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 人間の五感「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」。この中でも私はとりわけ「嗅覚」に敏感な自信がある。と言っても、感覚過敏で体調に異常をきたす訳ではない。

 柔軟剤や香水の匂いも、きつ過ぎなければ好きだ。自分でもお気に入りの香りを纏っていると不思議とテンションが上がるし。そう。簡単に言うと「匂いフェチ」なのだ。

 そんな私が最近頭を悩ませているのは……。

「辻! 報告書15時までに上げろって言っただろ。もう15時過ぎてるぞ!」

 鬼の形相をした一ノ瀬課長の大声がフロアに響き渡る。

「すみませんっ、今送信します!」

 半泣きになりながら書き上げた報告書を慌てて一ノ瀬課長に送信する。


 辻奈々子、二十六歳。私は大学卒業後、匂いフェチには天職であり色々と役得な化粧品メーカーで営業の仕事をしている。

 仕事はとても好きだし、やりがいも感じ始めている。

 しかし、目下の悩みはこの春直属の上司に就任した一ノ瀬課長が……怖いのだ。

 一ノ瀬課長は外資系化粧品メーカーからヘッドハンティングされ、うちの会社へときた、それはもうやり手だ。年齢は私と二、三歳しか変わらないはずなのに、高い身長に彫りの深い端正な顔立ち。その貫禄といったらもう。こうやって檄を飛ばされるのも1日に1,2回では済まされない。

 だけど……。怖いんだけど……。

 一ノ瀬課長からはいつも良い匂いがするんだよなぁ。ふいに近付くとふわっと香るその良い匂いが、怖いと思う感情を和らげてくれることが多い。

「辻、さっきの報告書良く出来てた。俺今から帝都百貨店に行ってくるから後よろしくな」

「はい、かしこまりました! いってらっしゃいませ!」

 直立して敬礼までする私に、軽く笑みを浮かべながら颯爽と私のデスクの横を通り過ぎて行く際、やっぱり一ノ瀬課長からは何とも言えない良い香りが漂ってきた。何だろう、柔軟剤かなぁ。香水かなぁ。職業柄、匂いに関する情報にも疎くはないはずなんだけど一ノ瀬課長から香る匂いはどこの香水とか判別出来ないんだよなぁ。それがちょっと悔しい。

 そんな事をぼんやり考えていると、自然と手が止まってしまっている事に気付く。

 いけない、こんな調子じゃまたいつ一ノ瀬課長にどやされるか分かったもんじゃない!

 意識をパソコンのキーボードに集中させ、慌てて残りの仕事に取り掛かった。

 あー、今日も我ながら頑張った。そこそこに残業をすませ、そろそろ帰るかとパソコンの電源を落とし、首と肩の凝りを腕を回してほぐしていく。身支度を調え、会社のエントランスを出ると「おー、奈々お疲れ。お前も今帰り?」聞きなじみのある男にしては高音な声に、嫌々ながらも振り返る。

「気安く奈々って呼ばないでって何回言えば理解するの、泉!」

 同期の泉優樹だ。

「仕方ないじゃん、お前、実家で飼ってる犬の”ナナ”に似てるんだもん」

「どこが仕方ないのよ、全っ然理由になってないし!」

 自分の方が垂れ目で童顔の断然子犬っぽい見た目しているくせに、泉は私の事をこうやっていつもからかってくる。失礼な奴だ。

「まぁそう目くじら立てんなって。そういや、奈々は今度の同期会来るよな?」

「……。行くけど?」こいつに呼び方についてこれ以上言及してもはぐらかされるのはもう分かっているから相手にするだけ無駄だ。

「楽しみだな! 同期会も久しぶりじゃね?」

「まぁ四年目にもなると皆それぞれ忙しそうだもんね」

 何となくなりゆきで泉と肩を並べて駅まで向かう。

「だなー。幹事の阿部がなんか同期会で重大発表する、とか意気込んでたぜ?」

「え? まさか、阿部君会社辞めちゃうの?!」

「わっかんねー。けど、阿部の様子だと付き合ってる彼女と結婚の可能性もあり得るくない?」

「そっちなら全然良いんだけどさ-。もし辞めるとか言い出したら悲しいかも」

「俺は辞めないから安心して、奈々」

「どうだかね。そう言ってる人ほどあっさり辞めていったりするじゃん」

「俺、奈々には嘘つかないよ」

 不意に真剣な泉の瞳とかち合ってドキリとする。

「なんてな。じゃあ、俺こっちだから。また」

 駅に着いた私達。泉は自由気ままに自分の路線の方へと踵を返していく。ああやって泉は気まぐれに私の心をかき乱すような事を言ってくる天然タラシだ。だから私はあまり泉と近付きたくない。昔の傷を思い出すから。泉のつけているムスクの香水が、私の古傷をえぐってくる。余計に近付きたくない。スーツの似合う泉の華奢な背中を見つめながら、私はきっと苦虫をかみつぶしたような表情をしていただろう。


 

 * * *

 

 

 一人暮らしの家に到着してのんびりしていると、スマホが震えている事に気付く。母からの着信だ。一ノ瀬課長に怒られるのは日常茶飯事だとしても、帰りに泉と会うは、母から着信がくるは、今日は厄日かな。嫌々ながらもスマホをタップすると、「もしもし」を私が言う前に母の声が聞こえた。

「もしもし? 奈々子? あなた、年末の詩歌の結婚式にはちゃんと帰って来て出席するんでしょうね? 妹からの結婚式の招待にいつまでも返事しないなんて相変わらず失礼な子ね」

「ごめんなさい、少し仕事が忙しくて返事が遅くなって……」

「言い訳はやめてちょうだい。詩歌はあなたより忙しい研修医をしているのにしっかり結婚式へ向けて準備しているのよ? あなた姉として恥ずかしくないの?」

「ごめんなさい……」心が急速に冷えていく気がした。

「詩歌には私から出席だと伝えておくから、これ以上詩歌の迷惑にはならないようにね!」

 言いたい事だけを言って切れた電話にため息を吐きながら、スマホを机の上に置く。母のああいう物言いにはもう慣れっこだ。

 人は生まれながらにして不平等だと、私は痛いほどに知っている。私には一歳違いの妹、詩歌がいる。同じ両親から産まれたというのに、昔から母は何故か詩歌ばかりを可愛がる。

「詩歌は綺麗な顔立ちをしているのに、奈々子はねぇ」

「詩歌は勉強が出来るうえに運動も出来て凄いわね。それに比べて奈々子は誰に似たんだか」

 お母さん、なんで詩歌ばっかり見るの?

 お母さん、私の方も見てよ。

 父親にもそれとなく相談した事は何回もあったけれど、困ったように眉を下げるだけではっきりとした理由は教えてくれなかったし、母親の妹に対する猫可愛がりを止めることも無かった。だから、家族というものに対して期待する事をやめるのは人より早かったように思える。思春期や反抗期というよりも無関心。私の家族は父と母と妹が居るけれど、それは形だけで誰も私の事なんて興味はない。

 そう見切りをつけてからの行動ははやかった。

 家から通えない大学に猛勉強の末進学し、バイトを必死にして生活費を稼ぎ自立を目指した。バイトと勉学の両立は厳しかったけれど、それでも一人で築き上げた城では実家にいる頃とは違い、深い呼吸が出来た。自分の力で自分の生活を守れる実感が出来た時、私は家族と距離を置く術を得たと思えた。

 それ以来、片手で数えられるくらいしか実家には帰っていない。

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