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第二十八章 戻りし髪飾り(第二話)

紗世の額に残る熱を確かめる指先とは裏腹に、清志郎の心は冷たい恐怖に支配されていた。

意思に反して再び髪に結われていた玉石の髪飾り。

親友である龍之介との軽口の最中ですら、その不気味な存在が頭から離れず、彼の顔から血の気を奪っていく。

白湯を飲み終えた紗世は、再び布団に横になった。

清志郎は紗世の額に手を当てる。

昨晩より下がったとはいえ、思ったとおり、熱い。


「まだ熱があるな……傷は? 痛みが酷くなったりしてないか?」


「痛むけど大丈夫よ。我慢できない程じゃないわ」


(我慢できない程じゃない、か。相当痛むんだろうな。小さいときは、転んだだけで泣いてたくせに。いつから、こんなに我慢強くなったんだ?)


「今日も玄庵先生、来てくださるから。それまで、よく休んでろ。お腹空いたらいうんだぞ」


「うん。清ちゃん、ありがとう」


そう言って微笑む紗世を見届けてから、清志郎は湯呑みを下げに台所に向かった。


(いつから? そっか、紗凪が死んでからか。俺、甘えさせてやれてなかったんだな)


台所には、宗真が道善と紗世のために持ってきてくれた粥があった。


(少しでも、食べてくれるといいんだが)


台所で軽く洗い物をしていると、龍之介が寄ってきた。


「なあ、清志郎」


「ん?」


「お前、紗世さんを呼び捨てするようになったのう」


「なっ!」


龍之介のツッコミに、思わず湯呑みを落としそうになった。


「ど、どうだっていいだろ、そんなこと!」


「昨日の朝、紗世さんに謝りにいったときじゃろ? 何があったんじゃ?」


無駄に勘の良い奴だなと、つくづく思う。


「す、澄さんとの誤解を解こうと思って、ちゃんと言ったんだよ!」


「何と言ったんじゃ?」


「わ、わかるだろ!いちいち聞くなよ馬鹿!……そ、そしたら、その……『紗世って呼べ、敬語もなし』って言われて……」


「ほおぅ。つまり、完全にそういう仲になったわけじゃな。いや、よかったよかった。見ておって、まどろっこしかったんじゃ」


龍之介は、清志郎の隣でくすくすと笑った。


「で、したのか?」


「あん? な、何をだよ?」


「決まっておろうが!」


そう言うと龍之介は、自分の唇を人差し指でツンツンと触ってみせた。

鈍感な清志郎でも、さすがにそれが何を意味するのかは、わかった。


「あ、朝っぱらからするかよ、んなこと!」


「朝とか関係あるか。なんじゃ、つまらん。そこはグイッといかんか!」


「なんだ、そのグイッとって、紗世は酒じゃねぇんだぞ!」


「紗凪さんとはしたんじゃろ? ま、まさかしてないのか?」


「し、し、したわ! それ以上は聞くなよ!」


「はよ、紗世さんにもしてやれよ。こういうのは、男からいかねば。特に今、紗世さんは弱っておる。熱が下がったら……なっ」


「……早く、ないか?」


「あーもうっ! 何を言っておるんじゃ。気持ち的に辛い今だからこそ、具体的な愛情表現が、何よりの励ましとなり、効くのではないか!」


「そういう、ものか?」


「そういうもんじゃ。そう言えば、あの髪飾り、どうしたんじゃ? さては、身につけるなと言われたんじゃろ?」


「……」


清志郎は急に黙り込み、それまで台所を片付けていた手をぴたりと止めた。


「うん? 清志郎?」


「……あ、あのさ……」


それまでニヤニヤと茶化していた龍之介の表情から、すっと笑みが消える。

その瞳は、悪ふざけをしていた時とは別人のように鋭く、清志郎の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。


「どうしたんじゃ?」


「ああ、いや、俺の勘違いかもしれない。またでいい」


軽く笑うと、清志郎は居間に戻っていった。

だが、その顔が青ざめていたのを、龍之介は見逃さなかった。



清志郎は、布団に横たわる紗世の元に戻った。手元に視線を落とした。

白い包帯の下で、指先が微かに震えている。


(……冷えてる)


