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第二十七章 髪飾りの呪縛(第五話)

剣士としての己の無力さを、清志郎は痛感していた。

愛する紗世が苦痛に喘ぐ姿を腕に抱きながら、できることは何もない。

この悲劇は自分のせいではないかという罪悪感が、彼の心を蝕んでいく。

ただ、その華奢な体を支えることだけが、彼に許された唯一の償いだった。

バンッと朝比奈家の表口の戸が乱暴に開け放たれるや否や、清志郎の切迫した声が響き渡った。


「紗世!玄庵先生に来ていただいたぞ!龍之介、紗世は?」


奥の居間から、龍之介の声が返ってくる。


「なかなかなぁ、血が止まらんのじゃ」


紗世の様子を聞いた清志郎の顔から、一気に血の気が引いた。

あれから随分と時間が経ったというのに、未だ出血が続いているという事実が、彼の胸を締め付ける。


(かなり深い傷なのか?まさか、骨にまで達してないよな?)


「玄庵先生、急いでください!早く!」


「わ、わかっておるわ、清志郎。た、たくさん、湯を沸かせ……」


「はい!」


清志郎は、台所へと駆け込む。

心臓が早鐘のように打ち、胸を締め付ける不安が、彼を突き動かしていた。

玄庵は、自分の家から朝比奈家まで、清志郎に急かされて走ってきた。

老体の玄庵には、酷くきつかったようで、ハァハァと息も絶え絶えだが、休むことは清志郎が許してくれそうにもない。


「せ、先生、大丈夫ですか?」


見かねた弟子が玄庵を心配すると、「お前は先に行け」と言わんばかりに、彼の背中を押す。


「まったく清志郎の奴、無茶させよって。はぁ〜老いたな儂も。こ、腰が……」


ブツブツと愚痴を吐きながらも、その足は決して緩まない。

一刻も早く紗世の苦痛を取り除いてやりたいという思いが、老いた体に鞭打っていた。



清志郎の居ない間、龍之介は何度も止血の為に、布を巻き直してくれたのだろう。

居間の隅に置かれた桶には、血に染まった布が幾重にも重なり、真紅の液が底に溜まっていた。

紗世は、相当痛むであろうに、気丈にも歯を食いしばって耐えていた。

そんな様子を見た清志郎は、湯を沸かしながらも気が気ではない。


「清志郎さん、変わりましょう。紗世さんの傍についていてあげてください」


心、ここに在らずの清志郎に、有難いことに玄庵の弟子が声を掛けてくれた。


「かたじけない。頼みます」


清志郎は、台所から居間に上がり込み、そそくさと紗世の診察を始めようとしている玄庵の元へ行く。


「刃を握りしめたそうだな、紗世よ。大したものだ。そのようなこと普通できるものではない。それに比べて道善は何をしておるのだ。娘にこんな大怪我をさせおって。説教じゃ!説教!」


