第三十一章 隠された刃(第一話)
夕餉を終え、客間へと下がってからも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
以前なら、こんなときはひたすらに素振りをしていたものだが、そんな気にもなれない。
卓上に頬杖をつき、一輪挿しに慎ましやかに飾られた桃の小枝をそっと弄る。
(人殺し、ね……)
その指先で、桃の花が一輪、ぽつりと畳に落ちた。
「……」
清志郎は、それ以上、花に触れるのをやめた。
畳に何をするわけでもなく、ごろんと寝転がる。
(遅いな、宗真。まだ帰らないのか? まさか、紗世の具合でも悪くなったか……?)
思考は、勝手に悪い方へと傾いていく。
どうにも落ち着かない。
(少し早いが、布団でも敷くか……)
清志郎がそう思い、身を起こしたときだった。
足音が近づいてきて、襖の向こう側で止まる。
「清志郎、私だ。入ってもよいか?」
(宗真……待ちくたびれたぞ)
「ああ、どうぞ」
清志郎が胡座をかき直したと同時に、襖が静かに開く。
宗真は行灯の灯りを一瞥し、そっと清志郎の前で膝を折った。
「どうだ? 少しは休めたか?」
「ああ、お陰様で。昼まで寝てしまったよ。飯どころか、風呂まで入らせてもらって。宿代を払わないとな」
清志郎はヘラッと笑ってみせる。
「馬鹿、そんなのはいい。それより、紗世ちゃんだ」
一瞬にして、清志郎の顔がこわばる。
紗世は、大丈夫だったのだろうか?
「あ、あれから、また熱が出たのか?」
「熱は上がらなかった。傷口の治療は相変わらず辛そうだが、今日は私の作った粥を食べてくれたよ。道善先生も今日は落ち着いておられた。薬も飲んでくださっている」
「……そうか。よ、よかった。お前の帰りが遅いから、少し心配してたんだ」
宗真の報告を聞いて、清志郎はひとまず胸を撫で下ろした。
「私は、お前のことも気になって、いつもより早く帰ってきたつもりだが?」
「あ……」
宗真の言葉に、恩知らずな自分を恥じる。
そして、もっと嫌だったのは、紗世のことよりも、自分の心のざわめきを落ち着かせるのを優先していたのではないか、ということだ。
「そ、そうだったな。紗世が怪我してから、毎日、朝早く来て、夜遅くまでいてくれたもんな……すまない、宗真……」
「おい、私は責めているわけではないぞ、清志郎。勝手に勘違いするな」
すっかり、しょげ返ってしまった清志郎に、宗真は困惑した。
「お前が道安寺で暫く過ごすことも伝えた。悪いが、蒼耀のことは隠しきれんと思ってな、話させてもらった」
「……紗世は、何か言っていたか? というか、そもそも信じたのか? そんな夢物語みたいな話を」
「正直に言うと、ひどく混乱していたよ。龍之介の火傷も見せ、なんとか納得してもらったが」
「……それが普通だ。いきなり言われてもな」
「まあな。蒼耀の話は私たちのでっち上げで、自分がお前に酷いことを言ったから出ていったんじゃないかと、そう思っているようにも見えた。自分を責めていたよ」
(違うんだ、紗世。お前は何も悪くない。悪いのは俺なんだ。俺なんだよっ!)
気が付けば、清志郎は自分の膝を握り拳で、思いっきり叩いていた。
「清志郎……」
「あ……悪い。つい」
感情的になったことを詫びる。
「刀は取りに行ったのか?」
「ああ、行った。……その帰りに鈴ちゃんに会ってな。紗世の見舞いに行きたいと言っていた。落ち着いたら、教えてくれって」
「わかった。鈴ちゃんには、私から連絡しておく」
一拍置き、清志郎はずっと気になっていたことを口にした。
このせいで、先程から落ち着かなかったのだ。
「……あのさ、宗真。鈴ちゃんの家、何かあったか?」
僅かに間を置いて、宗真が問い返した。
清志郎には、宗真の表情が変わらないのが、逆に不自然に見えた。
「……何か、とは? どうしてそんなことを聞く? 鈴ちゃんの様子でもおかしかったのか?」
「い、いや。鈴ちゃんは普通だ。いつも通りだった。俺が無事だったのを喜んでくれてたし。で、でも……」
もごもごしていると、先を促された。
「どうした? はっきり言え」
「き、喜兵衛さんがさ……」
宗真は、今度は即座に問うてきた。
「篠原家に行ったのか?」
「ああ。鈴ちゃんの荷物が重そうだったから、半分持ってやったんだ。門でちょうど出くわして……べ、別人みたいだった」
「何か言われたのか?」
今思い出しても、喜兵衛の言葉とあの殺気に満ちた視線が、胸に刺さる。
こんなことを話せる相手は、宗真しかいない。
清志郎は思い切って口にした。
「その……『この人殺しどもめ!』って……凄い剣幕で……」
「他には?」
「いや、それだけだ。そ、そりゃ、確かに殺したが、殺らなきゃ殺られてたし。それに、何か引っかかるんだ。浪人たちを斬ったことを言われているんじゃないような……よ、よく、わからんが、もっと別の……」
「よし、わかった。その件は、私から父に報告しておこう。喜兵衛さんがお前に八つ当たりするなんて、よほどのことがあったんだろう」
「や、八つ当たり? けど、『人殺しども』って言ってたのも気になるんだ」
「清志郎、お前が今、気にすべきことは他にあるはずだ」
「そ、そうだけど……喜兵衛さんの俺を見る目は、尋常じゃなかった!」
「喜兵衛さんのことは、父に任せるのが一番だ。随分と話し込んでしまったな。さ、もう寝ろ。お前も、そんなことがあったんじゃ疲れたろう」
「そ、宗真……」
清志郎は食い下がろうとするが、なぜか宗真はいつものように話を聞いてくれない。
いや、もうその話はするなと、暗に言われているようだった。
「ちゃんと寝ろよ、清志郎。じゃあな、おやすみ」
「宗真!」
呼び止める声も虚しく、襖は静かに閉ざされた。
(な、なんだよ! なんなんだよ! 俺に何か隠しているのか?)
清志郎は立ち上がり、行灯の火を吹き消した。
そして、誰に告げるでもなく、闇に紛れて客間を抜け出した。




