第二十七章 髪飾りの呪縛(第七話)
夜通し続いた熱の嵐が去り、白み始めた空から雀の声が降ってくる。
清志郎は、ようやく寝息を立て始めた紗世の傍らで、静かに胸を撫で下ろした。
座ったまま重い瞼を閉じたとき、運命の歯車が再び回りだすとも知らず、彼は懐かしい石の輝きを夢に見る。
チュンチュンと、雀の声がした。
もう日は昇っている。
紗世は夜通し、熱に浮かされていた。
手の傷も疼いたのだろう。
なかなか寝付けない様子だったが、空が白み始めた頃、ようやく眠りについた。
まだ辛そうな顔をしている。
それでも眠れたことに、清志郎は胸を撫で下ろした。
同時に、張り詰めていた緊張の糸がほどける。
清志郎自身も、座ったまま微睡みの底へ沈んでいった。
――
「どうだ、綺麗な石だろう?」
呼び出されて来てみれば、上品な細工の箱の中に、色とりどりの石が詰め込まれていた。
自分の主人に、このような希少な石を集める趣味はなかったはずだが。
「ええ、とても。どうなさったのです? このような高価な石」
「姉上が贈ってくださったんだ。装飾に使えって。最近、私になかなか会えないのを気にしているらしい」
「ああ……どうりで」
やたらと弟想いの姉上様の趣味かと、内心で納得する。
「どういう意味だ? 清守」
「あ、いえ。深い意味などございませんよ。さすが蒼耀様の姉上様は、お目が高い」
とは言ったものの、その姉上様は、自分のような人間が可愛い弟の眷属であることを、快く思っていないように感じていた。
面と向かって言われたことはない。
だが、何となく察することはできる。
彼女は、人間を好いていない――そんな気配があった。
主の蒼耀は、それに気づいているのだろうか。
「ふん、まぁいい。そうだ、この中から一つ、お前にやろう」
「い、いけません。そのような高価な物、いただけません。他の眷属たちにも悪いです」
他の眷属たちとは、うまくやっているつもりだ。
だが、蒼耀の態度は、依怙贔屓と言われても仕方がないほど露骨だった。
仲間との間に亀裂が生じるのは避けたい。
「いいんだ! 清守は特別だから。そうだな、清守に似合いそうなのは……うん、これだ!」
彼が選び取ったのは、柔らかな光を放つ、乳白色の玉石だった。
不純物のない、淡く透き通った色。
「ですから、そのような高価な物をいただく訳には……」
「命令だ。付けろ。私に忠誠を誓っているという証に」
「蒼耀様。証などなくとも、私の忠誠心は変わりません。例え、何があろうとも」
「ふぅ。相変わらずお堅いな、清守は。じゃあ、こう言えばいいのか? 清守は――『私のもの』だという証だ」
「はあ……また、そういう訳のわからないことを」
言い出すと聞く耳を持たない。
長い付き合いで、よくわかっている。
思わず溜息が漏れた。
「私はお前を気に入っているんだよ」
「はいはい、有難き幸せにございます」
そのときの、淡く白い玉石は――自分にとって、主からの信頼の証でしかなかった。
何だかんだ言いながら、正直、嬉しかった。
――
「……郎、清志郎、寝ているのか?」
座ったまま、ぐらりぐらりと揺れていた清志郎に、囁きかけたのは宗真だった。
清志郎は、小さく身じろぎして目を覚ました。
「……ぅん? そ、宗真? お、俺、寝ちまったのか! 紗世は?」
「静かに。紗世ちゃんは眠ってるよ。大丈夫だ」
急いで紗世の顔を覗き込む。
まだ熱があって辛そうだが、どうやら山は越したようだ。
悪化していないことに、ほっと胸を撫で下ろした。
「お前も今のうちに食べて、紗世ちゃんが起きるまで少しでも休め」
宗真は笹の葉に包まれた握り飯を手渡してくれた。
寺から持って来たものだろうに、まだ温かい。
わざわざ、温め直してくれたのだろうか。
今は、この温もりがありがたかった。
「朝から悪いな、宗真」
「夜中、どうだった?」
湯気の立つ茶を注ぎながら、宗真は尋ねた。
「玄庵先生の言う通り、かなり高い熱が出てな。傷の痛みと重なって、相当辛そうだった。明け方まで、ほとんど眠れなかったさ。うわ言で『父上、どうして』って、何度も言ってた」
「辛い夜だったな」
宗真の言葉に、清志郎は視線を下げた。
「意識があるときにも聞かれたんだ。俺、答えられなかった」
「わからないことを、無理に答える必要はないさ。正直、私も驚いた。道善先生ほどの人が、あのようなことをするとは……」
「宗真。実はな……先生は、俺と話をした後から様子がおかしくなったんだ。俺のせいかもしれない」
宗真は内心で思う。
(龍之介め、よく見ている)
「お前の腹の傷のことは、龍之介に聞いたよ。正直に言うと私も、そんなことがあるのかと驚いた。だが、驚くだけだ。それが元で、自分がどうかなったりなどしない」
「宗真……」
「実はな清志郎。お前に言おうか迷っていたことがある」
宗真は茶を一口啜り、続けた。
「道善先生は、以前から食事や薬を抜くことが多かった。長い闘病で、かなり悲観的になっていたようだ。栄養が足りなければ、心も弱る」
「……」
「お前が行方不明になったとき、それが顕著になった。父が見舞いに行ったとき、意味の通らないことを口走っていたそうだ。玄庵先生の言う余命も近い……その兆しだろう」
余命――。
清志郎の胸が、どくりと強く鳴った。
本来なら、今すぐにでも、風間の元へ行き、金を稼がなければならない状態だ。
本当は、治療費を返すためではなく、道善の治療費を稼ぐためだとは、宗真にも龍之介にも言っていない。
言ったところで、今は紗世の看病で動けない。
(くっ、一体どうすれば。このままじゃ、間に合わなくなっちまう!)
