第四章 歓迎会の夜(第二話)
ひとつ屋根の下、昔のように親友と夜を過ごすのは、いつぶりだろう。
ふざけ合って笑ったあの頃と同じように、紗世と鈴は布団を並べていた。
だが、笑い声の合間には、いくつもの痛みと、言えぬ想いが潜んでいる。
ふたりの語らいは、まるで夜の帳に寄り添うように、静かに紡がれていった。
片付けも終わり、紗世と鈴も布団を並べて敷き始めた。
「紗世の部屋に泊まるの久しぶりね。子供の頃はもっとお泊まりしてたのに。なんだか懐かしいわ……」
「ふふっ、そうね。夜更けまでおしゃべりして、早く寝なさいって父や母に叱られたわね。あの頃は……よかった……幸せだった」
幼子の彼女は、ずっとこんな日々が続くと信じて疑わなかった。
「紗世……」
鈴は紗世の言葉に、手を止めて彼女の方を見やった。
紗世も手を止めてうつむいている。
やがて鈴の視線に気づき、作った笑顔を向けた。
「ご、ごめんなさい。しんみりしちゃったわね。昼間、散々慰めてもらったのに、私ったら……」
「ううん。私も、あの頃がよかったって思う時があるわ。紗世のお母様には、本当によくしていただいて……道善先生もお元気で、紗凪さんも遊んでくれて……今みたいになるなんて思わなかった……」
少しの沈黙の後、二人はまた手を動かしだした。
布団を敷き終わり、灯りを消し、布団に入る。
「紗世、私たちずっと友達よ。紗世は今、辛いんだから頼ってくれていいのよ。私の両親も紗世のこと心配してるわ。清志郎先生もいるし、紗世は決して一人ではないわ」
鈴は、紗世の親友として、精一杯の言葉を贈った。
「……本当にありがとう、鈴。鈴が居てくれて良かった。あなたみたいな友達がいるんだから、私は今でも幸せ者ね」
その言葉は、ちゃんと届いたようだ。
暗いが、紗世が微笑んでいるのが鈴には伝わった。
「もう、紗世ったら。大袈裟よ」
二人は向き合って、くすくすと笑い合った。
「そういえば、今日は色々あったわね。疲れたでしょう、紗世。」
「そうね、高坂さんが道場に乗り込んできた時は、どうなることかとハラハラしたわ。清ちゃんが勝ってくれてよかったけど……」
「あれって、本気だったのかしら?」
「え?」
「ほら、紗世と道場をいただくぞー!って言ってたじゃない」
「うーん、今となっては冗談だったとしか思えないわね。だって、割と良い人じゃない?」
「ええ、最初の印象と全然違うわね。あの見た目で人懐っこいというか……話しやすいわね。清志郎先生とも、もう打ち解けてたみたい」
「……私には、高坂さんの調子に合わせてるようにしか見えなかったけど……」
紗世は苦笑いをした。
「え?そう?」
「……彼、あまり本心みせないから。完全に心を開いてるのは、道安寺の宗真さんくらいじゃないかしら?歳も同じくらいだし」
紗世は、姉と清志郎、宗真が三人で仲良くしていたのを覚えている。
小さい頃、よく遊んでもらったものだ。
道場に来て稽古をしていた時期もあったが、僧侶になってからは、滅多に来なくなった。
清志郎は、たまに会ったりしているのだろうか?
