第九章 姫神との契り(第二話)
「……さん!……清志郎さん!」
遠くで誰かが呼んでいる。
柔らかな手のひらと、湯気のような香りが現実へと引き戻してくる。
清志郎がゆっくりと目を開けると、そこには顔を曇らせた澄の姿があった。
夢と現実のあわいで揺れていた心が、ようやく地に足をつける。――だが、次の波はもうすぐそこに迫っていた。
「……さん!……清志郎さん!目を開けて……清志郎さん」
白湯の香りと、かすかな手の温もり。
世界が一気に反転し、夢が霧のようにほどけていった。
清志郎は、息を切らしながら、瞼を開ける。
そこには、心配に顔を曇らせた澄の顔があった。
「酷くうなされていたわ。熱が上がってしまったからかしら。何度も呼んだのに、目を覚まさないから心配でたまらなかったの」
「……」
清志郎は澄の言葉を聞いても、しばらく理解が追い付かなかった。
(夢……だったのか。ここが現実で……間違いないよな?)
肩で荒い息をつく清志郎に、澄が優しく声をかけた。
「清志郎さん、大丈夫ですか?私の声、聞こえていますか?」
「あ、だ、大丈夫です。ちょっと……嫌な夢をみてしまって……」
呼吸を整えながら、清志郎は澄に返事をした。
気づけば、澄はまだ、清志郎の手を握ったままだ。
「……」
清志郎は彼女の距離の取り方に微妙な違和感を覚えながらも、それが彼女特有の純粋な善意によるものだと解釈し、特に口を挟むことはしなかった。
気づけば彼女は、自然な調子で「清志郎さん」と親しげに呼んでいる。
(……この人のこと、どうしても掴みきれないな。育ちの違いってこういうところに表れるのか?)
「……ず、ずっと、ついていてくれたんですか?」
「はい。心配でしたので」
「えっと、あの……み、みず……し……」
「澄で結構です。澄とお呼びください」
清志郎が澄をどう呼べばいいのか迷っていると、彼女は間髪入れずに答えを返した。
「で、では……澄……さん、お気持ちは有難いのですが、俺なんかにずっと付き添っていてよいのですか?お身内の方々が心配されているのでは?」
「そうですね。清志郎さんも、もう命の心配はなさそうですし、そろそろ一度帰ろうかと思います。ただ、その前に清志郎さんのお着替えをお手伝いしますね。汗でびっしょりですし、このままだと体が冷えてしまいますから」
「ああ、着替え……」
清志郎はここに運ばれてきてからというもの、一度も着替えた記憶がない。
今着ているものは、風間が貸してくれたのだろうか。
返り血を浴びたあの惨劇が脳裏をよぎり、背筋が凍る思いがした。
(あんなのは二度と御免だな。あいつら一体何者だったんだ。まさかまた襲撃してきたりしねぇよな?)
「はい、清志郎さん」
清志郎が、参道での出来事を思い返しているうちに、いつの間にか澄が、着替えを持ってきてくれていた。
「すまない、澄さん」
(もし俺がここにいることが知られたら、澄さんや風間先生を巻き込んでしまう。しかし、知られていたなら、とっくに殺されているはずだ。大丈夫か……)
浴衣を広げながらそんなことを考えていると、澄が上体を起こしてくれるのを手伝ってくれた。
だが、その後もまだ、澄はなかなか部屋を出ていこうとしない。
「……あ、あの……着替えますんで……」
「はい、お手伝いしますね」
澄が清志郎の掛布団を剥ぎ取り、その帯に手をかける。
「ま、待ってください……その、俺、自分で……やりますんで!」
清志郎は、思わず澄の手を掴んで制止する。
「……お一人で本当にできますの?」
確かに、誰かに手伝ってもらいたい状況ではあるが、まさか年若い女に頼めるわけもない。
「な、なんとかやってみますんで」
「無理そうでしたら、遠慮なく呼んでくださいね」
渋々といった様子ながら、ようやく澄が部屋を出ていき、清志郎は安堵の息をついた。
力の入らない手で帯をゆっくりとほどきながら浴衣を脱いでいく。
立ち上がらずに着替えようと体をひねった瞬間、腹に鋭い痛みが走った。
「くっ!さすがにまだ痛ぇな……」
痛みに耐えつつ着替えているせいで、時間がかかってしまっているのだろうか。
部屋の外から澄の声が様子を伺うように聞こえてきた。
「清志郎さん、やはり、お手伝いしましょうか?」
澄のことだ、はっきり断らないと入ってきてしまうかもしれない。
清志郎に焦りの色が浮かぶ。
(こんな中途半端な姿、見せられるかよ、まずいだろ)
「もう少しですので、大丈夫です!待っていて下さいね」
――その言葉を最後まで言い終える前に、音もなく戸を開き、澄が立っていた。
「ひっ!」
清志郎は慌てて掛布団を引き寄せた。
上はともかくとして、下だけは何としても守らねばならない。
「……お辛そうですわね。なぜ、そう意地を張るのですか?」
澄はなんの躊躇もなく、すたすたとベッドに近づいてくる。
(それは俺が男で、あんたが女だからに決まってるだろ!なんで、わかんねぇんだよ、この人は!)
