第二十七章 髪飾りの呪縛(第五話)
剣士としての己の無力さを、清志郎は痛感していた。
愛する紗世が苦痛に喘ぐ姿を腕に抱きながら、できることは何もない。
この悲劇は自分のせいではないかという罪悪感が、彼の心を蝕んでいく。
ただ、その華奢な体を支えることだけが、彼に許された唯一の償いだった。
バンッと朝比奈家の表口の戸が乱暴に開け放たれるや否や、清志郎の切迫した声が響き渡った。
「紗世!玄庵先生に来ていただいたぞ!龍之介、紗世は?」
奥の居間から、龍之介の声が返ってくる。
「なかなかなぁ、血が止まらんのじゃ」
紗世の様子を聞いた清志郎の顔から、一気に血の気が引いた。
あれから随分と時間が経ったというのに、未だ出血が続いているという事実が、彼の胸を締め付ける。
(かなり深い傷なのか?まさか、骨にまで達してないよな?)
「玄庵先生、急いでください!早く!」
「わ、わかっておるわ、清志郎。た、たくさん、湯を沸かせ……」
「はい!」
清志郎は、台所へと駆け込む。
心臓が早鐘のように打ち、胸を締め付ける不安が、彼を突き動かしていた。
玄庵は、自分の家から朝比奈家まで、清志郎に急かされて走ってきた。
老体の玄庵には、酷くきつかったようで、ハァハァと息も絶え絶えだが、休むことは清志郎が許してくれそうにもない。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
見かねた弟子が玄庵を心配すると、「お前は先に行け」と言わんばかりに、彼の背中を押す。
「まったく清志郎の奴、無茶させよって。はぁ〜老いたな儂も。こ、腰が……」
ブツブツと愚痴を吐きながらも、その足は決して緩まない。
一刻も早く紗世の苦痛を取り除いてやりたいという思いが、老いた体に鞭打っていた。
◇
清志郎の居ない間、龍之介は何度も止血の為に、布を巻き直してくれたのだろう。
居間の隅に置かれた桶には、血に染まった布が幾重にも重なり、真紅の液が底に溜まっていた。
紗世は、相当痛むであろうに、気丈にも歯を食いしばって耐えていた。
そんな様子を見た清志郎は、湯を沸かしながらも気が気ではない。
「清志郎さん、変わりましょう。紗世さんの傍についていてあげてください」
心、ここに在らずの清志郎に、有難いことに玄庵の弟子が声を掛けてくれた。
「かたじけない。頼みます」
清志郎は、台所から居間に上がり込み、そそくさと紗世の診察を始めようとしている玄庵の元へ行く。
「刃を握りしめたそうだな、紗世よ。大したものだ。そのようなこと普通できるものではない。それに比べて道善は何をしておるのだ。娘にこんな大怪我をさせおって。説教じゃ!説教!」
その言葉に、清志郎も怒りが道善に向かいそうになったが、今はそれどころではない。
紗世の傷をなんとかしてもらうのが先だ。
「紗世、動かすと痛むと思うが、見せておくれな」
玄庵は、紗世の手をそっと持ち上げた。
血と汗で濡れた小さな掌を見て、短く息を吐く。
「深くいってそうだな。おい!湯は!」
「はい!」
弟子が、湯を張った桶と、煮沸した布を持ってきた。
まずは、傷口に付着した血と汚れを、温い湯で洗い流すということだろう。
「清志郎、紗世を背後から支えてやれ。紗世、足を崩して前へ出しなさい。体をなるべく楽にして、清志郎に委ねよ」
清志郎は、玄庵の指示に従い、紗世の背後に回り込み、優しく抱きしめるかのように支えた。
楽な姿勢をとらせるだけならば、布団に寝かせれば済む話だ。
だが、玄庵はそうしなかった。
それは、あまりの痛みに紗世が耐えかねて身を捩った際、力ずくで押さえつけろという、無言の指示に他ならない。
