第2話 契約の条件
王宮の庭園から歩くこと数分。
アレクシス・レーヴェンタール公爵に案内され、わたしは王宮敷地外の馬車へと乗せられた。
夜風を遮る厚いカーテンの向こうで、車輪の音だけが響く。
「まずは、君に条件を提示しよう」
向かいに座るアレクシスは、月明かりを受けた横顔まで冷たい。
瞳の蒼は、まるで凍りついた湖面のようだった。
「契約期間は一年。その間、形式上は夫婦として振る舞うが――互いに愛情は求めない」
愛情は求めない。
その言葉に、わたしは小さく息を呑んだ。
婚約破棄されたばかりのわたしにとって、それはむしろ都合がいい。
もう誰かを愛するのは怖かったから。
「……愛情を求めない代わりに、何を?」
「君の魔力を、戦争抑止のために使う」
やはり彼は知っている。
わたしが生まれつき、癒しの魔力を持っていることを。
触れた者の傷や病を癒すだけでなく、魔力の暴走すら鎮めるその力を。
「どうして……わたしの力を知っているのですか?」
「調べた。君の母方の家系にだけ現れる稀少な魔力だ。王太子が君を娶ろうとしたのも、それが理由だろう」
胸の奥が冷たくなる。
殿下の優しい笑顔も、支えてくれた言葉も、すべて計算だったというのか。
「君が今夜婚約破棄されたのは……おそらく、王太子が別の方法でその力を手に入れる目処が立ったからだ」
別の方法――
クラリッサ嬢が殿下の隣にいた光景が、脳裏によみがえる。
まるでパズルの最後の欠片が嵌まるように、嫌な確信が形になった。
「条件はこれだけだ。君は一年間、私の妻として公爵家に滞在し、その間に何があっても契約を破棄しないこと。守れるか?」
彼の声には一片の情もない。
けれど、不思議とその冷たさは安心感に似ていた。
見返りに、わたしの家は守られる――それは破滅寸前のわたしにとって唯一の希望だ。
「……わかりました。その条件、受け入れます」
「よし」
アレクシスは短く頷き、革の手袋を外した。
露わになった手が、わたしの右手に触れる。
瞬間、ひやりとした冷気が走り抜け、指先から腕、そして胸の奥へと広がる。
同時に、彼の魔力がわたしを包み込んだ。
「今、この瞬間から君は私の妻だ。契約は魔術的にも成立した」
淡々とした宣言。
それなのに、胸の奥が熱くなるのはなぜだろう。
◆◇◆
馬車はやがて、公爵家の屋敷へと到着した。
夜の闇の中に浮かび上がるのは、黒曜石のように輝く壮大な建物。
門の前に立つだけで、空気がぴんと張り詰める。
「歓迎しよう、エリシア嬢」
執事らしき老紳士が深く頭を下げる。
その背筋は真っ直ぐで、まるで軍人のような威厳があった。
「クロード。彼女は私の妻だ。支度を整えて、客間へ案内してくれ」
「かしこまりました」
そのやりとりを聞きながら、わたしは自分の胸に手を当てた。
確かに、まだ鼓動が速い。
これは恐れか、それとも――。
ふと、アレクシスがわたしを見た。
冷たい瞳の奥に、一瞬だけ柔らかな光が宿った気がして、息を呑む。
――この人は、本当に愛情を求めていないのだろうか。