迫ってくる澄に、あたふたしながら、布団の中で悪戦苦闘する。
もう、仕上がりは滅茶苦茶だろうが、なんでもいい。
なんとしてでも、帯まで締めなければ!
「清志郎さん」
澄が掛布団に手を伸ばし、まるで邪魔な布切れでも払いのけるかのように、それをめくった。
そこには、乱雑ながらもなんとか着替えを終えた清志郎の姿があった。
「ふふっ、無理しちゃって。ぐちゃぐちゃじゃありませんか。直して差し上げます」
澄は清志郎の乱れた浴衣を丁寧に整えていく。
清志郎は息を切らしながら、文句こそ言わないものの、珍しく頬を膨らませている。
澄がもう一度浴衣の衿を整えたとき、彼女はそのまま浴衣越しに、清志郎の心臓の真上にそっと手を当てた。
「心臓の音、速くなってる」
「す、澄さん、俺をからかうのもいい加減に……」
清志郎が澄を窘めようとしたその瞬間だった。
ドクン――心臓が、まるで誰かに強制的に打たされたように跳ね上がり、言葉が喉の奥で凍りついた。
「はっ!……あ……っ!」
(なっ、なんだこれ! 苦しっ……意識が……!)
澄の手のひらから、冷たい何かが奔流のように流れ込んでくる。
視界が白く点滅し、頭蓋の内側で金切り声が響き渡るようだった。
「清志郎、あなたは罪を償わなくてはね?私から大切なものを奪ったのだから。あなたが眠っている間に、あなたの魂、覗かせてもらったわ。もう逃げらない。私の手となり足となり、刃となりなさい」
(な、何を……言って……あ、頭が、割れそうだ……)
澄は、うなだれて喘ぐ清志郎の胸から手を離すと、今度は彼の顎をそっと掴んで顔を上げさせた。
人形師が作品を検分するような、冷ややかな眼差しで。
「わかったわね、清志郎。いいえ、清守」
「……っ、は……ひ、め……さ……ま……?」
清志郎の瞳から光が消え、何も映さぬ硝子玉のようになっていた。
まるで、魂を抜き取られたかのように――。
「命令は忘れてもいいわ。でも安心して。魂に刻んだものは、忘れようとしても……決して消えたりしないのよ」
名というものは、人の世を離れても、魂が抱き続けるもの。
清守という呼び名もまた、彼が前世から持ち越した、本来の名だった。
「……しょ、承知……いたしました……姫様……」
澄が清志郎の顎から手を離すと、彼は糸の切れた人形のようにベッドへ倒れこんだ。
残ったのは、誰かに上書きされたような違和感と、深い眠りだけだった。
静まり返った部屋で、澄は倒れた清志郎を無感動に見下ろしていた。
だが、その瞳には、満足とも憐れみともつかぬ、狂気のような笑みがわずかに浮かんでいた。




