水が下へと流れるように
北町三丁目の三十五番地。
そこには四階建ての古い分譲マンションがある。
そのマンションの前を通る一方通行の道は、トラック一台は走れる幅がありながら、実は進行方向にある別の道に出る事ができない行き止まりとなるのだ。
時折この道に迷い込んでしまった車は、入り込んでしまった最初の入り口目指し、延々と後退し続ける。道の並びに建つ家々の住人のさらし者なった気がするような、嫌な後退だ。
この嫌な道に足を運んだのは何度目かと、神保秀治は吹き出す汗を拭きながら忌々しいと行き止まりとなっている道の終わりを睨んだ。
実はこの道は地図上では行き止まりなどではない。
この道を挟んだ土地を所有する地主が、ギリギリ境界線まで塀を立ててしまったが故に、車が通り抜ける事ができないのである。
行政指導をするには、地主に問題は無い。
自分の土地に塀を立てているだけで道に侵入など一切していない。
問題は道を管理する行政の方だ。
塀だけならば車は通れる。通れないのはこの道が一通であることを知らせるコンクリートブロック付きの看板、それが邪魔で車の足止めとなっているのである。
「全く」
神保は忌々しいと罵り声を上げる。
エアコンが効いた車でここまで来れれば、と、この道に車で来たがために後退時に自損事故を起こしてしまった自分を呪う。
この道に嵌ってしまった彼は、車を後退させる時にほんのちょっと民家の敷地内に入ってしまった。
野辺、という一戸建ての個人宅だ。
その時に、野辺家の前に置いてあった古ぼけた金属製のバスタブに車の後部がぶつかり、そのバスタブを横倒ししてしまったのである。
野辺はバスタブを蓮の花のためのプランターにしていた。
そのため、茶色くなった流木のようなものと大量の泥がぶちまけられ、大き目のフナがびちびちと跳ねる、そんな大惨事となってしまったのである。
他家の敷地に侵入した上に器物破損の自損事故。
神保はパニックとなりながらも、警察を呼んだ。
パニックだったからこそ、警察を求めたのかもしれない。
それから今日は何回目の呼び出しだろう、そう考えて神保は今度は大きく溜息を吐いた。神保は警察から検証のために現場に何度も呼び出されているが、その度に野辺家でも自宅でも、倒してしまったバスタブについて何度も何度も持ち主から罵られてもいるのだ。
どうしてくれる、どうしてくれる、と。
野辺佳造。
十年前に退職した後は悠々自適に草花を育て、近所の家の庭にある植木の手入れを手伝ったりなどしていた、この町の有力者だ。
お前のせいで。
お前があれを台無しにしたから、警察が来ちゃったじゃないか。
母さんも息子もみんな迷惑しているじゃないか。
「申し訳ありません。何度も何度も」
スーツを着た男性が神保に向かって頭を下げた。
神保は警察官に、かまいませんよ、と笑って答える。
それから彼は真向かいに建つマンションを見上げ、辛いのはあちら様の方でしょうからね、と言った。
「目の前に置いてあったバスタブ。そこに殺された子供の骨が隠されていたなんて、どうして誰も気付かなかったのでしょうね」
被害者は野辺の車に巻き込まれて死んでいた。
当日は突然の大雨があったと記録がある。小さな子供の姿が見えなかったのだろうか。
息子一家の将来と、また被害者が近所の子供であれば自分達がこの場所に住めなくなると考え、野辺は死体を処理して隠してしまう事を選んだのだろう。
「私は、あなたがどうしてこの道に車で入って来たのか、そちらの方が不思議ですよ。あなたもあのマンションに以前はお住まいだったのでしょう?」
神保は、疲れた様にして微笑んだ。
「あそこの行き止まり、あそこをどうして警察が改善しないのか、私はそっちの方が不思議です。あのコンクリブロック付きの看板。あれを何とかすれば車は通れるでしょう?」
警察官は行き止まりとなった道へと振り返り、ですね、と呟いた。
昔ながらの縁起担ぎもありますね、と。
「縁起担ぎ、ですか?」
「縁起担ぎです。住む場所で人を別けていた時代、忌むべきものは封じられねばいけなかった。人でないものは人の住む場所に上がっちゃいけないって、そんな決まりごとがあったんですよ。そして人は暗示にかかりやすい。車が通れないだけなのに、誰も歩いてあそこからあの道に出ようとしない。まるで水が上に昇ろうとしないように」
「そんな。こんな時代に」
「こんな時代でも、あなたには死んだはずの人が憑いているじゃないですか」
神保は疲れたように笑った。
「どうにかなりませんかね。五月蠅いんですよ。俺のせいで女房子供に孫までも、全部死んじまったじゃないかって。全部てめえのせいなのに」
「では、あそこの道を抜けてみたらどうですか? あなたに付いた鬼も剥がれるかもしれませんよ」
神保は、ハハハ、と乾いた笑いを上げた。
雨が降れば風景の中にずぶぬれの息子がいる。
バスタブの中に沈んでいる息子の夢は毎晩だ。
悲嘆にくれる女房を捨てた俺が、鬼となった息子を手放すことなんてできやしない。