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第三章 天使と店員

 田舎のただ中、地場のスーパー。国道にも程近い、県道に面した中規模店舗。私はお盆休みを挟んで二週間、虚脱感に浸りながら臨時のアルバイト店員として働き続けていた。

 あちらこちらに帰省中と思しき家族連れ。店内には都会の空気が満ちていた。パック詰めの刺身や寿司や総菜類、地元特産果物類。彼らは買い物かごを満杯にしてはレジで精算、自家用車で去って行く。私はそんな姿を眺めながら、バックヤードと売り場を行ったり来たり。そんな日々が過ぎていった。

 お盆休みの日曜午後、陳列棚の弁当を整頓していると、ふと私の隣に人の気配。

「朝美」

 ギョッとした。突然のいっちゃんの声。しかも、普段の呼び掛けは「あっちゃん」なのに、今は「朝美」。つまり、今日のいっちゃんは御機嫌斜め。

 私が「これ、買う?」とチキン南蛮弁当を差し出すと、いっちゃんは首を横に振った。「愛と勇気の半額シール付きだよ」と念を押すと、いっちゃんは「いらない」と答えた。

 今日のいっちゃんからは、可愛らしさのオーラは全く感じられなかった。フワフワとした子供っぽさではなく、きびきびとした大人びた口調と装い。銀縁メガネの奥の眼光もいつもとは異なり鋭い気がする。

 あの事故の直後から、いっちゃんとの繋がりは一旦切れていた。その間にいっちゃんは変わってしまったのだろうか。

「陀打団田本舗謹製、夏季限定和菓子の詰め合わせは特設コーナーだよ。いっちゃんも見てきたら? 透明なゼリーのような和菓子、すごく綺麗だね」

「見た。錦玉羹。仕事は何時に終わる? 少し訊きたいことがある」

 一時間後、勤務時間が終わり店舗前の駐車場へ向かってみると、いっちゃんは日傘を差しながら片隅のベンチに腰を下ろし、来ては去ってゆく買い物客を眺めていた。

 私もその隣に腰を下ろし、「いっちゃん」と声を掛けた。

「大丈夫? 落ち込んでない? 予備校にはちゃんと通っている?」

「朝美こそ、何で今頃アルバイト」

 私は溜め息をついて項垂れた。

 この大きな喪失感。心が折れてしまいそう。同じ死亡者三名でも、先日の事故はこれまでとは違った。同志を得たと思っていたのに失敗。しかも、その同志を失ってしまった。

 フィニッシュラインを目前にして脚がもつれていきなり転倒、タータントラックに向かって全身でゴールしてしまったかのような苛立ちと失望。なぜ、これほどまでに難しいのだろう。三人をまとめて救う。とても単純なことのように思えるのに。これが歴史の収束点、アトラクターの力なのだろうか。

 事故の際の様子では多分、鈴木は時を遡っていない。でも、私は鈴木の三十歳までの人生を知っている。親思いの圭太少年。やはり、何としても山田君と鈴木を助けなければ。それまでに四回目の人生を再び十二年。

 私は顔を上げ、「気分転換」と答えた。

「さすがにあの事故はね。独りで何もしないでいると気が滅入る」

「朝美も予備校に通ったら?」

「今日は機嫌が悪いの? 私に当たるのはやめてね」

「何で。当たっていないでしょう」

「私を朝美と呼ぶから。それに今日は可愛らしくない」

 いっちゃんはフフンと鼻で笑った。

「朝美。『ちゃん』付けで呼び合うのはもうやめない? 子供っぽいから」

 急な提案に意外感を覚えた。でも異存は無かった。今や心の年齢五十四歳。十八歳の逸美とそんな風に呼び合うことに、私も何となく倦怠感を覚えていた。

「朝美の知らない本当の私。これが普段の私なの。地道にコツコツと努力をするタイプ」

 私はますます意外に思い、逸美の胸に目を遣り、顔を見詰めた。

 容姿自体は相変わらず可愛らしいのに、どことなく醒めている、どことなく荒んでいる。平激盛とか、逸美が気合を入れて見栄を張ってきたのは知っている。山田君が亡くなって、その気力が萎えてしまったのだろうか。

