第二十八章 戻りし髪飾り(第三話)
三月の肌寒い風が吹き抜ける中、玄庵が神妙な面持ちで到着する。
昨日の今日で傷が癒えるはずもなく、熱に浮かされる紗世の顔色は優れない。
龍之介は二人の邪魔にならぬよう、気遣わしげな視線を残してそっと居間を出ていった。
しばらくすると、玄庵が往診に来てくれた。
龍之介は、邪魔にならぬよう、居間を出ていった。
「気分はどうじゃ、紗世。まぁ、良いわけはなかろうが……。昨日に比べて悪化しておる気はせぬか?」
「はい。昨晩は熱が出て辛かったですけど、熱も下がってきましたし」
「やはり熱が出たか。傷も傷むし、辛かったのう。今はどうじゃ? どれどれ」
玄庵は、紗世の額と首に手を当て確認する。
「まだまだ、熱があるのう。何か口にできたか?」
「えっと……」
「白湯は飲ませたんですけど、粥などはまだ……」
紗世が言い淀んだので、清志郎が代わりに答えた。
「食欲がないか。少しずつでも何か口にせねば、体力が落ち、治るのも遅くなるぞ。さて、では昨日と同じように、傷を洗い、薬を塗っていくぞ。今日も、楽なものではあるまい」
昨日の今日だ。
傷の状態が、風間医院での自分のように、劇的に変わっているとは、とても思えない。
昨日の紗世の治療の様子が、脳裏に蘇える。
(紗世はしばらくの間、毎日あの激痛に耐えなければならない。悪いけど……恨みますよ、道善先生!)
内心のドロドロとした気持ちを押し殺し、紗世を励ます。
「紗世、一緒に頑張ろうな」
「うん」
昨日と同じように、清志郎は紗世の背後に回り、彼女の体を支える。
(紗世は……まだ、俺の腕の中にいる。
もう二度と、失わない)
人生はいつ何があるか、どうなるかわからない。
紗世の傷も、今は大丈夫そうだが、感染症にでもなれば、命を落とす可能性もあるのだ。
清志郎は、何よりも失うことが怖かった。
◇
龍之介と宗真が縁側に腰を下ろすと、庭先から冷えた風が吹き抜けた。
三月も、もうすぐ半ばとはいえ、風が吹き抜けるとまだ肌寒い。
龍之介は腕を組み、家の中へ一度だけ視線を向ける。
どうやら紗世の治療が始まったようだ。
緊迫した声が、微かに聞こえる。
「毎日、ああやって薬を塗るしかないのう」
「まぁ、そうなるな。可哀想だけど、あの傷では……。けど、玄庵先生の腕は確かだよ。こんな小さな村に居てくださるほうが珍しいってもんさ」
宗真も龍之介と同じように、声の聞こえてくる居間の方へ、ちらりと視線を向けた。
「清志郎は、腹を貫かれたのにも関わらず、ピンピンしておるのにのう」
溜息混じりの龍之介の言葉に、宗真は呆れたような顔をする。
「りゅ、龍之介ぇ……清志郎の件が異常なんだよ」
「わかっておるわ。つい、紗世さんと比べてしもうてな、奴に起こったことが現実なのか、よう、わからんようになるんじゃ」
龍之介は、縁側に寝転がりながら、吐き捨てるように言った。
宗真にも、その気持ちは、よくわかる。
初日、清志郎は様子がおかしかった。
自分が体験したことが、現実だったのか夢だったのか、完全にわからなくなり、飲み込まれたのだろう。
(あれから頭を整理する時間なと、殆どなかった筈なのに……清志郎、お前はよくやってるよ。私も、しっかりしなければ)
「のう宗真。清志郎は、医者に傷を治して貰ったと言っておったが、実際はどちらだと思う?」
「それは……医者か、澄斬姫かってことか?」
「ああ」
「お前は、どっちだと思うんだよ」
宗真は、逆に聞き返した。
「わからんから、聞いておるのじゃ」
