第27話 殿下の影
灰の峡谷へ向かう道は、南に伸びる一本の街道しかない。
森と丘陵が交互に続き、木漏れ日が道にまだら模様を落としていた。
だがその穏やかな風景を、張りつめた空気が覆っている。
――誰かが、つけている。
ルシアンが低く呟いた。
「三……いや、四騎だ。距離を保ってる」
アレクシスは視線を前に向けたまま、短く命じる。
「速度を落とせ。誘い出す」
◆◇◆
やがて街道が森の切れ間に差しかかったとき、前方からも馬蹄の音が響いた。
銀と深紅の軍装。
王家直属の近衛兵だ。
その中央に――一人の青年がいた。
金色の髪を陽光に輝かせ、紫紺のマントを翻す姿。
整った顔立ちに、どこか冷ややかな笑みを浮かべている。
「……殿下」
アレクシスの声が低く沈む。
馬上の青年は軽く手綱を引き、こちらを見下ろした。
◆◇◆
「久しいな、アレクシス」
その声音には、懐かしさよりも計算された響きがあった。
「そして――器」
わたしを一瞥し、口元だけで笑う。
「やめろ、殿下」
アレクシスが一歩、馬を進める。
「彼女を王城に連れ戻すわけにはいかない」
「それはお前が決めることではない」
殿下は微笑んだまま、近衛の一人に合図を送る。
兵士が懐から何かを取り出す。それは――蒼く輝く、もう一つの封印の鍵だった。
◆◇◆
「王家が守る鍵はここにある」
殿下はわたしに視線を戻す。
「そして最後の一つは、お前が呼び寄せる。そうだろう?」
心臓が跳ねた。
わたしが呼び寄せる? どういう意味――。
「封印を開けば、全てが終わる」
殿下の声は甘く、けれど冷たい。
「器、お前はそのために生まれた」
◆◇◆
アレクシスが剣の柄に手をかけた瞬間、殿下は片手を上げた。
「争う気はない。今日は顔を見に来ただけだ」
そう言い、馬を返す。
近衛兵たちも静かに後を追った。
その背中が森に消えるまで、誰も動かなかった。
◆◇◆
「……あれが、殿下」
呟くと、ミレーユが苦く笑った。
「ええ。あの人は、自分のためなら世界ごと秤にかける人よ」
ルシアンが小声で付け加える。
「殿下が動いたってことは……もう猶予はない」
わたしの胸の奥で、再び囁きが響く。
『……灰の門……器……』
それは、殿下の声よりもずっと近くで聞こえた。