第二十七章 髪飾りの呪縛(第一話)
酒の過ちで紗世を深く傷つけてしまった清志郎。
気まずい空気が流れる翌朝、彼はどう謝罪すればいいか分からずにいた。
長年募らせた想いが、些細な誤解で崩れ去ってしまうかもしれない。
その恐怖が、彼の心を重く締め付けていた。
翌朝。
朝日の暖かさを感じて、龍之介は目を覚ました。
隣を見ると、清志郎の布団はもう畳まれている。
朝日が差す外へ目をやると、清志郎は着替えも済ませ、頬杖を突きながら縁側で胡坐をかいていた。
「起きていたのか、清志郎」
龍之介の声に、清志郎はゆっくりと振り向いた。
「ああ、ちょっと前にな。おはよう、龍之介。……昨夜は、迷惑を掛けたな。ちゃんと眠れたか?」
清志郎はうっすらと微笑んだものの、どこか気まずそうだった。
「お前が寝た後、儂もすぐ寝た」
「まだ、寝ててもいいんだぞ」
「いや、もう目が覚めてしもうたから、儂も起きる」
龍之介は起き上がり、布団を片付け始めた。
「なぁ、俺、お前と夜、話をしたよな?」
背後から不安そうな声が聞こえ、龍之介は動きを止める。
「ああ、したぞ。まだ話の途中でお前が寝てしもうたから、全部は聞いておらぬがな」
「そうか。だったらいいんだ」
「清志郎、昨夜のことは夢などではないぞ」
清志郎はまだ現と夢の間を彷徨い、不安に駆られている――そう察した龍之介は、力強く答えた。
「……ああ」
龍之介の言葉を聞いて、清志郎は少し安心したようだった。
「昨日の一件は、解決したのか?」
いきなり現れた男の声に、清志郎は肩を震わせた。
「宗真……」
「おはよう、清志郎。朝早くから悪いな。私はあまり眠れなかったぞ。おかげで早く目が覚めてしまった」
布団を片付け終わった龍之介が、呆れたように尋ねる。
「早いのう、宗真。紗世さんには会わず、直接こちらへ来たのか?」
「ああ、龍之介もおはよう。そうだ、まずはこの迷惑な男の顔を拝んでやろうと思ってな」
「……わ、悪かったよ。お前にも本当に迷惑掛けた。この通りだよ、すまん」
清志郎は胡坐のまま両膝に手をつくと、深々と頭を下げた。
「私はいいのだ。別にお前に傷つけられたわけじゃない。しかし、紗世さんに対してはどうするつもりだ?」
「……」
清志郎は眉を寄せ、言葉が見つからずに黙り込んだ。
「清志郎」
先を促すように、宗真が困り果てている男の名を呼ぶ。
「……紗世さん、どんな感じだった?」
謝らなければならない。
でも、どう謝ったらいいというのだ?
答えが出ない清志郎は、とりあえず昨日の紗世の様子を宗真に尋ねた。
「暫く泣き続けていたぞ。自分は、お前に好かれていないのではないかと、だいぶ不安になっていた」
「……」
清志郎の脳裏に、昨夜龍之介に問われた言葉がちらついた。
『お前、本当に紗世さんのことが好きか?』
着替えながら龍之介も、気まずい顔で二人の会話に耳を傾けている。
紗世のことが本当に好きか――?
龍之介に言われるまで、何の疑問もなかった。
腹を刺されて意識が途絶える寸前、考えたことは紗世との約束だった。
思い浮かんだのは、紗世の顔だった。
(好きに、好きに決まってるじゃないか!)
