第四章 旅の空のチャイカ
発動機が唸りを上げる。グライダーが風をはらむ。私は走る。走って蹴って浮かび上がる。そのまま上昇、さらに上昇。顔を上げると夏の空。眩い陽射しと入道雲。そして旋回、さらに旋回。眼下には濃青の海原、灰白の砂浜、空き地に止まる私の愛車。
ふと見ると、私のワンボックスカーの隣にはいつの間にか見知らぬ乗用車が止まっていた。そのかたわらにはどうやら逸美らしき小さな姿。顔を上げて、私の飛行を眺めていた。
空を飛んでみたいから。そんな理由で設計事務所を辞めて、すでに二年近くが経っていた。東京を引き払い、西方の山あいの街に一軒家を借りて独り暮らし。ワンボックスカーを駆って郊外へ向かう日々。そして最近、西方の海沿いの街に引っ越してきた。
逸美が遠方の我が家を初めて訪れたのは、東京を離れて数か月後、秋の終わりの休日だった。そしてこれが二回目。今回も逸美は新居の視察と称して息抜きにやって来た。
東経と北緯を小数点以下七桁までの数値で指定する。冗談半分のつもりで回りくどく伝えた情報を頼りに、逸美は直接ここまで来た模様。かなり離れていても私が顔を向けたことが分かったのか、逸美は私に向かって手を振った。でも、私は無理。私の両手はふさがっている。
しばらく滑空を楽しみ、いよいよ着地。小走り、停止、発動機が静まる。私が装備をまとめ始めると、逸美は私に近付き声を掛けてきた。
「やあ。チャイカ」
私は思わず笑ってしまった。それは考え抜いたであろう渾身の第一声に違いなかった。
「逸美も飛んでみる気になった?」
逸美は笑みを浮かべて首を傾げた。
「どこかのスクールでタンデム飛行を体験できるよ。本当に一度、飛んでみない?」
逸美は笑みを浮かべて首を横に振った。
「高い所は怖いから。朝美はどれぐらいの高さまで昇るの?」
「普段は百メートルくらいかな。本当なら、天気が良ければ数千メートルくらいは昇れるのだけれど。特に私のエンジンユニットは出力が幾分高めだし。でも、航空法とか色々あってね」
「飛ぶには免許や許可が必要なんでしょう?」
「実はライセンスは民間資格。公的な免許制度は存在しないんだ。許可については一応、必要な所には話を通してある。この前は市の依頼で観光ビデオの制作を手伝った。この辺りのゴミ拾いをしているのも私。そうやって顔を繋ぎながら」
「朝美のライセンスは? 取るのは難しいの?」
「大まかに言うと、モーターパラグライダーのクロスカントリー。エンジン付きで一人で勝手に飛び回れる資格。普通なら二年半くらい掛かるらしい。私は暇とお金に飽かせて飛びに飛んで、もっと早かったけれど」
「悠々自適には早すぎない?」
その問いを私は穏やかに遮った。
「そういう話は夜にしよう」
その後、私たちは地場のスーパーに車を乗り付け、食材を買い込んだ。近隣の漁港に水揚げされた新鮮な魚の刺身、サラダや揚げ物、パンや麺類、そして飲み物。
借家に帰り着くと早速、逸美は探検を始めた。庭付きガレージ付きの平屋一戸建て。最終的に逸美は「さすが専門家の目利き」と視察の結果を発表した。
逸美そして私の順に入浴を済ませた頃には、日が傾き始めていた。もうすぐ夕暮れ。クーラーを効かせたダイニングのテーブルに料理を並べ、冷えたビールでまずは乾杯。逸美は豪快に煽ると、ステレオタイプのようにクーッと感嘆の声を漏らした。
「今回は何泊?」と私は尋ねた。「好きなだけ泊まっていきな」
「二泊。明日は朝美の運転でどこかへ連れて行って」
「イエス、グルーヴィー。それで仕事の方はどうなの」
「順調。好調。問題なし」
逸美はそう答えると、現況を簡潔に教えてくれた。
陀打団田本舗は順調に業容を拡大。五年後には株式市場に上場できる規模に成長する見込み。逸美は取締役の一人として経営に参画しており、さらには鈴木商会の社外取締役にも就任し、故郷と東京を行ったり来たりしている。
「来年の夏、鈴木商会はいよいよ株式市場に上場する。今はその準備でさらに忙しい。今回はその合間のちょっと息抜き」
「へえ」と私は声を上げた。「凄いね。いよいよ上場か……」
逸美は「それから私……」と言うと、少し恥ずかしそうに言葉を切った。「何?」と私は続きを促した。
