第16話 森に潜む影
夜が明けきらない薄闇の中、わたしは湖畔の小さな焚き火の前に座っていた。
アレクシスはまだ眠っている。
外套にくるまった彼の呼吸は浅く、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
魔力を使い果たした彼の体は、普通の人間よりも脆い。
それを知っているからこそ、わたしは一晩中眠れなかった。
◆◇◆
火のはぜる音と、湖面を渡る風のささやき。
その静けさの中で、何度も耳を澄ませた。
――足音。
微かに、草を踏みしめる音がした。
森の奥、まだ薄霧が立ちこめる方角から。
わたしは反射的にアレクシスの剣を手に取った。
重みが腕にのしかかる。こんな重い武器、振れる自信はない。
それでも、彼を守るためなら迷っていられない。
「……誰?」
声を低くして問いかける。
返事はない。
代わりに、霧の中で黒い影が揺れた。
◆◇◆
次の瞬間、影が素早く動き、距離を詰めてきた。
心臓が跳ねる。
けれど、相手が霧から姿を現したとき、思わず息をのんだ。
「……ルシアン?」
見覚えのある金髪が朝の光を反射している。
「見つけた」
彼は淡々とした声で言い、視線をアレクシスへ移した。
その目には警戒心が滲んでいる。
「彼は……もう戦えない」
「だからこそ、連れて行くべきだ。殿下のところへ」
ルシアンの言葉に、胸の奥が冷たくなる。
――アレクシスとの約束がよみがえった。
◆◇◆
「……嫌よ」
剣の切っ先を、わずかに彼の方へ向ける。
手は震えていたけれど、引くつもりはなかった。
「エリシア、君は自分が何をしているかわかっているのか?」
「わかってる。わたしはアレクシスを守るって決めたの」
ルシアンは短く息を吐き、腰の剣に手をかけた。
緊張が張り詰め、森の空気が重くなる。
――そのとき。
背後の森から、獣のような低い唸り声が響いた。
霧がざわめくように揺れ、黒い靄が木々の間から溢れ出す。
「くそっ、追ってきたのか……!」
ルシアンの顔色が変わる。
◆◇◆
「話は後だ! 今は逃げるぞ!」
彼はわたしの腕をつかもうとする。
だが、その瞬間、アレクシスの声がした。
「……触るな」
弱々しいけれど、確かな怒気を含んだ声。
彼はゆっくりと上体を起こし、わたしとルシアンの間に立った。
魔力はほとんど残っていないはずなのに、その背中はまるで盾のように頼もしかった。
黒い靄は、確実にこちらへ迫ってきていた――。