 私は場の空気を変えるためにわざとおどけてみた。

「逸美が必死に水を掻いている白鳥だとは知らなかった」

「知らないの? 白鳥はただ浮いているだけ」

「それだと、水の中から何かに足を齧られない?」

「それなら、水を掻いて追い払っているんでしょう、多分」

「逸美はいつから水を掻くようになったの?」

「高校デビュー。人前で取り繕うのは普通でしょう。朝美だって同じだよ」

「そんなことはないよ。私は猫なんか被っていない」

「去年の夏、海水浴の前に水着を買いに行ったよね。あの時、朝美はセクシーなビキニをチラチラ見ながら結局は大人しいワンピースを買って、色々な意味で人目を気にしているのが丸分かり」

 私はウッと呻いた。言われてみれば、そんな覚えも確かにある。あれは高二の夏、心の歳月では三十七年前のこと。

「朝美は本当に残念だよね。しっかりしているようで、お調子者で抜けていて、家では寝癖と下着姿でカップ麺でもすすっていそうな、だらしない感じ」

 私は言葉に詰まった。その覚えもある。

「朝美はむっつりスケベだよね。いわゆる妄想系。もしかして、興味津々で男子たちの猥談を盗み聞きしていたりして」

 男子たちではない。盗み聞きでもない。あんたも社会人になってオヤジたちと一緒に働いてみればすぐに分かる。

 さすがに我慢の限界。私はむかついて声に力を込めた。

「逸美。言いたいことがあるのなら、はっきり言いな」

「朝美は馬鹿なの? 予知夢を見て私を捕まえたのなら、あの時、事故の前に大声を上げて全員に知らせることだって出来たでしょう」

 私は脱力して大きく息を吐き、仰け反ってベンチの背凭れに身を預け、夏の青空を呆然と見上げた。

 一見もっともらしい指摘。でも、その話はそこまで単純ではないのだよ。慌てて後方から下手に声を掛けたら、皆の注意はトラックではなく後方の私に向いてしまう。現に、皆は私をチラチラと見ていたではないか。

 少し離れた所から、「おい。喧嘩はやめとけよ」という声が聞こえてきた。見ると、正社員のおじさん。ショッピングカートの整理をしながら私たちの様子を窺っていた。私は身を起して軽く手を振り、「大丈夫です」と返事した。

「そうだね。確かにね。でも、私のせいにしないで。逸美の主張は結果論。あの時は私も慌てていたの。それに実際に事故が起きるまでは、誰も私の事前の警告を真剣に考えようとしなかった。そもそも、全ての元凶は居眠り運転の運転手、そして監督不行き届きの運送会社。そういうことも忘れないで」

 そう答えて私がベンチから腰を上げようとすると、逸美は「まだ」と私を引き留めた。

「訊きたいことがあると言ったでしょう。朝美はどんな予知夢を見たの」

 私が学校と警察に対して行なった説明を繰り返すと、逸美はフーンと鼻を鳴らした。

「それで、どうしてあの日だと分かったの」

「逸美が月曜朝のおねだりをしてくるようなイメージがあったから」

 逸美は再びフーンと鼻を鳴らすと、ベンチから腰を上げた。私は背後から声を掛けた。

「逸美はここまでどうやって来たの。私は自転車なんだけれど、逸美は歩いて……」

 逸美は一旦足を止めて振り返り、「スクーター」と言い残して去って行った。

 知らなかった。逸美がスクーターに乗っていたなんて。学校の規則ではバイクは原則禁止。許可は何らかの事情がある者のみ。私は逸美の全てを知っている訳ではなかった。

 

◇◇◇◇◇

 

 年が明けて大学入試と住まい探し。東京にはすでに二度ほど出向いていたけれど、今日は三度目、これが本番。私のウエストポーチには市役所から受け取った転出証明書が入っていた。

 朝、通勤通学の客で程々に混み合う駅のホームに私と両親、親戚の叔父さん。叔父さんは人懐っこい風貌に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 酒がなくてもお喋り好きで愉快な叔父さん。あなた様がこれから何をしようとしているのか、私はとうに存じております。さらには、今から数十年前にあなた様も同様に送り出されたことも。そうです。その通りです。私はあなた様の大学の後輩になるのでございます。でも、だからと言って、何もそこまで気張らなくても。