「周りから結婚を勧められている。相手は鈴木圭太の弟。まだ決めてはいないんだけど。うちの弟はとっくに結婚して子供もいるし、私もそろそろかなって」
私は絶句した。逸美も黙り込み、黙々と刺身を摘まみ始めた。いよいよ、そういう時が来たのかと私は実感した。
「朝美には結婚の話は無いの?」と逸美がボソッと尋ねてきた。
「全然無い。親ももう何も言わない。鈴木の弟って二つ下だっけ」
「そう。朝美はこのまま世捨て人になってしまうの?」
「前にも言ったけれど、休養は三年間。大きな案件を立て続けにこなして疲れただけ。空を飛ぶことについては、先延ばしにしていたら、きっともう機会が無かった」
逸美は思い当たったかのようにアアと声を漏らした。
「小学生の頃の夢だっけ。アイドル、イラストレーター、インテリアデザイナー、フライトアテンダント……」
「アイドルと女優の件は私の記憶には無い訳だけれど、逸美の話を聞いて理解した。イラストレーターの件は高校の美術部でもう十分。インテリアデザイナーの件はそれに近いことを仕事でやった。フライトアテンダントの件はもはや手遅れ。でも、空を飛ぶだけなら今ならできる」
逸美はビールを一口含むと、フフンと鼻で笑った。
「本当にそれで済むの? パラグライダーの次は、例えばスキューバダイビングとか。その次は、座禅と瞑想が趣味とか言い出す」
「それはないよ」と私は失笑した。
「念のために訊くけど、お金の方は大丈夫なの。朝美の蓄えは」
「七十億円くらいある。株はほとんどやめて、現金と国債と金になっている」
逸美はオオと声を漏らして軽く仰け反った。
「逸美だって、鈴木商会が上場したら大金が入るんでしょう? 取締役ということは、鈴木商会にもエンジェル投資をしている」
「まあね」と逸美は肩をすくめた。「でも、ずっと独りは駄目だよ。来年になったら、必ず戻ってきなよ。設計事務所の所長さんや奥様も待っているよ」
体の年齢三十二歳、心の年齢六十八歳。このままいけば人生を踏み外すことになるとの自覚はある。でも、ここまでくれば人生を踏み外しても構わないとの諦念もある。
「ところでさ」と逸美が突然呆れたように言った。「朝美はさっきから肉ばかり食べているけど、良くそんなにお腹に入るね」
私はエッと呆気にとられた。
「とんかつ。鶏の空揚げ。良かったら、私の分もあげる」
言われてみれば、先ほどから私はビールと肉、ビールと肉。
「毎日、かなり鍛えているからね。足腰が強くないと、パラグライダーは無理だから。私は無給のプロアスリート」
「無給がプロ?」と逸美は軽く笑った。
「心のプロ」と私はうそぶいた。
逸美はフーンと鼻を鳴らしながらマグロの赤身を一切れ食べた。私も空揚げに箸を付けた。
「今や少し腹筋も割れているんだよ。昔に作ったコスプレの衣装も余裕で入るし、今でも時々家の中で着ている。逸美は?」
逸美は無言で笑みを浮かべた。つまり、永遠の女子高生かと思われた逸美も三十路に突入。とうとう、自然な時の流れに抗えなくなった模様。
「雨にも負けず風にも負けず、鍛えて、飛んで、読書と勉強そして家事。健全と言えば健全でしょう?」
「凄いな……。毎日毎日、飛んでいるのか……」
「あっ、いや」と私はすぐに訂正した。「雨の日や風が強い日は飛べないんだけれどね」
「山と海では気流が違うんでしょう? それで山の次は海?」
「そう。良く知っているね」
「それぐらいは知っているよ。墜落なんて嫌だよ」
「前回、山の方の家に来た時にも言ったけれど、念のために公正証書の遺言書を作ってある。もしもの時には私の財産の四分の一を逸美に贈与するって。立つ鳥跡を濁さずを心掛けてはいるのだけれど、全ての事情を知っているのは逸美しかいないんだから、もしもの時には後始末をよろしくね」
「前回、山の方の家へ行った時にも言ったけど、そんなのは嫌。お金なんか要らない。必ず戻ってくること」
「分かった」と私は頷いた。「私だって墜落死なんて嫌だから。とにかく、逸美もちゃんと運動しなさいよ」
私の忠告に、逸美はフフンと鼻で笑った。私は実感した。今や逸美は完全に前を向いている。将来を思い描いている。
時の鏡も水溜りも出現のたびに位置が変わっていた。五年前、逸美は山中湖の畔でその件に関する解説を求めてきた。バリバリの理系を自任するのなら何か言いなさいよと。それは過去への移動に関する根源論。根本が分かるはずはないけれど、一つの可能性には思い至った。