清志郎はスクッと立ち上がると、スタスタと歩き始めた。
「どこへ行く?」
宗真が尋ねると、清志郎は振り向きもせずに答えた。
「紗世さんのところ。謝ってくるんだよ」
宗真と龍之介は顔を見合せ、小さく笑った。
◇
紗世は、清志郎の思った通り台所にいた。
いつもと変わらず、忙しそうに朝飯を作っている。
勢いで居間まで来たものの、いざ紗世の後ろ姿を見ると、さっきまでの勢いはどこへやら。
一気に意気消沈してしまった。
「お、おはよう紗世さん」
「……」
聞こえているはずだ。
清志郎の気配にだって、とっくに気付いているはずだ。
だが、返事はない。
わかっていたはずなのに、グサリとまた後ろから刺されたかのように腹が痛む。
いや、胸が痛む――。
紗凪ともだが、紗世とは殆ど喧嘩などしたことがない。
しかも昨夜、自分の仕出かしたことは朧気だ。
しかし、謝らなくては何も始まらない。
清志郎は意を決し、その場に膝をついた。
「……紗世さん、俺、昨日は酷いことを……ご、ごめんなさい」
「酷いこと?何かしら?」
「――!」
清志郎は紗世の迫力に息を呑む。
やはり、簡単には赦して貰えそうにない。
何がどう悪かったのか、ちゃんと理解しているのかと突きつけられているような気がした。
「そ、その……紗世さんを、紗凪さんと、あと澄という人に間違えてしまって。あ、あのときの俺は、どうかしてたんです!」
「そうね、清ちゃんはお酒が入ると、殆ど何も覚えてないし、普段とは別人みたいになってしまうものね」
紗世がそのようなことで怒っていないのは、清志郎も充分わかっている。
そういうことではないのだ。
もう、隠し事はしないと決めた。
「紗世さん、正直に言いますから。……澄さんというのは、俺をずっと看病してくれてた命の恩人なんです。あの人がいなかったら、俺は死んでいたかもしれない。弱った俺を、ずっと励まし続けてくれて……。正直、俺たちは……」
清志郎を無視して朝飯を作り続けていた紗世の手が止まる。
「俺たちは、ほんの一時期だけど、惹かれ合いました」
紗世の肩が、小さく跳ねた。
「でも、信じてください!言葉で気持ちは伝え合ったけど、俺たちには何もなかったんです!俺には紗世さんがいるからって、彼女にちゃんと言いました」
「……言葉だけなら、何もなかったことになるの?」
「そっ、それは……」
痛いところを突かれて、清志郎は言い淀む。
あの艶めかしい澄の唇を思い出してしまう。
紗世を裏切れないと、触れるのを必死に耐えたあの唇を。
それが、紗世を裏切っていないということだと自分では思っていた。
でも、紗世の視点では違ったのだ。
好意を持ったこと自体が、裏切りなのだ。
「……紗世さんの言う通りです。ごめんなさい」
「お姉ちゃんは?」
「え?」
「お姉ちゃんのことは、まだ好きなの?……私よりも……」
刺々しかった紗世の声が、最後は今にも泣き出しそうな、か弱い女子の声になっていた。
「あ……」
清志郎は、紗世が泣いていることに気が付いた。
罪悪感に押しつぶされそうになる。
正直、この場から今すぐ逃げてしまいたいが、そんなことは許されない。
紗世を傷つけ涙を流させているのは、自分なのだ。
「……紗凪さんのことは、本当に好きでした。彼女と幸せな家庭を築くのが夢でした。そして、紗世さんは可愛い妹で……」
「妹……」
その言葉に、紗世は視線を落とす。
「でも、火事であんなことになって……先生も以前と変わられてしまって……目の前が真っ暗になりました。全部何もかも失ってしまったような気がして。でも、道場は続けないと食っていけないし、まだ幼かった紗世さんも守ってあげなきゃって……」
「……」
清志郎は、やはり使命感だけで自分に接していた――紗世は清志郎に背を向けたまま、泣きながら笑ったような息を漏らした。
