第10話 囁く影
戦いの翌朝、屋敷は異様な静けさに包まれていた。
侍女たちは怯えた顔で廊下を行き来し、クロードも口を固く閉ざしている。
朝食の席で、アレクシスは短く告げた。
「昨夜の獣は、自然発生ではない。……誰かが送り込んだ」
わたしはスプーンを握る手に力を込めた。
誰か――そんな言葉を使う必要があるのか。心の奥ではすでに答えが出ていた。
「……殿下、ですか」
アレクシスは視線を落とし、即答はしなかった。
だが、その沈黙が何より雄弁だった。
「理由は不明だが、君が標的であることは間違いない」
心臓が強く打ち、血の気が引く。
殿下が本当にそんなことを――信じたくない。
けれど、昨夜の獣の赤い瞳が、否定を許さなかった。
◆◇◆
昼下がり、わたしは温室で花に水をやっていた。
香り高い白薔薇の前で立ち止まったとき、不意に背後から声がした。
「……まだ、迷っているのね」
振り返ると、クラリッサがいた。
黒いドレスに赤い宝石。夜会でもないのに、あまりに華やかすぎる装い。
「昨夜のこと、聞いたわ。恐ろしかったでしょう?」
「……何が言いたいのですか」
クラリッサは微笑み、白薔薇の花弁を指先でなぞった。
「あなた、知らないでしょう? 殿下がどうしてあなたに執着するのか」
「……」
「“鍵”だからよ。あなたの血に眠る、封印の鍵」
息が詰まった。
クラリッサはゆっくりと視線を上げ、わたしを見下ろす。
「暴走体を制御する古代の封印……それを解くには、あなたが必要。だから殿下は――」
「嘘よ!」
思わず叫んだ。
だが、その声には自信がなかった。
クラリッサは勝ち誇ったように微笑み、薔薇を折り取って立ち去った。
◆◇◆
その夜。
アレクシスは屋敷の書斎で魔術式の破片を調べていた。
わたしは彼の背後で、昼間の会話を告げるべきか迷っていた。
「……エリシア」
「……はい」
アレクシスは椅子を回し、真剣な眼差しでわたしを見た。
「今夜、城に潜入する。昨夜の黒幕を突き止めるためだ」
胸がざわつく。
行かないで、と言いたいのに、声が出ない。
「君には安全な場所にいてほしい。だが……」
彼は一拍置き、静かに告げた。
「君が真実を知りたいなら、一緒に来い」
その誘いは、甘くも危険な闇のようだった。