その言葉に、清志郎も怒りが道善に向かいそうになったが、今はそれどころではない。

紗世の傷をなんとかしてもらうのが先だ。


「紗世、動かすと痛むと思うが、見せておくれな」


玄庵は、紗世の手をそっと持ち上げた。

血と汗で濡れた小さな掌を見て、短く息を吐く。


「深くいってそうだな。おい!湯は!」


「はい!」


弟子が、湯を張った桶と、煮沸した布を持ってきた。

まずは、傷口に付着した血と汚れを、温い湯で洗い流すということだろう。


「清志郎、紗世を背後から支えてやれ。紗世、足を崩して前へ出しなさい。体をなるべく楽にして、清志郎に委ねよ」


清志郎は、玄庵の指示に従い、紗世の背後に回り込み、優しく抱きしめるかのように支えた。

楽な姿勢をとらせるだけならば、布団に寝かせれば済む話だ。

だが、玄庵はそうしなかった。

それは、あまりの痛みに紗世が耐えかねて身を捩った際、力ずくで押さえつけろという、無言の指示に他ならない。

そんなことを、清志郎はしたくなかった。

ただ優しい言葉をかけ、優しく抱きしめてやりたい。

しかし、それでは紗世の傷は治らない。

一番辛いのは、紗世なのだ。

清志郎は、己の胸に湧き上がる感情を押し殺し、覚悟を決めた。

そして、紗世の耳元にそっと唇を寄せ、震える声を抑えながら、彼女を安心させるための言葉を紡ぎ出す。


「大丈夫だ、紗世。辛いだろうが、俺が傍にいるから。俺が最後まで支えるから」


「……うっ、うぅっ、清ちゃん」


「紗世、俺に体を預けて。呼吸を整えて、なるべく力を抜くんだ」


「……うん」


紗世が落ち着いたと見るや、玄庵は紗世の掌を清め出した。

血でよく見えなかった傷口が、生々しい姿を現し始めた。


「――っ!」


痛みのあまり、紗世の顔が引き攣る。

体にも力が入る。


「紗世、見るな!目を閉じてるんだ」


思わず、清志郎は紗世に声を掛けた。

傷の酷さに、紗世が衝撃を受けないか心配したのだ。


「うむ。骨には達しておらんようだ……」


それは安堵の言葉ではあるが、裏を返せばそれほどまでに深い傷だと言うことだ。

実際、清志郎はその傷口を見て、ゾッとした。

下手をすれば、紗世の手は使い物にならなくなっていたかもしれない。

切り落とされて無くなっていた可能性だってあるのだ。

これまで、我慢していた紗世も、傷口が染みて痛くて堪らないのだろう。


「うっ!ああぁっ!」


と、悲鳴にも似た声を漏らした。

体を捩る紗世を、清志郎は必死に抱き込む。

これが一度では済まない。

玄庵は、何度も洗浄を繰り返す。

更に、もう片方の手も手当てしなければならないのだ。

できることなら、変わってやりたい。

だが、そんなことができるはずもなく――。


(剣なんて、こんなとき何の役にも立たねぇ。なんて無力なんだ俺は!……そうだ、先生があんなことをしたのは、やはり俺のせいだ。腹のことを話すべきじゃなかったんだ。あの話をしてから、先生は明らかに様子がおかしくなった)


「紗世、頑張るのだ。さぁ、もう片方の傷も綺麗にするぞ」


玄庵が紗世のもう片方の手も、布で清め出す。


「ああぁぁぁっ!」


「紗世っ!頑張るんだ、紗世!」


紗世の額は、汗だくだ。

玄庵の弟子が、手ぬぐいで拭き取ってくれた。


(本当に俺のせいだとしたら……。今、紗世を苦しめている張本人は、この俺だ……)


清志郎の不安と罪悪感が頂点に達し、彼の精神が軋みを上げたその時、耳元で彼にしか聞こえない声が囁いた。


「清志郎、代わるか?」


龍之介だ。

顔に出ていたのだろうか?

今の自分には、紗世を支えることすらできないと彼の目には写ったのだろうか。


(くそっ!ここで逃げるわけにはいかねぇだろうが!)


「大丈夫だ。俺は、逃げたりしない」


清志郎も龍之介にしか聞こえない声で、囁き返した。

龍之介は「そうか」と一言だけ呟くと、それ以上、何も言わなかった。

龍之介が清志郎の顔から目を離せないでいると、宗真が彼の視界に入った。

宗真は龍之介に、こっちへ来るよう手招きしている。

龍之介は、清志郎と紗世を心配そうに見つめながらも、そっとその場を離れ、宗真の元へと向かった。


「よし、ここまでよく我慢したの、紗世。次は、薬を塗っていくぞ。もう少しの辛抱じゃ」


「は、はい、先生……」


紗世は疲弊し、息を切らしながらも、気丈に返事をする。

薬を塗るときにも、とてつもない痛みが紗世を襲うことだろう。

清志郎は、道善のことはひとまず置いておき、紗世のことだけに集中した。

紗世の痛みに耐える姿、痛みから逃れようとする華奢な体を抑え込むたびに、清志郎の胸は別の痛みにはち切れそうになった。

この刻が、永遠につづくのではないかと思うほどに、長く感じられた。

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