が響くが、魔物は怯むどころかさらに動きを早めた。
◆◇◆
その瞬間、胸の奥から熱が溢れ出した。
視界が赤く染まり、耳元で囁きが響く。
『……貸せ。お前では間に合わぬ』
気づけば、わたしの身体は勝手に前へと踏み出していた。
両手が見知らぬ形で動き、地面に複雑な紋章を描く。
紋章から蒼い炎が噴き上がり、魔物の動きを封じた。
◆◇◆
アレクシスが驚きに目を見開く。
「エリシア……それは……!」
けれど、わたしは何も答えられない。
今、わたしの口から漏れたのは、自分のものではない低く冷たい声だった。
『鎮まれ』
その一言と共に、蒼い炎は魔物を包み込み、灰となって霧に溶けていった。
◆◇◆
次の瞬間、視界が揺れ、膝が崩れた。
アレクシスが慌てて抱きとめる。
「……エリシア! 今のは――」
彼の声を聞く前に、意識は闇に沈んでいった。