 駅構内に電車の接近を知らせるアナウンスが流れ始めた。その瞬間、叔父さんは「それでは」と大声を張り上げた。

「佐度野朝美君の前途を祝して……」

 叔父さんは「万歳」と叫びながら両手を高く振り上げた。両親が慌てて周囲に目を遣った。私はすでに経験済み。平静を装い、頭を下げた。この後に起きることも私は知っている。万歳三唱が早すぎて、列車の到着までの三十秒くらいの間、私たちはばつが悪そうに無言で立ち尽くすのだ。そして、遂に到着した列車に私は荷物と共に乗り込んだ。

 程なく新幹線への乗り継ぎ駅に到着した。新幹線ホームへ向かう途中の待合室では、すでに逸美が待っていた。逸美は笑みを浮かべて隣の空席をポンポンと軽く叩いた。その姿に私は目を見張った。逸美はやはり可愛らしく、しかも大都会ネイティブの女子大生にしか見えない垢抜けた装いになっていた。

「何?」と逸美は尋ねてきた。

「良いコーディネートだね、服」

「ポイントは配色とちょっと緩めな所」と逸美は笑みを浮かべた。

「あれはやめたの? 魅惑の激盛」

「イメージチェンジする。大学生にアップグレード」と逸美は軽く笑った。「それにしても何だか意外。朝美が私と同じ大学なんて。先生たちから、勉強しすぎて人が変わったとか言われていたんでしょう。あれは本当だったんだ」

「またその話?」と私は苦笑した。

 私にとっては四回目の人生。三回目ですでに最上位レベルの大学に合格しているのだし、今回は有り余るほどの余裕があった。でも一回目の人生では、私は中堅レベルの大学に進学した。逸美の視点では、確かに私の進路は意外なのかも知れない。

「逸美の方こそ私に宿題を頼り切っていたのに、良く同じ大学に」

「勉強そのものはしっかりやっていたから。学校の宿題が面倒臭かっただけで。宿題に時間を使うくらいなら、予備校の方に集中した方が良いと思った」

「つまり、私を良いように使っていた」

「違うでしょう。私は朝美に予習復習をさせてあげていたの」

 そう言って、逸美は自慢げに鼻で笑った。

 逸美は文系科目に専念するために理系科目を半分投げている。私はてっきりそう思っていた。それなのに最上位レベルの大学に一発で合格するなんて、逸美がそこまで優秀だったとは想像もしなかった。逸美は以前から要領の良さを自任していた。その様子を私は半信半疑で眺めていたけれど、どうやら自信過剰ではなかった模様。

 この話をするのはこれで二度目だった。一緒に住まい探しをした際には、逸美はもう少し控え目な話し方をしていた。ここまであからさまに言われてしまっては、これまで弄ばれていたような気がして、何だかちょっと癪に障る。

「逸美。アップグレードに浮かれているの? これから初めての独り暮らしでしょう。調子に乗っていると痛い目に遭うよ」

「朝美が一緒にいるから大丈夫」

 私は呆れた。逸美はこうやって適度に甘えることを忘れない。やはり、可愛らしさにせよ、要領の良さにせよ、調子の良さにせよ、逸美の方がかなり上。

 その時、アナウンスが流れた。まもなく大都会へ向かう列車が到着する。私たちは待合室を出て、自由席車両の乗り場へ向かった。

 

◇◇◇◇◇

 

 築数十年の質実剛健アパート。私はその二階の一室で、逸美は三階で新しい生活を始めていた。

 新入生の朝は慌ただしい。買い置きしておいたハムとポテトサラダを食パンに挟んでかぶりつき、カフェラテ気分のコーヒー牛乳で流し込んで朝食完了。そそくさ、いそいそと家を出る。

 大学での逸美はフェミニンコーデ。新入生で混み合うキャンパスの正門付近にはサークルへの入会を呼び掛ける男子学生たち。逸美は片端からチラシを受け取り、私はチラシ配りを無視し続ける。逸美。それは多分飲みサーだよ。ヤリサーだよ。エセ宗教だよ。どれもこれも、オタサーの姫になった方がまだましだよ。そんな忠告を連発しながら私は逸美からチラシを奪い取り、クシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込む。

