第二十九章 追えぬ影(第二話)
夕日が落ちきる前、白い燕は、千凪村の禁足地にある、誰もいない澄斬神社へと降り立った。
人の気配がないことを改めて確かめると、小さな燕の姿は、ふわりと揺らぎ、少女――燕羽の姿へと変わる。
燕羽は足早に、澄斬神社の最奥へ向かった。
この神社には、かつて龍之介と宗真が探し回ったときと同様、隠し扉や仕掛けといったものは一切存在しない。
ただ一つ違うのは、今は、御神体である鏡が、確かに奉られていることだった。
燕羽は鏡の前で恭しく一礼すると、さらに奥、壁際へと歩みを進める。
そこは、一見すると、ただの行き止まりである。
壁以外、何もない。
しかし実際には、人界と神界の狭間にある、澄斬姫の縄張りとも言える異界への入口が存在していた。
壁一面には、人の目には見えぬ、姫神の結界が幾重にも張られている。
燕羽は壁に掌を当て、目を閉じた。
深く息を吸い、静かに気を整える。
「姫神様の眷属、燕羽。千凪村への任務を終え、ただいま戻りました。開門を願います」
しばしの沈黙――。
やがて、燕羽の眼前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
先ほどまで、ただの壁だったはずの場所に、想像もできないほど豪奢な門が姿を現す。
ギィ……と低い音を立て、門が開かれ、燕羽を招き入れた。
門をくぐった先には、大きく煌びやかな鏡と、行く手を阻むように立つ門番の姿があった。
「お帰りなさいませ。ご確認を」
門番に促され、燕羽は鏡の前へ進み出る。
「我が心に邪心なし。姫神様への忠誠、ここに誓います」
鏡に映るのは、いつもの自分の姿。
その奥から、何かに覗き返されている感覚があったが、燕羽は一切動じなかった。
やがて、鏡は柔らかな光へと変わる。
「異常なし。どうぞ、お進みください」
燕羽は一礼し、かつて鏡だったその光の中を通り抜け、澄斬姫の神殿へと足を踏み入れた。
◇
澄斬姫の神殿は、人界にある古びた澄斬神社とは、まるで別世界だった。
大名の城でさえ霞むほどの、豪華絢爛な造り。
侍女たちは燕羽の姿を認めると、静かに会釈をする。
燕羽や巳山をはじめとする、姫神のお気に入りの眷属たちは、この神域においても高い地位にあった。
門番や侍女たちは、人や神と同じ姿をしてはいるが、元より神に仕えるためだけに創られた存在である。
人のような苦労はないが、自由もない。
神に仕えること、それ自体が誇り。
それが、彼らの当たり前だった。
燕羽は広間へと足早に向かう。
「姫様、燕羽、千凪村より戻りました」
「ご苦労だったわね。お入りなさい」
広間には、澄斬姫を囲むように、眷属たちが集っていた。
「何か収穫はあったのか、燕羽」
三十代ほどに見える大男が、待ちきれぬ様子で声を上げる。
「大ありよ! 姫様、私を行かせて正解だったわ! ……とても重要なことなの。だから姫様、少しだけ、落ち着いて聞いてほしいの」
広間に、緊張が走る。
「わかったわ。大丈夫よ、燕羽。話してちょうだい」
澄斬姫は、不安げな燕羽を、静かな眼差しで見つめ返した。
「あのね……清志郎に接触していたのは、亡くなったはずの、姫様の弟君――蒼耀様よ」
「……えっ」
「なに!」
眷属たちが一斉に息を呑む。
澄斬姫もまた、驚きを隠しきれず、瞳を見開いた。
「……蒼耀が……」
確かに、どこか知っている気配はあった。
だが、それは神のものではなかった。
(……蒼耀。あなたも、姉上と同じく、この時代に人として生まれ変わったというの?)
澄斬姫の胸に、言い知れぬ動揺が広がる。
◇
朝比奈家では、玄庵の薬のおかげで、紗世の熱は下がり、ようやく眠りについていた。
それでも清志郎は、一度も顔を見せなかった。
玄庵は、それがどうにも腑に落ちない。
「宗真よ。清志郎はどうした? 紗世がこんな状態なら、飛んで来そうなものじゃが」
「……それが、疲れが溜まってしまったようで」
「寝込んでおるのか? 気になっておったんじゃ。あいつ、儂に何か隠しておるじゃろう」
「あっ、先生!」
宗真の制止も聞かず、玄庵は居間を出て、清志郎の部屋へと向かう。
朝比奈家の造りは、玄庵にとって勝手知ったるものだった。
「入るぞ、清志郎」
返事を待たず襖を開ける。
どころが、そこに清志郎はいなかった。
「……さては。逃がさんぞ、清志郎」
玄庵は、そのまま龍之介の部屋まで踏み込む。
そこにいたのは、龍之介に見守られながら、深く眠る清志郎の姿だった。
「玄庵先生、どうなさった?」
驚く龍之介に、玄庵は言い放つ。
「清志郎は怪我をしておる。昔からそうじゃ。医療費を遠慮して、自力で治そうとする癖がある。寝ておるなら好都合じゃ、全部見せてもらうぞ」
玄庵は遠慮なく、布団をへっぴ返し、清志郎の着物をはだけ始めた。
「先生、待ってくだされ! おい、宗真!」
宗真は、腹の傷を見せていいのかと、龍之介に視線で問いかける。
――だめだ、もう隠せない。
宗真は、諦めたように小さく息を吐いた。
「……なんじゃ、これは……!」
案の定、玄庵の口から、驚愕の声が漏れる。
「仕方ない。玄庵先生は寄合衆の一人だ。紗世ちゃんと違って、澄斬姫のことも知っている。話して問題ないだろう」
宗真は、龍之介の隣に腰を下ろし、低く囁いた。
「それがの、宗真。相手は、澄斬姫だけではなくなった」
「……なに?」
宗真は龍之介を見つめる。
「清志郎は、他の神にも狙われておる」
「……なんだって……!」
予想外の言葉に、宗真は顔色を失った。
そんな深刻な雰囲気の中にいる二人へ、容赦ない怒声が飛ぶ。
「お前たち! 隠していること、すべて吐いてもらうぞ!」
叱られるようなことは何もしていない筈なのだが――。
二人は揃って肩をすくめ、子供のように項を垂れた。