時の鏡や水溜りは自然現象であり、他の自然現象に影響を及ぼす。とすれば反作用のように、時の鏡や水溜りも他の自然現象から影響を受けるはず。例えば、事態の推移が変化すれば、それが時の鏡や水溜りの位置を微妙にずらす。
さらには、過去への移動には適性が必要。逸美が時の鏡に出くわした二回では、その場にいた適性者は逸美一人。でも、今回の人生では逸美と私の二人だった。それが時の鏡に大きな影響を及ぼしたのかも知れない。
そして二年前。故郷の街に出現するはずだった水溜り、もしくは出現していたはずの水溜り。やはり、私たちは見付けられなかった。
◇◇◇◇◇
全国の天気予報を見て、知っていたつもりではあったけれど、やはりここはかなり涼しい。フェリーに乗り、愛車を走らせ、急速に北上を続けて私はそのことを実感した。民宿の御主人と奥さんは「今日は暑いね」などと言うけれど、やはりそれは現地の人の体感。私は愛想笑いを返すしかなかった。
海沿いの高台にたたずむ民宿。窓の外に目を遣ると、重々しく広がる真夏のオホーツク海。夏の盛りの避暑地とあって、最果ての民宿にもそれなりに宿泊客の姿があった。
朝食後の閑散とした食堂。私はしばらく居残り、持参したノートパソコンでインターネット中継を眺め始めた。すると、民宿の御主人がやって来た。
「ごめんなさいね。客室の方、接続の調子が悪くて」
そんな詫びの言葉と共に、御主人はお茶を出してくれた。
「お客さん。どう? やっぱり、こちらは内地とは違いますか」
「ええ。やはり。特に海の印象が」
「確か、お客さんの住んでいる所も海沿いですよね。太平洋」
「ええ。私の所は雄大な海。こちらは重々しい海。何度か沖縄にも行ったことがあるのですが、あちらは鮮やかな海。そんな感じですかね」
御主人は感心したようにフーンと鼻を鳴らしながら小刻みに頷いた。
「ところで、お客さんはさっきから何を見ているんですか」
「株式の上場セレモニーです。証券取引所からの生中継です」
御主人は意外感をあらわにヘエと声を上げた。小さな画面の中には、ライトアップされて燦然と輝くステージ。全世界へ向けての生中継。鈴木圭太のお父さんが上場の挨拶と今後の抱負を語っていた。
「お客さんは株をやるの?」
「ここに映っている人たちは私の知り合いなんです」
御主人はヘエと驚きの声を上げた。小さな画面の隅には逸美の姿もあった。鈴木のお父さんは緊張気味、逸美やその他の人たちは少し恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
「お客さんもそういう世界の人?」
「いえ」と私は苦笑した。「私はドロップアウトした口で……」
鈴木のお父さんの挨拶が終わり、式次第はいよいよ最後の打鐘へと移った。最初に槌を握ったのは鈴木のお父さん。五穀豊穣の鐘が鳴った。拍手が巻き起こった。私もパソコンの前で拍手。次々に人が入れ替わって打鐘、拍手、私も拍手。最後の五人目として登場したのは逸美だった。鐘が鳴った。会場から拍手。私も力強く拍手を送った。
セレモニーが終了して程なく、私のスマホが呼び出し音を発した。表示に目を遣ると、逸美からの通話。
「朝美。見た?」
逸美の声は弾んでいた。その背後には興奮を感じさせる喧噪。
「見た。私も拍手した。おめでとう。皆さんにもそう伝えて」
「もうすぐ三年だけど、戻ってくるんだよね?」
「私は戻るよ」
「それじゃ、またね」
逸美はそう言って通話を終了した。
私がパソコンを仕舞っていると、民宿の御主人が声を掛けてきた。
「今日もこれから飛ぶんですか。天気は徐々に崩れていくみたいだから、気を付けてね」
私は礼の言葉を述べて、食堂を後にした。
◇◇◇◇◇
午後、独りワンボックスカーを走らせて、原野の空き地に到着した。北海の地には人が少ない。以前からそんな話を聞いてはいたけれど、目の前に広がるのは平原と海。近辺に点在する人家は極めて疎ら。三日前は下見。一昨日は試験飛行。昨日は一回目の本飛行。今日は二回目。その間、人の影は全く見当たらなかった。
