第五章 無神論者(第三話)
言えなかった謝罪、伝えられなかった願い、そして──あの頃のようには戻れない現実。
残されたのは、後悔と、ほんのわずかな温もりだった。
けれど、その温もりだけは、確かに嘘をつかなかった。
「道善の容態に変化があれば、すぐに知らせてくれ。近いうちに見舞いに参るからの」
寺を出るとき、宗岳は門まで見送ってくれた。
「はい。先生もご住職にお会いできれば、少しは気が晴れるかもしれません。……今日は見苦しいところをお見せしてしまって……」
清志郎は、座禅堂で溜め込んでいた感情を吐き出したのか、いつもの落ち着きを取り戻しているようだった。
だが、無様な姿を恥じているのか、少し俯いていた。
「やれやれ。清志郎、この儂を父親代わりに思って構わんのじゃぞ。いや、この年なら祖父と言った方が適当かの」
宗岳は、これ以上ない慈悲深い言葉をかけてくれた。
その優しさが、かえって胸の奥を締めつける。
(ご住職と宗真に対し、信じられないなどと……決して口にしてはいけないことだった)
「お気持ち、ありがたく存じます。では、また……」
別れの挨拶を口にし、その場を去ろうとしたときだった。
「ちょっと待ってろ」と言い残し、そのまま戻って来ないかと思われた宗真が、小走りに現れた。
「待て、清志郎。これを紗世ちゃんに渡してくれ」
彼の手には、淡い桜色の和紙に包まれた小さな包みがあった。
「これは?」
「可愛い見た目をした菓子をいただいてな。お裾分けだ」
宗真はこういうところに、本当に気が利く。
清志郎は、紗世が最近、菓子など口にしていたところを見ていない。
「そうか、きっと喜ぶよ。ありがとうな」
宗真の気遣いのある優しさは、昔から変わらない。
この村にきたとき、すぐ打ち解けて遊んでくれたのは宗真だった。
だが、大人になり、一緒にいる時間が極端に減ってしまった。
お互いの歩む道が違っていたからだ。
「清志郎……また、来いよ」
「今度は、お前が来いよ。紗世さんも会いたがってる……それから……」
宗真は少しだけ目尻をほころばせ、清志郎に問うた。
「ん?なんだ?」
「……いや、何でもない」
宗真の瞳には、すべてを見透かしているような光が宿っていた。
けれど、それを深く追求しようとはしない。
まるで「今の清志郎には、その言葉を口にする準備がまだ整っていないから」とでも言うように。
「……じゃあな。紗世ちゃんによろしく伝えといてくれ。……また、あの頃みたいに、笑える日が来るといいな」
結局、清志郎は宗真に言えなかった。
信じられないと口にしてしまった謝罪の言葉と、たまには昔のように二人きりで語り合いたいという気持ちを。
清志郎は寺の二人に対して、礼を口にし、龍之介を伴って寺を後にした。
道場への帰り道、清志郎と龍之介は、しばらく無言で並んで歩いていた。
ふと清志郎が口を開いた。
「……龍之介、あれが俺の素ってやつだよ、情けねぇったらありゃしねぇ……みっともなくて、見せられたもんじゃなかったろ。……本当、お前の前じゃ素の俺が出ちまうみたいだな……」
清志郎は前を向いたまま、自虐的な言葉を口にする。
「……清志郎」
「幻滅したろう?すまなかったな、こんなんで」
龍之介がみた清志郎の横顔は、少し乾いた笑みを浮かべていた。
龍之介は座禅堂の清志郎を思い返しながら返す。
「……信じられぬものがあるのは、悲しみを知ってるからじゃ」
「……」
清志郎は、まるで聞こえていないように、無言のまま歩き続けていたが、ポツリとこぼす。
「……俺、座禅なんてしたら……たぶん、自分が何考えてるか全部バレちまう気がしてさ、嫌だったんだよ。それに……あんな風にまた、感情が抑えきれなくなったらって思うと……怖いんだよ……自分が」
龍之介は清志郎の両肩をガッと掴んで、足を止めさせた。
清志郎は不意をつかれて、驚いた顔を龍之介に向ける。
龍之介の無骨で大きな手の熱が、清志郎の肩にじんわりと伝わってきた。
「清志郎。神仏を信じろとは言わぬ。じゃが、せめて儂のことぐらい信じてはくれぬか?この手の温もりは感じるか?この声は聞こえておるか?儂は……どんな時でも、お前の味方でおるから」
清志郎は、至近距離でぶつけられる真剣なまなざしに戸惑いながらも、龍之介の目を見返した。
逃げ場のない距離で、真正面からぶつけられる信頼に、胸の奥がざわつく。
そのまなざしは、拒むには温かすぎた。
「……龍之介……なぜ……俺にそこまで……」
昨日会ったばかりの男が、なぜ自分にそんな言葉をくれるのか、清志郎には理解できなかった。
この男は、体だけでなく、心の器も自分よりずっと大きいということなのか。
自分の弱さを見透かされることへの恥ずかしさと、同時に不思議な安堵感が入り混じっていた。
「友だからに決まっておろうが!ほら、そんな顔しておると、紗世さんが心配するぞ」
もう、朝比奈道場の屋根が木々の間から見えてきた。
龍之介の言うとおり、情けない顔を見せるわけにはいかない。
「ああ……わかったよ」
清志郎は、ふっと肩の力を抜いた。
そして、龍之介に向けて、初めて“何かを委ねる”ような笑顔を浮かべた。