 逸美は文系。理系の私と講義が一緒になることはないけれど、夕方前に再び合流。逸美はどこかの新入生勧誘コンパに出掛けては、愛嬌を振りまき、男子学生たちをおだて続け、満腹になると男子たちに奢らせて優雅に退場する。逸美。こんなことをしていたら、その内に男子たちに恨まれるようになるよ。そんな忠告をするために、私も逸美に付いて行く。

 休日午後の若者の街、逸美はミニスカートとオーバーニーソックス。いかにも頭が豆腐な男たちが軽い乗りで声を掛けてくる。そのたびに、逸美は純真無垢を装ってわざとらしく戸惑い、私は警戒心を秘めて倦怠をあらわにする。逸美。言葉遣いがポンコツで、顔に締まりのない男たちなんか無視しな。

 それにしても、逸美に群がる男の多さには呆れるばかりだった。逸美の愛らしさは演出だけのものではない。鈴木圭太に言わせればセックスアピールなのかも知れないけれど、やはり逸美は本来的に可愛らしい。

 逸美はミスキャンパス・コンテストへの出場を主催者から直々に打診された。そんな逸美に私は受け売りの警告を強く発した。逸美。衆目に曝されて翻弄されて、下品に醜く消費されるフェイクアイドルで終わってしまうだけだよ。

 淑女の言葉遣いをもって最も優雅に評すれば、お嬢様風クソビッチ。やさぐれちまった哀しみに、鐘が鳴るなり春の寺。私はそんな風に呆れながら、大学入学から数週間後の週末夜、遂に逸美の部屋に乗り込んだ。

 壁際にはベッド。向かいの壁際には勉強机と簡易な本棚と小振りなドレッサー。そんな居住空間にせよ、小ぢんまりとしたキッチンにせよ、整理整頓の行き届いた機能的かつ調度が少々貧相な部屋。逸美は勉強机に着き、私はベッドに腰を下ろして説諭を開始した。

「逸美は一体何を目指しているの?」

「プロ女子大生ユニット・いっちゃん・あっちゃん?」

 そんなことを宣いながら意味不明に科を作る逸美お嬢様。

「ださっ」と私は歯切れよく罵った。「私は御両親から頼まれているんだからね。真剣に学生をしないのなら、陀打団田本舗に匿名で電話を掛けるよ。和菓子屋の娘が都会の男たちで遊んでいるって」

「何で匿名?」と逸美は鼻で笑った。

「御両親いわく自慢の娘。匿名の通報で、娘の正体も明かさない。この気遣いと情けが分からないかな」と私も鼻で笑った。

「でも、寄ってくる男たちは皆、まずは朝美を見る」

「でも、いつの間にか皆、逸美に群がっている。逸美は愛嬌を振りまきすぎ」

「それならアイドルユニットはやめて、アイドルと付き人にする?」

「どちらがアイドル?」

 私たちは同時に笑みを浮かべた。

「朝美は黒のスラックス。私はお洒落なスカート。そこが見た目の一番の違いかな。朝美にはスラックスやユニセックスへのこだわりがあるの?」

「逸美は何でミニスカートやフェミニンにこだわるの?」

 逸美は再び科を作って小首を傾げた。

「一度、朝美のミニスカート姿を見てみたい」

「本当に見せてもいいの?」

「朝美はほんと分かってないな。気に入った男子がいたら、朝美の方からアプローチしてみたら。うちの大学には打たれ強い堅実な男子が大勢いるでしょう。優良男子の路地販売は早い者勝ちだよ」

「冗談」と私は大袈裟に仰け反った。「文系の方は知らないけれど、理系の方はどいつもこいつも、もごもごしたり、逆にいきなり距離を詰めてきたり、本当にどうしようもない。知っている? 男子たちは陰で女子たちのことを噂している。だから男子たちは、女子たちも陰で男子たちのことを噂していると思っている。痛いよね。痛すぎるよね」