こんな最果ての地には、航空法が、飛行管理空域が、などと口うるさい者は皆無。それだけに、むしろ突然どこからともなく軍用機でも飛んできそう。そんな暗い冗談を考えながら、人目を気にすることもなく装備を担いで離陸地点へ向かい、私は準備を開始した。
フライトスーツ、ライフジャケット、緊急用パラシュート、グライダー、その他の装備とヘルメット。エンジンユニットを背中に担ぎ、ハーネスの各所をきちんと締めて準備は完了。これが最後の飛行と心に決めて、私は北の大地を飛び立った。
GPSと高度計に時折目を遣りながら、私はゆっくりと飛翔を続けた。海岸線は未だ視界の内にあるとは言え、私の直下は北の海、顔を上げると鉛の雲。唯一の救いは、未だ風は穏やかなこと。民宿の御主人の警告通り、天候は下り坂のようだった。
上場セレモニーの晴れやかな壇上には鈴木商会の面々が揃っていた。また、聴衆の中には陀打団田本舗の人たち、さらには設計事務所の所長と奥様の姿もあった。皆が笑みを浮かべていた。皆が喜びをあらわにしていた。でも皆さん。ごめんなさい。
目標地点に到達し、大きく旋回を始めた時だった。顔に一粒水滴が当たった。これはまずいと私は焦った。雨が降り始めて装備が濡れたら、制御を失う、揚力を失う。眼下には雲に隠れた暗い海。このままでは緊急着水となるかも知れない。それどころか、いきなり本降りになったら私は墜落。でも、やめる訳にはいかないのだ。
逸美はあれで正しい。逸美は為すすべを知らないのだから。でも逸美。私はこれでもバリバリの理系なのだよ。私は二つの位置と時刻を知っている。仮説が立ちさえすれば、それらを元に計算と予測くらいは出来るんだ。もちろん、仮説が間違っていたら全ては無意味なんだけれどね。
逸美。知ったら当然責めるよね。なぜ黙っていたのかと。でも、逸美にこの場にいられたら困るんだ。事態の推移が変わってしまうかも知れないから。予測が台無しになってしまうかも知れないから。だから私は独りで来た。
そうさ。私は裏切り者。山中湖畔で頭を抱えた時にはすでにこの可能性に気付いていた。でも、私だって約束を破るつもりは無かったんだ。もしも逸美が一度でも「私も空を飛んでみたい」と口にしていたら、私だって「台無しもやむなし」との覚悟を決めていた。
逸美だって、あの葬式のすすり泣きを聞いただろう。可能性があると知っていながらやめるのは間違っていると思うんだ。可能性があるのなら、見捨ててはいけないと思うんだ。
逸美だって、元々は鈴木圭太の弟と結婚したかった訳ではないだろう。近々結婚式と言うけれど、隣に立つのは例えば山田君の方が良かったはずだろう。
逸美。私は気付いたんだ。山田君の小説、鏡の中の未来。逸美が話したんだろう。話題豊富な女とでも思われようとして、まるでおとぎ話のように何らかの脚色を加えて。そして、山田君の気持ちは逸美に傾き、山田君は逸美に告白した。
逸美。やりたければ、もう一度やってみればいい。手練手管の限りを尽くして。ただし、今度は大学生になってから。
逸美。これだけは分かってほしいんだ。逸美は親友、逸美には感謝している。逸美のおかげで、一つ一つを諦めていく人生にはならなかったんだから。でも、これはやり残しの一つ。それも飛び切り大きなやり残し。
胸元で時を知らせるアラームが鳴った。私は周囲に目を凝らした。
昨日は見付けられなかった。おそらくそれは、間に挟まった閏年の影響。余分な一日の存在を評価しきれなかっただけ。今日も駄目なら、私の仮説は誤りだったということ。
旋回、旋回、さらに旋回。小雨がぱらつき、飛翔が鈍くなってきた。これはまずい。海岸線は遠い。このままでは緊急着水は避けられない。墜落となったら全ての終わり。今日こそ来い。早く来い。
旋回、旋回、さらに旋回。グライダーが湿って濡れて絡まりそう。これ以上は粘れない。高度は半端。多分、緊急用パラシュートは着水に間に合わない。
もしかしたらこんな風になるのかも。そんな予感もあるにはあった。緊急着水、旋回続行。直ちに選択、直ちに実行。私は大きく息を吐いて覚悟を決めた。撤収のアラームはまだ鳴っていない。
旋回、旋回、さらに旋回。夢のような人生だった。楽しかったよ、逸美。皆さん、これまでお世話になりました。
そんな言葉を呟いた時だった。斜め下方でキラリと光った。あった。見付けた。ハンズ・ダウン!
