第三十一章 隠された刃(第三話)
蒼耀の腕の中は、酷く温かかった。
粉々になりそうな自分を、壊れないようにそっと包み込んでくれているようだった。
何も考えなくていい。
赤子のように、ただ守られる。
それが、こんなに心安らぐものとは――。
忘れていた感覚に、陶酔しそうになる。
ずっとこのままでいたいと、思ってしまう。
どれくらい彼の腕の中にいただろう。
犬の遠吠えを聞かなければ、ずっとそうしていたかもしれない。
「っ! 俺、何して……」
清志郎は、ふらつきながらも、慌てて蒼耀の腕の中から抜け出す。
「も、もう、大丈夫です。とんだ御無礼を……」
「清守……全然、大丈夫じゃないでしょ。ほら、ふらついているじゃないか」
蒼耀の言う通り、清志郎の膝はがくがくと震えていた。
蒼耀に突き付けられた事実に衝撃を受け、限界寸前の精神疲労が、そのまま身体に表れていた。
それでも、蒼耀にこれ以上、頼るわけにはいかない。
「い、いえ、本当に大丈夫ですから」
「その状態で、放っておけって言うの?」
蒼耀は再び、清志郎の身体を引き寄せた。
「そ、蒼耀様! 何を!」
抗議の声は、蒼耀の見た目以上に力強い腕に遮られる。
視界が揺れ、次の瞬間には、蒼耀の背中が目の前にあった。
まさか強引に背負われるとは思わず、慌てて声を上げた。
「待って、お、降ろしてください!」
「いいから。お前が傷つくとわかっていながら、前触れもなく残酷な真実を突きつけてしまったんだ。だから、遠慮しなくていい。彼女の墓は、後で元通りにしておくよ」
「蒼耀様……」
あんなに蒼耀を恐れていたのに。
今の蒼耀は、怖いほどに優しすぎる。
清志郎には、蒼耀が理解できなかった。
彼の行動は、かつて神であった主と、その眷属であった自分との関係を超えているように思えた。
「ああ……昔を思い出すなぁ」
「え?」
「よく、まだ幼かった私を、こうやって背負ってくれたじゃないか」
「私が……ですか?」
「覚えてないのか」
蒼耀の声は、明らかに寂しさを含んでおり、清志郎の胸は、チクリと痛んだ。
「私には両親との思い出がない。姉上達とも、早くに引き離された。正直、寂しかったよ。眷属たちとも、なんとなく上手く距離を取れなかった」
「……そう、だったんですね」
「そんなときだった、お前が来てくれたのは。何故だろう。お前には壁のようなものを、最初から感じなかった。お前は特別だった」
「蒼耀様……」
今の蒼耀の言葉に、嘘があるとは思えなかった。
(俺は、何故、この方を……)
昨夜見た夢の一部が蘇る。
『清守……信じて……たのに……』
清志郎の脳内で再生された蒼耀の声が、血まみれの手が、肺を圧迫するように迫ってきた。
次第に息が荒くなる。
蒼耀も清志郎の異変にすぐさま気づき、立ち止まって、背中の様子を窺った。
「どうした? どこか苦しいのかい?」
「……蒼耀……様、私は……私は……怖い、です……」
「怖い? ああ、この村のことを、これ以上知りたくないんだね」
「いえ……貴方様に……刃を振るった……わけを、思い出す、のが……」
「清守……」
「お、お許しを……」
蒼耀は、清志郎を背負い直し、再び歩き始めた。
「……言ったろ、清守。お前を恨んでないと。私が理由を知りたいのは、わだかまりを取り去り、昔のように、お前と一緒にありたいだけなんだよ」
「……」
昔のように――。
自分はこれから、蒼耀のために生きていくのだろうか。
それは、当然といえば当然のことだ。
だが、紗世と道善のことを、このままにしておくわけにはいかない。
村のことも気になる。
(俺は、何からどうすれば……)
ふと、蒼耀が話題を切り替える。
「それにしても清守、なんでこの寺にいるの? 姉上が怖いのかい?」
(『姉上が怖い』だって? 今世において、蒼耀様の姉君にお会いしたことなんて……)
「どういう意味です?」
「あれ? 違うのか。私はてっきり、姉上の傀儡にならないように、姉上への結界が一番強いこの寺に逃げ込んだのかと思ったよ」
「く、傀儡? 結界って……一体、何の話です?」
「さては、姉上に記憶を消されたな。姉上がお前をどう使おうとしているのか心配だが、私もこの村には罰が必要だと思っている。その点は、姉上と同じ考えだ」
「む、村に……罰を?」
「ああ。でも安心して。お前を姉上の傀儡なんかにはしない。お前は、姉上のものじゃない。私のものだ。そうだろう?」
「……は、はい……」
今の清志郎は、とりあえず、そう答えるしかなかった。
(神は余程のことがない限り、人間界に介入などしない。この村は、裏で何をしているんだ。それに、俺を使うだって? 傀儡って……)
「あ、あの……村に罰とは、姉君は一体何をなさろうとされているのですか?」
「さぁ、それは、姉上がお決めになることだからね」
「何故、私を使うのですか? まさか! 私を恨んでいらっしゃるから、私に村の人間を殺させようと?」
「まぁ、それもあるだろうね」
「なっ!」
(冗談じゃない! そんなことできるわけが……っ!)
紗世や宗真の顔が浮かぶ。
紗世はともかく、宗真はこの村の秘密を知っているようだった。
友を斬るなんて、とてもじゃないが、できない。
(お、落ち着け。あの蒼耀様の口ぶり。他にも理由があるはずだ。聞き出さなければ!)
「それもあるとは……他にも理由があるのですよね?」
「聞きたい?」
「……お願いです。教えてください」
「まぁ、いずれ知ることになるからね。それなら、今、種明かししても問題ないか」
蒼耀は、また立ち止まった。
そこはもはや墓地ではなく、寺や座禅堂、庫裏がある敷地だった。
「私の視界を一時的に貸すよ。よく見てみるといい」
「え? ……っ!」
清志郎は息を呑んだ。
一瞬にして、自分がいる場が変わったのかと思った。
敷地内の建物、特に本堂には、びっしりと赤く光る文字が浮かび上がっていた。
「これは……結界!」
「そう、あの赤く光る文字の所には、実際には護符が貼られている。姉上の力を無効にする護符がね」
「き、気づかなかった」
「人目につかないよう、壁と壁の間や、床下、屋根裏などに貼られているんだよ。ここほどではないが、村のあちこちに同じようにね」
清志郎の視界が元に戻り、赤い文字は見えなくなった。
「つまり、姉上とその眷属たちは、この村に手出しすることができないんだ」
「それで、私を傀儡にして、村中の人間を斬り殺す? でも、その私を操る力は、姉君のお力ですよね? なら無理ですよ。この護符の結界がある限り、できっこない」
清志郎は震える声で、自分に言い聞かすように、考えを口にした。
「そうだね。お前の言う通りだよ。姉上だけの力ならね」
背負われていて、蒼耀の顔は見えない。
しかし今、彼が不気味に笑った気がした。
自分には決して向けない、蒼耀の裏の顔。
それを背後から、覗き見た気がした。