「さすが、男嫌いの佐度野朝美」

「フルネームはやめ……」と私は言い掛けた。「私は別に男嫌いではないよ」

「自覚が無いの? いずれにせよ、私だって限度はきちんと判断できるから大丈夫」

 私は逸美のその言葉に反論しかけて思い留まった。私は逸美の葬儀に三度も参列した。その逸美がこの世に蘇って人生を謳歌している。逸美が羽目を外しすぎないよう、私が気を付けていればそれで良いか。そんな風にふと思って、私は説諭を切り上げた。

 詰まっていた何かがすぽっと抜けてしまったかのような能天気な日常。結局のところ、そんな暮らしもそれなりに刺激的で楽しくはあった。

 一回目と二回目の人生は私独り。先のことを考えて、禁欲的に学業と仕事に励むばかりだった。三回目の人生には鈴木がいた。でも鈴木は男。しかも別の大学。たまに連絡を取り合ってスポーツ観戦に行く程度の付き合いだった。

 一方、今回は私と逸美の女二人。どこへ行くにも、何をするにも、何の気兼ねの必要もない間柄。良し悪しはともかく、逸美は女であることを最大限に享受し、私はそんな逸美の奔放さに密かに感嘆していた。

 とは言え、どう考えても、逸美の浮かれぶりには二つの面がある。大都会で新しい生活を始めた興奮。彼氏となった山田君を失った反動。興奮が醒めて反動だけが残ったら、逸美は荒み切ってしまうのではないだろうか。

 私は一回目と二回目の人生で、自ら荒んで転落していく同級生女子たちを散々目にした。三回目の人生では、徐々に変質していく鈴木圭太のありようを目の当たりにした。

 逸美は大丈夫だろうか。逸美が惨めに道から外れていくところなんて見たくない。

 時の繰り返しなんて永遠には続かない。いつか終わる時がやって来る。私はもう一度だけ過去へ行き、そこで必ず三人全員を救って終わらせる。

 

◇◇◇◇◇

 

 六月中旬のある日の夜、私は逸美の部屋で小さな紙片を握り締めて硬直していた。数字を七つ当てるタイプの宝くじ。床にクッションを敷いて座り込み、逸美と額を寄せ合って確かめてみると、指数本億円の一等賞が当たっていた。

 私と逸美のそれぞれで二本ずつ購入した宝くじ。一本は私が選んだ数字を七つ、もう一本は逸美が選んだもの。二人のどちらかだけが大きく当てるとギクシャクしそう。そんな楽天的な夢想の末に考え付いた購入方法。そして、いざ蓋を開けてみれば、逸美の選んだ方が大当たり。私は逸美の強運に仰天してしまった。

 逸美は銀縁メガネの奥で目を細め、自分の券を眺めてニヤニヤするばかり。私が「金庫を買おう」と提案すると、逸美はエッと声を上げた。

「手提げ式の小さなもので良いから二つ買って、それぞれどこかに隠しておこう」

 逸美はいかにも意味が分からないと言いたげに可愛らしく首を傾げた。私は逸美の部屋の押し入れに目を遣りながら解説を加えた。

「高額当選の場合、二十歳前の換金には親の同伴が必要になるから。私の誕生日は四月で、逸美は五月だよね。だから、私は十か月、逸美は十一か月、じっくりと熟成させる必要がある」

「来年まで待つの?」

「賞味期限は一年間だから大丈夫」

「親に同伴してもらうのは」

「こんな大金、身内にも安易に明かせないでしょう。トラブルの噂を良く聞くよ。少なくとも総額は秘密にした方がいい」

 逸美は怪訝そうな表情で何かを考え込んでしまった。それに合わせて、私も予想外の幸運に考えを巡らせた。

 前回の人生、制度の詳細を理解しないままにスポーツくじを購入して一等賞を当てたのは大学一年生の三月だった。直ちに換金の手続きを調べ、その約一か月後に私は二十歳になり、換金には何の面倒も生じなかった。そして、資金の一部を銀行口座に残し、それ以外は全て証券口座へ送金し、私は隠れ富豪への道を歩み始めた。