そう思って、何気なく声をかける。


「寒いのか?」


「え?」


清志郎は、紗世の傷が痛まないようにと、なるべくそっと触った。


「手が、冷たいな」


「……そう?」


「ああ、布団の中に手は入れておけ。冷やさない方がいいぞ。それとも、体全体が寒くなってきたか?たくさん汗をかいたしな」


清志郎の不安気な顔に、紗世は一瞬きょとんとした顔をしたあと、すぐに微笑んだ。


「大丈夫よ。昨日より楽よ。ほら、手も、ちゃんと動くし」


そう言って、包帯の上から指を少し動かしてみせる。

けれど、その動きは、どこかぎこちなかった。


「紗世、まだ二日目だぞ。無理して動かしちゃ駄目だよ」


清志郎は、視線を外したまま、ぽつりと続ける。


「……後で、玄庵先生にちゃんと診てもらおうな。辛いだろうけど、また、薬を塗ってもらわないと」


「うん」


間を置いてから、紗世が小さく言う。


「……清ちゃん」


「ん?」


「もし、もしよ」


紗世がほんの少し、息を整える気配を、清志郎は感じ取った。


「……前みたいに、全部できなくなったら……困る?」


「……紗世」


清志郎は即答できなかった。

やはり紗世は、恐れていた。

たとえ傷が塞がっても、前のように自分の手が動かなかった場合のことを。

部屋の隅で、宗真を待っていた龍之介の眉もピクリと反応した。


「清ちゃんは、私の傷見たよね?わかってるんじゃないの?」


これは、紗世の一生に関わる問題だ。

正直、清志郎は五分五分だと判断していた。

お茶を濁して、この場を収めたとして、やがて真実は目の前にやってくる。

それに、紗世に絶望して欲しくなかった。

結果が、どちらになるにしろ。


「紗世、……正直に言うぞ」


清志郎は少しだけ間を置いて、悲しみを宿さない真っ直ぐな目で紗世を見つめ、少しずつ自分の想いを伝えるように話し始めた。


「手ってのはな、厄介なんだ。筋も、神経も、細かいもんが集まってる」


「う、うん。父に聞いたことがあるわ」


清志郎は軽く頷いた。


「だから……前みたいに、思いどおりに剣が振れない可能性は、ある」


一瞬、言葉を切る。

紗世の顔色が変わるのを、清志郎は読み取った。

きっと、彼女は今、最悪の場合を考えているに違いない。

だが、あえて清志郎は、治るとも治らないとも断言しなかった。


「……でもな」


清志郎は、今度は優しい目で、紗世を見て話を続ける。


「朝比奈心現流は、人を斬るための剣じゃない」


紗世の瞳から、諦めにも似た翳りがすっと消え、戸惑いと驚きが浮かび上がる。

まるで、暗闇の中で一筋の光を見出したかのように、その目は清志郎の言葉を必死に捉えようとしていた。


「子供たちに、教えることがなくなるなんてことは、絶対にないんだよ」


「そ、そう?」


「ああ。もしもの話だぞ。……たとえ手が上手く動かなくなったって、紗世には朝比奈心現流が身に染み付いてる。今までどおり、相手の剣筋は見えるし、紗世の足さばきは男顔負けじゃないか」


「……せ、清ちゃん」


「むしろ、むしろさ……」


清志郎は、少し照れたように、視線を逸らす。


「身体が言うことをきかなくなったからこそ、一番先に、極意に辿り着くってことも……ありえない話じゃない」


最後に、清志郎は付け加えた。


「他の流派が何と言おうが、知ったことじゃない」


清志郎はそう言うと、紗世の冷たくなった手を、自身の両手でそっと包み込んだ。

傷に響かないよう、細心の注意を払いながら。


「……少なくとも、俺は、そう思ってる」


「あ、ありがとう。清ちゃん」


「そ、それに、俺は、料理も裁縫もできる万能な男だ! 紗世が、できない家事は、俺がやればいいだけだ。任せておけ」


プッと、龍之介の笑いを堪えられず、吹き出す声がした。


「な、何が可笑しいんだよ、龍之介ぇ!」


「いや、お前も宗真も、いい嫁になれるなと思ってな」


「はぁ? 何、言ってんだ?」


清志郎は龍之介が何を言っているのか、本気で全くわからなかった。

だが、紗世までクスクスと笑い出す。


「ふふっ、清ちゃん、忘れちゃったの? 宗真さんに求婚したこと」


紗世の言葉に、清志郎は度肝を抜かれた。


「へ? な、な、な、なんだって? どういうことだよ?」


二人は、耐えながら笑い続けている。


「やっぱり、清ちゃんには、お酒は呑ませられないわね。何も覚えてないんだもの」


(さ、酒? あの日だ。村に帰ってきた初日だ。やっぱり呑むんじゃなかった! 何にも覚えてねぇ〜! 何を口走ったんだ、俺はぁ〜!)


後悔の沼に沈む清志郎であったが、怪我をしてから初めて笑顔を見せた紗世に、少しばかり安堵した。

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