スロットルを全開にした。発動機が唸りを上げた。チャンスは一回。待っていろ、みんな。体の年齢三十三歳。心の年齢六十九歳。熟年レディーの底力を見せてやる。
目標へ向かって一気に滑空。戻れ。戻れ。大きく戻れ。ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。私は時の鏡に突っ込んだ。
◇◇◇◇◇
次の瞬間、息が詰まった。全身が焼け焦げるかのように熱かった。私は口を塞いでいる異物を取り除き、両手を両膝に突いて身をかがめた。しばらくのあいだ深呼吸。息苦しさは徐々に治まっていった。
ふと見ると、異物は食パン。私は食パンを握っていた。顔を上げて周囲を見回すと、強い陽射し、どこかの街中、怪訝そうに通り過ぎてゆく人たち。そして私の周り、そこら中に点々と、素知らぬ振りをしながら私の様子を窺い続ける子供たち。この状況には覚えがある。これは中学三年生の夏休み。私は戻った。大きく戻った。
私は体を起こして皆に歩み寄ろうとした。その時、視線を感じた。目を凝らしてみると、電柱の陰に小柄な人影、おかっぱ頭の黒縁メガネ、夏のさなかにデニムのオーバーオールのスカート姿。田舎の地味子が笑みを浮かべて、こちらをこっそりと覗いていた。
知っていたのか、見ていたのか。何をにやけているのだ、クソビッチ。わざわざ隣の街にまでやって来て。そういうことか、そうなのか。退屈で窮屈な中学生活のささやかな娯楽。こんな頃から私を眺めて楽しんでいたのか。
オーケー、グルーヴィー。私は唸り声をあげて、逸美に向かって突進した。逸美が脱兎のごとくに逃げ出した。おい、こら、待ちな、座敷童。しかし、あっという間に息が上がり、声を上げる余裕が無くなった。
夏の始まりの炎天下。商店街を抜けて住宅街を抜けて、延々と、延々と、どこまで走れば気が済むのか。徐々に足が上がらなくなってきた。それ以上に、逸美はヨロヨロと失速し始めていた。田畑を貫く田舎道。遂に追い付き、オーバーオールの背中をむんずと掴んだ。その瞬間、逸美はグエッと声を漏らした。
「や……、やめてください。な、何で追い掛けてくるんですか」
息も絶え絶えの逸美の抗議。何と白々しい。私は逸美の耳元に口を近付け罵った。
「とぼけるな、和菓子屋。私は八回目の朝美。逸美は」
逸美は驚きの表情を浮かべ、おもむろに答えた。
「三回目」
私は脱力して、逸美から手を離した。ようやく終わる。仮初めの人生。ようやく始まる。明るい未来。エンジョイ・ライフ。エンジョイ・プレイ。私はその場にくずおれた。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
エッセイ「物語の小説化の技法」にも断片的に「佐度野朝美の疾走」が出てきますが、それは本作とは異なる架空の作品です。「物語の……」を執筆していく内に、自分自身がそれに触発されて書いてみたのが本作です。
本作には実験的な側面があります。つまり、男である私が女性主人公の内心を適切に描けるのかと。ですから、ぜひともご感想をお寄せください。その思考は女のものではない。そのような指摘を特に歓迎します。女はこのように考えるもの。そのような御教示を頂ければ大歓迎です。
よろしくお願いいたします。