 それに対してこの今回。この幸運は大歓迎すべきことではあるけれど、どう考えても早すぎる。換金までは券を無くさないよう、気苦労が増えてしまいそう。それにしても、逸美の強運はまるで繰り返された事故死の反動であるかのよう。思い返してみれば、原始人の鈴木圭太も初めての挑戦でスポーツくじの三等賞を当てていた。

 そんなことを思った時だった。逸美が口を開いた。

「朝美は良くそんなことまで知っているね」

「皮算用のついでに調べたから」と私はあっさりとごまかした。

 

◇◇◇◇◇

 

 暦の上では確かに秋。でも、実態は粘り強く居座る夏。そんな九月下旬の休日、逸美はレンタカーのハンドルを気楽に握り、私は助手席でカーナビを触ったり地図帳のページをめくったり。西の山々を貫くハイウェイを走り抜けると、孤高の富士山がすっきりとそびえていた。

 山々を越えたテーマパークならぬテーマエリア。それが私の第一感だった。心の年齢五十五歳。富士山を目にしたことなど幾百回、幾千回。でも、それらは全て山並みを挟んだ遠方からのこと、もしくは東海道新幹線の車窓からの眺望。実際に足を運んで私は初めて知った。富士の裾野に点在する湖の景色は雄大だった。

 私も逸美も互いの一等賞の件については、知らぬ存ぜぬを貫くと約束を交わしていた。そして、私の当選券は手提げ式金庫に大切にしまって自室の押し入れ。一方、逸美はさっさと故郷から御両親を呼び出して賞金を入手した。

 逸美いわく、朝美は堅実で慎重なのだろうけれど、一線を越えられない詰まらない人間だよね。そんな皮肉めいた言葉に、私は特に反論しなかった。何という腐れ縁。あの事故を境に逸美は変わってしまった。やさぐれちまった哀しみに、鐘が鳴るなり夜の寺。私はそんなことを思うばかりだった。

 逸美は私に借用書を書かせて三百万円を押し付けてきた。そのおかげでアルバイトの必要性が無くなった。さらには夏休みの後半、合宿形式の自動車教習所で二人揃って運転免許を首尾よく取得。今日は二人で初めて長距離ドライブに出掛けていた。

 でも、私は冷や汗をかくばかりで中々楽しめなかった。運転免許証を取得したのは四回の人生を通して初めてのこと。車がひしめく街中の運転は早々に逸美に譲ってしまった。

 一方、逸美は高校時代に原付スクーターに乗っていた。その経験が生きているのか、車の流れに乗ることについても、エンジンとブレーキを手懐けることに関しても、逸美は私よりもはるかに上手かった。

 高速道路を降りてからは私の運転、山中湖畔をぐるりと一周。途中で車を降りて、景色を眺めて写真を撮ったり、レストランに入って食事を摂ったり。

 逸美いわく、今日のコーデはワンピース・フリル・ゴシック・ロリータ・コスプレ・お嬢様風・宮廷風・長袖ロングドレス。要するに、逸美はコスプレとドレスとお姫様を足して三で割り、そこに魅惑の激盛を搭載したような服を身にまとっていた。

 白地に紺地を重ねた上等なドレス、足元はシックな色合いのロリータパンプス。手にはそれらに相応しいデザインの日傘。銀縁メガネは外してコンタクトレンズ。どこで覚えたのか、プロ並みのメイクアップで大変身。そんな姿で逸美は湖畔の遊歩道をしずしずと歩く。

 一方の私はトレーナーにスラックス、足元はスニーカー。腰にはウエストポーチ、手には一眼レフの本格派デジタルカメラ。私が趣のある景色を見付けて「はい、ポーズ」と声を掛けるたびに、周囲の観光客は皆気を遣ってさっと退き、逸美はそれらしく科を作る。

 女優ですか。アイドルですか。グラビアの撮影ですか。見知らぬ人から何度そんな質問を受けたことだろう。そのたびに、私は半ば頷き半ば首を振って笑顔でごまかす。皆様、申し訳ございません。私たちはただのお馬鹿な大学生。こいつは大金を持たせたらやばい奴なのでございます。

 帰りの高速道路、逸美は軽快に車を走らせながら「これだから朝美は」と言った。私は素知らぬふりをして、手提げ袋の中の土産物を確かめた。逸美は地場の菓子類。私は地場の漬物類。やはり、逸美は和菓子屋の娘だった。