あまり、そうは思えない。
「ああ、宗真さんは本当に見た目からして優しい方よね。時々お会いするけれど、とても感じのいい方よね」
「ええ、だから清ちゃんも安心できるんだと思う」
「ねぇ、紗世……」
「何?」
「あ、あの……せ、清志郎先生のこと、お慕いしているの?」
「……。そ、そうね……鈴に茶屋で話そうと思っていたの。私、そう……みたい」
「……そうよね。友達だもの。見てればわかるわ」
「……でもね、彼の気持ちは、私にはよくわからないの。……もし、一緒になってくれたとしても、父への義理からでは?って不安になるの……」
「……紗世……考えすぎよ」
「す、鈴は、誰か気になる相手はいないの?まだ、鈴からそんな話、聞いたことなかったから……鈴も教えてよ」
「わ、私!?……私は……その……いない訳ではないけど……私のことなんて何とも思っていないのわかってるから……」
「え?どうしてそんなことわかるのよ?私の知らない方?どんな感じの方なの?」
「そ、そうね……ちょっと清志郎先生に似てるところがあるかも……」
「清ちゃんに?」
「……うん、そんな感じ」
「けど、その方の気持ち確認したわけではないのでしょう?」
「それは……そうなんだけど……」
「なら、まだ、諦める必要なんてないわよ」
「……」
鈴が沈黙してしまったので、紗世は話を切り上げることにした。
「そろそろ寝ようか、鈴」
「うん、眠くなってきたね。おやすみ、紗世」
「おやすみ、鈴」
おやすみの挨拶を交わしたのに、鈴はしばらく目を閉じたまま、眠れずにいた。
心臓の奥が重い。
また、本心を言えなかった——いや、言わなかったのだ。
紗世との友情のために。
そして、自分のためにも。
叶わない恋に傷つくことは、わかりきっているから。
必死に諦めようとしているが、ちょっとしたことで、その決心が揺らいでしまうのも事実だ。
彼と会話できたとき、笑顔を向けてくれたとき、それは、脆く崩れそうになる。
その時だ。
紗世が布団から抜け出す気配を感じた。
鈴は、慌てて寝たふりをする。
目を閉じたまま、鈴は胸の奥がざわつくのを感じていた。
紗世の足音が、夜の静寂の中へ吸い込まれるように遠ざかっていった。
ぎしっ……ぎしっ……とゆっくり鳴る、近づいてくる足音で、清志郎は目を覚ました。
聞いた事のある足音だ。
すぐさま起き上がり、気崩れた浴衣を正す。
その足音は、清志郎の部屋の前で止まった。
障子の向こうに誰がいるのか、見当はついている。
なかなか入って来ないので、清志郎は声をかけた。
「どうぞ、お入りください。紗世さん」
そっと、音が出ないように障子がスーっと開き、暗くて表情のわからない紗世のシルエットが浮かび上がる。
そしてまた、そっと障子が閉じられた。
「眠れないんですか?」
その肩は震えている。
声を押し殺して泣いている紗世をみて、清志郎はそっと近づいて、ささやいた。
「もう二人だけだから……泣くの、我慢しなくてもいいんですよ」
紗世は、清志郎の胸に手をつき、堰を切ったように泣き出した。
そんな彼女を、清志郎は触れるか触れないかくらいの力で包み込んだ。
「どうして?どうして、みんな死んでしまうの?私……私が何か悪いことをしたから?」
「そんなわけないよ。そんなこと……絶対、あるわけない」
清志郎は紗世の頭を優しく撫でてやりながら、静かに、でも、力強く言った。
「でも、みんな私の周りからいなくなってしまう……もし……もし、貴方までいなくなったら……私、本当にひとりぼっちよ!」
「大丈夫……大丈夫だから。俺は絶対、死んだりしない。紗世さんをひとりぼっちになんてしない。約束……しますから……」
「本当に?本当にいなくならない?」
「俺、紗世さんとの約束、破ったことあります?」
紗世は、首を横に振った。
「でしょう。それに丈夫なだけが取り柄ですから俺。……だから……信じて」
「……う……ん……」
紗世は、まだヒクヒクしながらも、涙を堪えて小さな声で頷いた。
春になってきたとはいえ、まだ夜は肌寒い。
紗世の身体はすっかり冷えてしまっていた。
紗世が小さな子供から成長してからというもの、一緒の部屋で寝たことなどなかったが、まだ泣き止まない彼女を放っておくわけにもいかない。
今晩だけは仕方ない、小さな子供に戻してあげなければ……そう思って紗世に声をかける。
「ほら、こんなに体が冷えてしまってる。風邪をひいてしまいますよ。布団に入って」
紗世は促されるままに、清志郎の布団に入った。
清志郎はというと、押し入れから着物を取り出し、掛布団代わりにし、畳の上で紗世の横に添い寝する形で横になった。
「それでは、風邪をひいてしまうわ」
「ん?平気ですって」
「でも……」
「昔は……よく一緒に寝てたの、覚えてます?」
「……うん、覚えてる。なんだか懐かしいわね」
紗世は、恥ずかしそうに答えた。
お化けが怖いとか、寂しいとか言って、よく紗凪と清志郎を困らせたものだ。
「そのとき、紗世さん、必ず手を握っていてって言ってましたよね」
「……そう……ね……」
清志郎が、そっと手を伸ばしてきた。
青年になった清志郎の姿に、まだ、少年だった頃の彼の姿が重なる。
懐かしくて、紗世もそれに応えるように、か細い手を差し出した。
二人の手が繋がったとき、ようやく紗世は泣き止んだ。
「朝まで、こうしてていい?」
「俺は、そのつもりですが」
しばらくして、紗世が寝息を立てだしたのを確認して、清志郎も眠った。
誰かの視線を感じた気もしたが、疲れのせいだろう。瞼は重く、もう何も考えられなかった。
しかし、足音を消し、わずかな障子のすき間から、二人の姿を見ている者は確かにいた。
「羨ましいよ、紗世……」
それは心の底から湧き上がってくる感情に、必死に耐える者の小さな震える声だった。