そんなことを、清志郎はしたくなかった。
ただ優しい言葉をかけ、優しく抱きしめてやりたい。
しかし、それでは紗世の傷は治らない。
一番辛いのは、紗世なのだ。
清志郎は、己の胸に湧き上がる感情を押し殺し、覚悟を決めた。
そして、紗世の耳元にそっと唇を寄せ、震える声を抑えながら、彼女を安心させるための言葉を紡ぎ出す。
「大丈夫だ、紗世。辛いだろうが、俺が傍にいるから。俺が最後まで支えるから」
「……うっ、うぅっ、清ちゃん」
「紗世、俺に体を預けて。呼吸を整えて、なるべく力を抜くんだ」
「……うん」
紗世が落ち着いたと見るや、玄庵は紗世の掌を清め出した。
血でよく見えなかった傷口が、生々しい姿を現し始めた。
「――っ!」
痛みのあまり、紗世の顔が引き攣る。
体にも力が入る。
「紗世、見るな!目を閉じてるんだ」
思わず、清志郎は紗世に声を掛けた。
傷の酷さに、紗世が衝撃を受けないか心配したのだ。
「うむ。骨には達しておらんようだ……」
それは安堵の言葉ではあるが、裏を返せばそれほどまでに深い傷だと言うことだ。
実際、清志郎はその傷口を見て、ゾッとした。
下手をすれば、紗世の手は使い物にならなくなっていたかもしれない。
切り落とされて無くなっていた可能性だってあるのだ。
これまで、我慢していた紗世も、傷口が染みて痛くて堪らないのだろう。
「うっ!ああぁっ!」
と、悲鳴にも似た声を漏らした。
体を捩る紗世を、清志郎は必死に抱き込む。
これが一度では済まない。
玄庵は、何度も洗浄を繰り返す。
更に、もう片方の手も手当てしなければならないのだ。
できることなら、変わってやりたい。
だが、そんなことができるはずもなく――。
(剣なんて、こんなとき何の役にも立たねぇ。なんて無力なんだ俺は!……そうだ、先生があんなことをしたのは、やはり俺のせいだ。腹のことを話すべきじゃなかったんだ。あの話をしてから、先生は明らかに様子がおかしくなった)
「紗世、頑張るのだ。さぁ、もう片方の傷も綺麗にするぞ」
玄庵が紗世のもう片方の手も、布で清め出す。
「ああぁぁぁっ!」
「紗世っ!頑張るんだ、紗世!」
紗世の額は、汗だくだ。
玄庵の弟子が、手ぬぐいで拭き取ってくれた。
(本当に俺のせいだとしたら……。今、紗世を苦しめている張本人は、この俺だ……)
清志郎の不安と罪悪感が頂点に達し、彼の精神が軋みを上げたその時、耳元で彼にしか聞こえない声が囁いた。
「清志郎、代わるか?」
龍之介だ。
顔に出ていたのだろうか?
今の自分には、紗世を支えることすらできないと彼の目には写ったのだろうか。
(くそっ!ここで逃げるわけにはいかねぇだろうが!)
「大丈夫だ。俺は、逃げたりしない」
清志郎も龍之介にしか聞こえない声で、囁き返した。
龍之介は「そうか」と一言だけ呟くと、それ以上、何も言わなかった。
龍之介が清志郎の顔から目を離せないでいると、宗真が彼の視界に入った。
宗真は龍之介に、こっちへ来るよう手招きしている。
龍之介は、清志郎と紗世を心配そうに見つめながらも、そっとその場を離れ、宗真の元へと向かった。
「よし、ここまでよく我慢したの、紗世。次は、薬を塗っていくぞ。もう少しの辛抱じゃ」
「は、はい、先生……」
紗世は疲弊し、息を切らしながらも、気丈に返事をする。
薬を塗るときにも、とてつもない痛みが紗世を襲うことだろう。
清志郎は、道善のことはひとまず置いておき、紗世のことだけに集中した。
紗世の痛みに耐える姿、痛みから逃れようとする華奢な体を抑え込むたびに、清志郎の胸は別の痛みにはち切れそうになった。
この刻が、永遠につづくのではないかと思うほどに、長く感じられた。




