第十三章 夢と現の狭間(第一話)
悪夢に苛まれ、一睡もできぬまま朝を迎えた清志郎。
待ちわびたはずの澄が放ったのは、慰めではなく、心を凍らせる冷たい言葉だった。
「自我なんて早く手放しておしまいなさい」
それは、終わらない悪夢の始まりを告げる合図だった。
ようやく東の空が白み始め、清志郎にとって、果てしなく重く、冷たく感じた夜が明けようとしていた。
何度、寝返りを打ったかわからない。
夢の中の光景が、まるで現実のように鮮明で、頭から離れなかった。
結局、一睡もできなかった。
起き上がり、ゆっくりと障子に手を伸ばす。
すうっと障子を開けると、冷たい朝の空気が肌を撫で、夜の終わりと、強まっていく朝日の光を感じた。
清志郎は、どのくらいそうしていたか――微動だにせず、ただ空っぽの頭で朝日を浴び、空を見ていた。
「おはようございます。清志郎さん、入ってもよろしいですか?」
それは、会いたくてたまらなかった澄の声だった。
「……はい、どうぞ」
清志郎の返事で、澄が戸を開け入ってくる。
新太の姿はなかった。
「おはようございます、澄さん」
自分では、極めて平静を装ったつもりだった。
だが、その試みは無駄だったらしい。
「……眠れなかったのね」
「……」
今の自分は、すぐに嘘がばれてしまうような、情けない顔をしているのだろうか。
顔を見られるのが怖い。
澄を直視できなくて、うつむいてしまう。
澄は、薬と白湯、そして粥を載せた盆を置き、ベッドに腰掛けた。
なかなか目線を合わせようとしない清志郎に、彼女は優しく声をかける。
「大丈夫?悪い夢でも見たの?」
「……」
固まったまま動かない清志郎の頬に、澄の柔らかくて温かい手が触れる。
清志郎は、その温もりに最後の救いを求めるような衝動を覚え、澄の手を逃すまいと、彼女の手首を握りしめた。
「……清志郎さん?」
突然手首を掴まれた澄は、さぞかし驚いたことだろう。
今すぐ、この手を離して、謝罪しなければならないのに――できない。
謝罪の言葉どころか、涙が溢れ出す。
必死にこらえようとしているのに、体が言うことを聞かない。
肩が震え、涙が澄の手を濡らす。
「泣いていいのよ。私しかいないのだから」
「くっ……」
「私を見て、清志郎さん」
名を呼ばれて、思わず顔を上げると、慈愛に満ちた澄んだ瞳があった。
その瞳を見た途端、清志郎の涙腺は完全に決壊した。
「……俺、もう、わかっ、んなく、て……自分が……いっ、生きて、るのかっ……死んで、るのか……」
「ふふっ、大丈夫よ。悪夢を見たと思えばいいわ。これから先、何が起こっても、それは全て夢の中……だから何も気にすることはないの」
「……え?」
「自我なんて早く手放しておしまいなさい。でないと、今よりもっと苦しくなるだけよ」
澄の声は穏やかだが、どこか冷たさを帯びている。
清志郎には全く理解できなかった。
「大丈夫。あなたは、ちゃんと生きてる」と、澄なら、そう答えてくれると信じて疑わなかった。
それなのに、彼女は今、何を言っているのか――。
「……澄……さん?」
「本当はね、手っ取り早く、あなたをお人形にしてもよかったのよ、清志郎」
澄の瞳が、清志郎を心底哀れんでいる。
だが、その瞳に先ほどの慈愛の色は見て取れない。
清志郎の手が、澄の手首から滑り落ちる。
「な、何を言って……」
「あなたを見てたら面白くて……それに……あなたには、とことん苦しんでもらいたいの。姉上や弟よりも、ずっと!」
「……は?」
「姉上をたぶらかし、弟を殺し……あなたは本当に私の心を掻き乱してくれた。やっと見つけたのだもの。ゆっくり中から壊してあげる」
清志郎は、澄の言葉を理解しようとするが、頭が混乱し、思考がまとまらない。
(夢だ。俺、まだ悪夢の中にいたんだ。だってそうだろ?澄さんが、こんな訳のわかんないこと言うわけない……どうしたら……どうしたら、この悪夢は終わるんだよ?誰か……誰か早く、俺を起こしてくれよ……もう、耐えられねぇよ……)
「ねぇ、聞いてるの?清守?」
「き、きよ、も、り?」
「そうよ。あなたの名だったでしょう。まだ思い出せないの?」
「す、澄さん、もう……もう、やめてくれっ!どうしたんだよ!何言ってんのか、訳わかんねぇよっ!」
清志郎が両手で耳を塞いだ瞬間、澄ではない、他の女の声が頭の中に響いた。
「清志郎!しっかりして、清志郎!誰が何と言おうと、今のあなたは榊清志郎よ。清守じゃない。榊清志郎として生きているの!いい?絶対に、その名を忘れないで」
(……この声……さ、紗凪?紗凪なのか?)
「榊清志郎――私が愛した人の名よ」
(紗凪……!)
「清守じゃない!」
その声に呼応するように、清志郎は顔を上げ、叫んだ。
「え?」
「俺は、清志郎。榊清志郎だ!」
今度は澄が、清志郎の頬から弾かれたように手を引いた。
(……何?急に?)
一瞬にして、その場の空気を塗り替えた清志郎の気迫に、澄は戸惑った。
(何があったの?……っ!あの紋様が!ただの大罪人の証のはず……なのに、なぜ?)
清志郎の心臓部の紋様が、青白い光を帯びて激しく蠢き出していた。
それは衣服の下からでも確認できるほどに。
予想外のことに、澄は直感的に危険を感じた。
「この神殺しがっ!」
澄は、すぐさま清志郎の心臓に手を当て術を施す。
「忘れなさい清守!今朝のことは、何もかも!」
「うっ!」
紋様の光は消え、元の状態に戻ると同時に、清志郎は意識を失い、澄に体を預ける形になった。
澄は清志郎の体を、ベッドに乱雑に転がした。
(どういうこと?この紋様には、私にも知らない何かが?簡単に堕とせると思っていたのに……)
怪訝な表情のまま、澄はしばらく、清志郎を見下ろしながら、立ち尽くしていた。




