第二十八章 戻りし髪飾り(第五話)
紗世を龍之介に任せ、部屋を出たが、行く宛てなんて、自室か龍之介の部屋くらいしかない。
トボトボと、居間からの短い距離をわけもわからず移動する。
紗世が投げかけた「どうして?」という言葉が、そのまま自分の胸に突き刺さっていた。
自室に入ると、乱暴に髪飾りを、むしり取るかのように頭から外した。
そして、崩れ落ちるように膝をつき、そのまま畳の上に、寝転び小さく丸まった。
澄への未練で、寝惚けてつけたとは思えない。
澄とのことは忘れていないが、今はちゃんと紗世に気持ちが向いている。
お互いの気持ちを確認し合ったばかりだ。
どんなに記憶を辿っても、自分でつけ直した覚えはない。
ましてや、宗真や龍之介が、自分が寝ている間につけるなんてことも考えられない。
(どうなってんだ? 俺はまた、夢の中にいるのか?)
清志郎の頭は、また激しく混乱の渦に飲み込まれそうになっていた。
澄が自分を案じてくれた品。
誰がみても美しい、乳白色の優しい輝きを放つ玉石。
今、手にとって見てみても、とても呪具などとは思えない。
毎日、献身的に支えてくれた澄の、大人だが少し童顔の可愛らしい笑顔を思い出す。
(確かに俺は、澄さんの想いを断ったけど……それで、澄さんが俺を呪うなんて、有り得ない! 彼女は、そんな人じゃない!)
頭の中で、何度も「澄のせいではない!」と反芻する。
そのとき、聞いたことのある声が、聞こえた気がした。
『私のことを忘れないで』
(こ、この声は夢でみた……)
その声は、夢のときと同じように、あくまで優しいのに、今は背筋をゾッとさせる。
清志郎の足は、ゆっくりと何故か龍之介の部屋へと向いた。
直感――という他なかった。
あれならば、もしかしたら確かめられるかもしれない。
龍之介の部屋の押し入れを開ける。
そこにあるのは、紗凪の鏡台だった。
その鏡台を引き寄せ、自分の鏡が写る位置に固定する。
持っていた手拭いで、鏡の埃を取り払う。
暑くもないのに、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
静まり返った部屋の空気は、じっとりと重く、息苦しい。
心臓が耳元で鳴り響くたび、鼓動の音が頭の中を突き抜ける。
清志郎は、震える手で鏡台を掴むと、ふうっと浅い息を吐き出し、恐る恐る鏡を覗き込んだ。
だが、そこには、髪飾りをつけていない、冷や汗をかいた自分の顔が写っているだけだった。
安堵の溜息をつき、鏡台を片付けようとした、そのときだった。
スッ――。
清志郎の手から、髪飾りが滑り落ちるように消えた。
鏡を見なくてもわかる。
背後に、何かが――いる。
「……っ、ぁ……はっ……」
恐怖で喉が強張り、声が出ない――。
全身が石のように固まり、指一本動かせない――。
息が浅く途切れ、心臓だけが異常な速さで鼓動を刻んでいる――。
初めて斬り合いをした、あのときでさえ、恐怖に耐えながら、この体は動いてくれたのに。
それでも――清志郎は鏡を凝視した。
そこには、自分のものではない「白すぎる手」が写り込んでいた。
顔は自分の顔に隠れて見えない。
しかし、それが誰の手であるか、瞬時に悟った。
その手が、そっと清志郎の髪に触れる。
「ひっ!」
身を固める清志郎の耳元で、吐息とともに声が漏れた。
「なんて声だすの。そんなに驚かせたかい?」
それは、あまりに生々しく、生きている人間そのものの声だった。
「ねぇ、私がこうして、わざわざつけてあげているのに……どうしてすぐ外すの? 悲しいな」
そう言うと白い手は、清志郎の髪を櫛で、丁寧に梳かし始めた。
「……ふっ、くっ!……」
喉がひきつり、声にならない声が漏れる。
全身の力が抜け、膝が震える。
なされるがままだった。
「今度外したら、承知しないよ。見てたんだけど、あの子のせいだよね。……あの子、邪魔だね」
(邪魔……駄目だ! それだけは、絶対に駄目だ!)
