第十五章 罪と熱情(第一話)
彼女が去った部屋に、重たい静けさが戻ってきた。
二人で過ごした時間は、まるで夢だったかのようだ。
ベッドに横たわり、行灯の炎に目を向ける。
揺れる影の中に、清志郎は澄の面影を見ていた。
澄が帰った後、再び重たい静寂が部屋を包み込んだ。
昼間の二人きりで過ごした華やかなひとときは、まるで幻のようだ。
ベッドに丸くなり、行灯の小さな炎がゆらゆらと揺れ、壁に映る影がまるで彼女の姿を追いかけるかのように動いていた。
そうしているうちに、どれほどの刻が過ぎたのかわからなくなった。
ただ、ゆらゆらと揺れる影に、彼女の姿を見ていた。
「……はぁ」
どうしていいのかわからず、重い溜息が漏れた。
寝返りをうち、仰向けになる。
天井を見つめるうちに、ふと目を閉じた瞬間、藤棚の下で倒れ込んだ澄の顔が目の前に現れた。
あのとき、黒く澄んだ美しい瞳が、じっとこちらを見つめていた。
柔らかな重み、頬をかすめた髪の匂い、甘い吐息――すべてが鮮明に蘇る。
(だめだ……思い出すなっ!)
布団の中でもぞりと身をよじる。
鼓動が、どんどん速くなる。
あのとき、もしほんの少しだけ顔を上げていたら――。
選ばなかった選択肢の先を想像してしまう。
唇が触れる瞬間を――。
「……っ」
その瞬間、体中に熱がこみ上げ、たまらなく澄に触れたい衝動に駆られた。
声にならない呻きが漏れ、拳を強く握りしめる。
(何考えてんだ俺は!俺には、紗世さんがいるじゃないか!)
頭ではわかっている。
この先、道場がどうなろうが、紗世を守ると決めたのだ。
紗凪にだって誓った。
それなのに――。
布団の中で目を閉じる。
だが、ミモザの下の光景が脳裏に溢れ出す。
あの悲しげで儚げな表情。
涙をたたえた瞳。
衝動のままに抱きしめたとき、澄もこの腕の中に飛び込んできたように感じた。
何度か触れ合ったが、拒まれたことはない。
最初は同情かと思ったが、あのときの澄の瞳は――。
(……俺の勘違いなのか?いや、でも……)
『私だって、誰にでもこんな風に接するわけではないわ。あなただからよ』
頬を重ね、確かにそう、耳元で囁いてくれた。
気持ちは同じはず。
澄は縁談から逃げて来たと話していた。
その縁談が破談になったとしても、彼女はいつか他の男のものになるだろう。
澄が他の男に触れられる光景を想像するだけで、腹の底からどす黒い感情が沸き上がる。
(そんなこと……許せない!耐えられない!自分だけのものにしたい!)
身勝手な独占欲に、頭が支配されそうになる。
(ば、馬鹿野郎っ!現実を見ろ!住む世界が違うんだ。剣しか取り柄のない下級武士の俺が一緒になっても、あの豪商の一族には何の得もない。澄さんを幸せにするどころか、お荷物にしかならねぇよ)
ありったけの分別を働かせ、強く心に言い聞かせる。
込み上げる澄への熱情をねじ伏せようと、必死にもがき、布団に潜り込む。
(どう考えたって、紗世さんと一緒に道場を守っていくのが一番いいんだ。これまで何の疑問も持たなかったじゃないか!)
理屈では承知している。
承知しているのに、感情が着いて来ない。
未だ少女のような純真さを持つ紗世にはない、抗いがたい大人の色気が、澄にはあった。
(これは一時的な欲望に過ぎない。きっとそうだ。こんな気持ちでは、澄さんを傷つけるだけだ。……っ、だめだ、考えるな……)
考えるなと念じるほど、記憶は鮮明になる。
手のなめらかさ。
髪のさらりとした感触。
抱きしめ合った温もり。
すべてが――。
「……はぁ……っ」
荒い息を布団の中に吐き出す。
体温が上がり、全身が疼くように火照る。
理性では押さえつけられない、雄としての本能が、どうしようもなく牙を剥いていた。
(……こ、こんな気持ち、紗世さんが知ったら……)
そんな紗世を裏切っている罪悪感に、澄によって締め付けられた心が、今度は鉛を呑んだように重くなる。
けれど、それ以上に今は――澄を求める欲望が勝ってしまっていた。
(澄さん……会いたい……。今すぐ、触れたい……触れて欲しい……。あの綺麗な声で、俺の名を耳元で呼んで欲しい……)
罪悪感と欲望が胸の奥で渦を巻き、布団の中で、声にならない呻きを洩らした。
(くそっ! どうすればいいんだ……!)
紗世と澄――二人の女性を同時に裏切っている罪悪感にいたたまれなくなり、布団を跳ね除けるように起き上がる。
脇腹の傷がズキリと痛んだが、もっと痛めばいいとさえ思った。
湯呑に水を注ぎ一気に飲み干すが、体の熱はいっこうに引く気配がない。
障子を開け、外の冷たい空気に身を晒しても、同じだった。
「……最低だ……俺は」
ぽつりと呟いた声が、がらんとした部屋に吸い込まれて消える。
こんなとき、龍之介でもいれば、この不実でどうしようもない自分を殴ってくれただろうか。
そもそも、龍之介はまだ、朝比奈家にいるのだろうか。
まだ、彼が旅立っていないことを願う。
紗世と二人きりで再会するのが、怖いのだ。
この浅ましい心の内を、すべて見透かされてしまいそうで。
(一刻も早く帰らなきゃならねぇのに!……なぜ、断ち切れねぇんだよ!なぜ、好きになっちまったんだよ!出会って幾ばくもねぇってのに……なぜ……!)
外から微かな鳥の声が聞こえてきた。
夜が明け始めたのだ。
清志郎は、結局一睡もできなかった。
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白杜 深月(小説)/ココロの迷宮(YouTube)
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