「月の綺麗な夜でした。追い詰められた俺は、こっそり家を抜け出し、道場の隅っこで、昨晩みたいに転がってました。あ、あのときは軒下じゃありませんでしたよ。誰も来ないと思ってたから」
「?」
何を言っているの?――紗世は、漸く清志郎の方を振り返った。
「……でも、俺を探してくれた人がいたんです。その人は、『大丈夫?』って声を掛けてくれて。自分だって、お姉さんを亡くして辛いでしょうに」
「え?」
紗世は目を見開いた。
「忘れちゃいました?そうですよね。紗世さんは、まだ九歳か十歳くらいでしたもんね」
「ご、ごめん、覚えてない……」
「いいんですよ。あのとき、紗世さんは俺の手を取り、『お姉ちゃんがいなくなって寂しいの?』って聞いてくれたんです。俺が寂しいって言ったら、『じゃあ紗世がずっと一緒にいてあげる』って……『清ちゃんのお嫁さんになってあげる』って言ってくれて」
「私が、そう言ったの?」
「ええ。俺はそのとき、紗世さんの言葉に救われたんです。そして決めたんです。紗世さんが大きくなっても、そう思ってくれていたら、紗世さんと結婚しようって」
紗世はあまりのことにポカンとしてしまった。
まさか、幼い頃の自分がそんなことを言っていただなんて。
「でも紗世さん、すっかり忘れてるみたいだったから。道場にはたくさん男が来るし、宗真とも仲良く話してるところ見かけるし、もしかして俺以外の男に気があるんじゃないかとか……なんていうか、怖くて聞き出せなかったといいますか……」
清志郎の言葉はそこで止まってしまった。
知らなかった。
彼がそんなふうに思っていただなんて。
まさか、ずっともどかしく思っていた、全く距離が縮まらない理由はそれだったのか?
紗世は目を見開き、わなわなと震えた。
「う、嘘……」
「嘘じゃないですよ!」
頬を真っ赤に染めて反論する清志郎の姿を見て、紗世の中でわだかまっていた怒りが、スッと音を立てて消えていく。
「わ、私は……私は、他の人に興味を持ったことなんてないわ!」
紗世は恥ずかしがりながらも、自分の気持ちを正直に伝えてくれた。
照れ隠しに、叫ぶように。
その言葉に、清志郎は心が晴れると同時に、勇気づけられた。
「こ、今回は、本当に俺が悪かったです。赦してもらえませんか?」
清志郎は畳に手をついて謝る。
そんな彼を見て、紗世はプッと笑いそうになるのを堪えた。
「その髪飾りを外したら、赦してあげるわ」
「え?」
清志郎はきょとんとしていた。
紗世の言わんとすることが、まるでわかっていないようだった。
紗世は、また少し腹が立ってきた。
「その髪飾り、澄って人にもらったんでしょ?」
「な、何故それを?」
「みんな、なんとなくわかってるわよ」
「な、なんで?」
清志郎の駄目なところは、この馬鹿みたいに鈍感なところだろう。
だが、それは一生治らないかもしれない。
「他の女にもらったものを付けて欲しくないの!それくらいわかってよ、もう!」
紗世が怒りだしたので、清志郎は不味いと思ったのか素直に従う。
「わ、わかった!外します、今すぐ外します!」
清志郎は澄にもらった髪飾りをそそくさと外し、懐にしまい込む。
「こ、これでいい?」
「それから、私のことは『紗世』って呼んで。今日から、敬語もなし!いい?」
「え?」
「……お姉ちゃんとは、そうしてたじゃない」
「紗世さん!あ、えっと……さ、紗世……」
恥ずかしそうに紗世の名を呼んだ清志郎の元に、紗世が駆け寄ってきた。
その瞳には涙が光っていたが、優しく穏やかそのものだった。
「清ちゃん」
「紗世」
お互いに両腕を伸ばし、求めあう――。
長い間の様々な誤解も解け、清志郎は、初めて遠慮なく紗世を力強く抱きしめた。
二人は、幸せの絶頂にいた。