何故だかわかるのだ。
自分はもう、この人物の恐ろしい面を知っている。
「……あっ、あっ、あの子は……悪く、ない、んで、す……ど、どう、か、罰、は……罰は、私に……」
恐怖で出ない声を、紗世のために、必死に絞り出す。
背後の人物は、呆れたように溜息をついた。
「相変わらず、馬鹿みたいに優しいんだね。だから、余計心配になるんだよ。ほら、できたよ」
清志郎は、ずっと鏡を見ていた。
瞬きもせぬほどに。
気味が悪いほどに、白い滑らかな手が、自分を世話が焼ける子供のように扱い、髪飾りをしっかりとつけるところを。
「そんなに怯えないで。傷つくじゃないか。……さぁ、私の名を呼んでごらん、清守」
「っ……そ……蒼耀、様……」
「ああ、何百年ぶりだろう。お前に名を呼ばれたのは」
感慨深げに囁くと、蒼耀は愛おしそうに、背後から清志郎の輪郭を指でなぞり始めた。
「……っ!な、何をっ!」
「生まれ変わっても、あまり変わってないと思ってさ。全然違う顔になってしまう人間もいるのに。よかった……清守は骨格から何から、ほとんど同じ。私の記憶のままだ」
蒼耀の指先が、まるで粘土細工を確かめるように、清志郎の頬や顎の輪郭をなぞる。
清志郎の恐怖心は、限界を迎えようとしていた。
(い、嫌だ!嫌だ!嫌だ!……誰か……誰か、助け、て、くれ……)
清志郎の視界が急激に暗くなり、意識が闇に呑み込まれた。
バタン!と大きな音を立てて、その場に倒れ込んだ。
「あれ? どうしたの、清守? 清守?」
「おい! どうした?」
音を聞きつけて、龍之介が向かって来るのがわかった。
「まったく……邪魔ばかり入るな。また来るね、清守」
倒れた清志郎の頬を、そっと撫で、蒼耀は姿を消した。
◇
少し前から、怪訝な表情をしていた澄斬姫を、眷属たちは心配した様子で見守っていた。
ただ、何かを彼女のその神の力で探っていたようなので、誰も邪魔してはならぬと声を掛けずにいた。
だが、たまらず燕羽が尋ねた。
「姫様、何か?」
「誰か、力のある者が、清志郎に精神的に接触したわ。もう去ったようだけど。何のつもりかしら……」
「え? 誰なの?」
「神ではない。邪でもない。何か、とらえどころのない不思議な存在よ。でも、この気配……遠い記憶の奥で、確かに知っている気がするの」
「燕羽が見てこようか? 千凪村までなんてひとっ飛びよ」
「そうね、お願いしようかしら。でも、気をつけるのよ。清志郎の様子を見るだけでいいわ」
燕羽は、本来の燕の姿に早変わりし、千凪村へと向かった。
◇
「清志郎! おい、しっかりせんか! 清志郎!」
押し入れの前で倒れていた清志郎を、龍之介が抱き起こし、呼び掛け続けるが、清志郎はなかなか意識が戻らない。
玄庵を呼びたいところだが、到着したばかりで、紗世の治療に当たっている。
「清志郎! おい、儂の声が聞こえるか? 一体どうしたんじゃ!」
清志郎は、龍之介の呼び声に、まったく反応を示さなかった。
脈はある。
熱もない。
だが、呼吸が浅い。
どこか不自然に乱れている。
その表情は苦悶に満ちていた。
「……悪夢でも、見ておるのか?」
龍之介が、清志郎の顔を覗き込むと、清志郎の唇が、微かに動いた。
「……忘れ……ません……から……」
龍之介は、その言葉の意味を、掴みきれずに眉を寄せる。
「何を、言っておる……?」
返事はない。
清志郎は、深い昏睡の底へと沈んだままだった。