小さくとも、せっかく灯った蝋燭の灯りを、消したくはなかった。
「先生のことは、私と龍之介に任せておけ。お前は、紗世ちゃんに集中しろ。それが今のお前の役目だ」
宗真は清志郎の目をしっかりと見て言った。
宗真の言う通りだ。
今はそうするしかない。
「ああ……頼む。帰ってきたばかりで、迷惑ばかりかけてすまない」
清志郎は、宗真に頭を下げた。
「おい、やめろ。そんな仲じゃないだろ?」
お前も飲めよと勧められ、清志郎もお茶を口にした。
冷えた体に、熱いお茶が染み渡る。
「清志郎、嫌なら無理にとは言わないが……。腹の傷、私も見せてもらえないか?」
「ああ、構わない」
清志郎は着物をはだけた。
宗真は平静を装い、傷跡へ視線を落とす。
「……」
腹だけではない。
背から腰にかけても、同じ位置に痕がある。
正真正銘、腹を貫かれた傷だ。
「触ってもいいか?」
「ああ」
幻ではない。
塞がった肉の感触が、確かにそこにあった。
「もう、痛まないのか?」
「昨日、走ったけど、殆ど痛まなかった。あっちにいた最初の頃は、傷が塞がっているとはいえ、中の方は痛んだがな。今は、ほぼ治っちまったように思える」
「……そうか」
「なぁ、宗真。紗世の傷は、残るだろうか?」
清志郎は着物の着崩れを直しながら、頭に引っかかっていたことを尋ねた。
「玄庵先生には、お前を見てくれた医師のような特別な技術はない。まぁ、残るだろうな」
女の子だから……と言いかけて、宗真は口を噤んだ。
(紗世の手の傷も風間先生なら……しかし、今は道善先生が先だ。風間先生にもらった延命の薬だって、どれほど効くのか……とにかく時間がない。ああっ!もう、どうすりゃいいんだ!)
清志郎は、無意識に頭を抱え始めた。
宗真は、清志郎が余程複雑な事情を抱え込んでいるのだろうと推測した。
こちらが全てを明かしていないように、彼もまた、その可能性があると考えるべきだろう。
お互いを思い合っているのに、嘘を付き合っている。
それが後々、お互いの関係に響かないか、宗真は危惧していた。
「じゃあ、また後でな。龍之介にも朝飯を持っていくから」
「頼むよ。あいつも腹を空かしているだろうから。あと、先生にあの薬を」
「わかってる。ちゃんと覚えてるよ」
宗真は静かに部屋を出て行った。
清志郎は、龍之介が敷いてくれていた布団に、初めて横になる。
深く眠らぬように――そう思いながらも、意識はすぐに闇へ沈んでいった。
◇
どれほど眠ったのか、わからない。
隣で、堪えるような声がして、清志郎は飛び起きた。
紗世が、目を覚まそうとしている。
眠っていた方が楽だ。
そう思い声をかけずにいたが、紗世は薄っすらと目を開け、起きてしまった。
「んっ、せ、清、ちゃん……」
「紗世、少しは眠れたか?」
清志郎は、紗世の頭を優しく撫でた。
「うん……ずっと、傍にいてくれたの?」
「当たり前だろ。あんな状態で、放ってなんておけないよ」
「清ちゃんは、ずっと起きてたの?」
(また人の心配をする。そうだな、昔からそうだった。可愛い顔して、俺よりずっと強かった……)
清志郎は、紗世が探しに来てくれた、紗凪が死んだ夜のことを思い出していた。
「じゃあ紗世がずっと一緒にいてあげる」と言ってくれた、あの夜を。
「ちゃんと寝たから心配いらないよ。宗真に飯も食わせてもらったし。紗世も何か食べないか?」
「ううん、大丈夫。今は食欲ない」
「そ、そうか。でも、喉は乾いたろう?」
「じゃあ、ぬるめのお白湯をちょうだい」
「うん、わかった。少し待っていてくれ。持ってくるよ」
そう言って、清志郎が立ち上がったときだった。
「せ、清ちゃん……」
「どうした? 傷が痛むのか?」
清志郎は上げた腰を下ろし、心配そうに紗世の顔を覗き込んだ。
ところが、紗世の顔は痛みを訴えているようには、到底思えない表情をしていた。
何か信じられないものを見たような、驚いた顔をしている。
「さ、紗世?」
紗世の気持ちが読めない清志郎は首を傾げる。
「せ、清ちゃん……どう、して……?」
紗世の声が微かに震えていた。
「ねぇ、その、髪飾り……どうして……どうして、また、付けてるの?」
「えっ?」
たどたどしく紡ぐ、紗世の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
(髪飾り? 何を言ってるんだ?)
そこまで考えて、清志郎はハッと息を呑む。
紗世の視線が、自分の頭の一点に釘付けになっていることに気づき、慌てて手を伸ばした。
指先が触れたのは、冷たく滑らかな感触――。
付け直した覚えなど一切ないはずの、澄から贈られた髪飾りだった。
(そんな、まさか!)
まどろみの中にいたとき、誰かと話していた気がする。
甘く、しかし、有無を言わせぬ声が、耳の奥で鮮明に蘇った。
『――私のものという証だ――』
その存在は、清志郎を一瞬にして、凍てつくような恐怖の淵へ突き落とした。