「……なんだよ、お前らしくもない。私は……澄斬姫だと思っている」
「何故だ?」
「いくら蘭学の名医でも、あの傷の治りは、早すぎる」
「何故、澄斬姫はその医者に力を貸すのだ?」
龍之介の質問攻めに、宗真も参ってしまう。
それがわかれば、苦労はないのだ。
「し、知らないよ、そんなこと。龍之介も、もう少し、清志郎から話を聞き出してくれよ」
ふと、龍之介の頭には、今朝台所で見た清志郎の青ざめた顔が浮かんだ。
「うむ。ところで、道善殿はの方はどうだ?」
「清志郎から託された薬は飲んでくれたよ。だが、先生は死ぬ気でそれを口にしている」
「ん? どういうことじゃ。毒でも盛られていると思い込んでおるのか?」
「ああ。澄斬姫がじわじわと自分を殺すか、化け物にでも変貌させるつもりだと……そう考え、飲んでいる。死にたい気持ちに変わりはないようだ」
「じわじわとな。祟り神ともあろうものが、そんな地味な殺し方をするかの?」
「黒川の件を覚えているか?」
「ああ、隣町の化け物になったという、清志郎の知り合いか?」
「そうだ。私も、あの祟り神が先生をゆっくり殺すために、清志郎に薬を持たせたとは思えない。そんなことをしなくとも、先生の余命はあと少しだ」
「化け物にして、清志郎に斬らせるか? ……そうなったら、儂が斬る」
龍之介は、フッと軽く笑った。
「それは、頼もしいな」
宗真は真顔で、龍之介と目を合わせることもなく、どこか遠くを見ている様子で答えた。
◇
玄庵の治療も終わり、居間からは、清志郎と紗世の会話も聞こえなくなった。
紗世が寝たのかと思い、龍之介が部屋の外から声を掛ける。
「清志郎、入ってもいいか?」
「え? あ、ちょっとだけ待て! 待てよ!」
清志郎の裏返ったような声に、眉を八の字にして、龍之介と宗真は顔を見合わせる。
龍之介は、台所での会話を思い出す。
(せ、清志郎ぉ! お前、ついに、紗世さんと!)
急に、ニヤニヤ仕出した龍之介を、宗真は蔑む一歩手前の目で見始めた。
きっと、やましいことを考えているに違いないと悟ったのだ。
「よし! もう入ってきていいぞ」
龍之介と宗真が、居間に入ると、紗世は眠っていた。
清志郎の手には、手拭いが握られている。
龍之介の目は、点になった。
「清志郎、何をしておったのだ?」
「何って、紗世が汗をたくさん、かいていたから、拭いてたんだよ」
「なぜ、儂らを待たせたのじゃ?」
清志郎は真っ赤になって、龍之介を睨みつける。
「き、際どいところを拭いてたからに決まってんだろ! お前なんかに見せられるか!」
やっと合点がいった龍之介は、余計なことを言う。
「ということは、お前は見たんじゃな」
「はぁ! 見てねぇわ! 見てねぇし、まずいところには、触らんように、細心の注意をして拭いたわ!」
「本当か? お前、本当に男なのか清志郎?」
「どういうことだ! このド助平野郎!」
龍之介の言葉に、殴りかからんとする清志郎を、宗真がなんとか取り押さえ、怒りを鎮めようと説得にかかる。
「清志郎、龍之介のおふざけは、今に始まったことじゃないだろ。大人になるんだ。すぐ、挑発に乗るんじゃない!」
「だっ、だって! だってよぅ、あいつ!」
「龍之介には、私からよくいっておくから、お前は一旦自室で休め。夜中はまた、お前が紗世ちゃんについててやらないと」
「で、でもっ!」
「私も、ここにいるから。紗世ちゃんに何かあったら、すぐお前を呼ぶよ」
宗真にそう諭され、正直、自分の疲労も限界だった清志郎は、一度龍之介を睨みつけ、自室へと向かった。