「私が『せっかくだから普段はしないような格好をしよう』と言ったら、朝美は急にバニーガールとか言い出して、私もその気になってコスプレをしたら、朝美はバニーどころかミニスカートすら履かないし、やっぱり朝美は妄想するだけで終わりの詰まらない人間」

 やり切ったという興奮の余韻が残っているのか、逸美はいつにもまして饒舌だった。

「ごめん」と私は一応謝罪した。

「以前もあったよね。セクシーな水着を買うかどうか散々迷って買わなかった」

「私もお洒落に興味はあるけれど、自分に気合を入れるためのお洒落と、人にアピールするためのお洒落は別でしょう」

「抽象的な反論は禁止。今、私が考え込んだら、事故が起きる」

 運転席を一瞥すると、逸美は真剣な表情でハンドルに手を添え、前方を凝視していた。念のためにその足元を覗いてみると、スニーカーに問題は無い模様。仰々しいスカートとパニエの中に潜り込むようにして私が履き替えさせた物。逸美の足はゆったりとペダルに乗せられていた。

「やはり、人前でバニースーツはハードルが高すぎた」

「これだから朝美は。採寸までして、いざ本当に特注したら、なんだかんだと尻込みし始めて。お金は私が払ったんだからね」

 私は前方の車列を呆然と眺めながらウーンと呻いた。最初は何の気なしに調子に乗ってしまった。でも、いざ発注の段になって費用を確かめてみると、オーダーメイドの業務用高級バニースーツはかなり高額。頭の上から足の先まで一式の費用を逸美が現金一括万札の束であっさりと支払い、私は背徳感に後ろめたくなってしまった。

「来年になったら全額まとめて返すから……。それに今日だって、レンタカーを借りに行ったり返しに行ったりするのは、普通の格好をしている私だから出来ることで……」

「バニースーツの上から普通のコートでも着ればいい」

「それでは変質者。それに、バニーではトイレに行くのも大変だし……」

「文句が多すぎる。朝美は激盛とか言って私を散々からかうけど、朝美に出来るのは結局、せいぜい大人しい水着を着て恰好を付けるところまでだよね。そういう一線を越えられないお堅い所、とても良いとは思うんだけどね」

 師匠と私は心の内で呼びかけた。バニーガールという言葉で私を魅了したのは奥様だった。そして奥様は見抜いていた。私は一線を越えた先については妄想するばかりで終わっていると。奥様は、良いパートナーを見付けて二人で密かに人生を楽しみ尽くせと言った。この四回目の世界でも奥様は元気でやっておられるだろうか。

「逸美。一線を越えるのなら方向性も良く考えないと……」

「抽象的な反論は禁止。良く考えていないのは、お調子者で抜けていて、むっつりスケベの佐度野朝美。今日、朝美は私の写真を一杯撮ったよね。今度、どこかの貸しスタジオを借りよう。私がバニーの朝美を撮ってあげる。パソコンはあるから、あとはプリンターを買って二人だけの写真集を作ろう」

 お調子者の末路。私は返答に窮した。

「無利子無担保一年間。まさか、こんな優良な金貸しに盾突く人なんていないよね」

 借金持ちの悲哀。私は渋々了承した。

「バニーガールも凄いよね。ヘアバンドと、蝶ネクタイと……、カフスと、バニースーツと、網タイツと、ピンヒール。尻尾が着脱可能なんて知らなかったし。お化粧は私に任せて。朝美のそういう姿、想像するだけでぞくぞくする」

 妄想系の悪癖。その時に取るべきポーズを私はちょっと思い浮かべてしまった。

 

◇◇◇◇◇

 

 十二月の中旬、冬休みが近付いていた。大平野を冷たい風が一気に吹き抜け、大都会の高層ビルが風切り音を響かせる。そんな中、本日土曜日の午前は在宅するようにとの通達が大家さんから届いていた。

 十月中旬から質実剛健アパートの大規模修繕が続いていた。今日は最後の手順。建築士が施工の結果を確認する。各自の部屋や建屋全体に関する調査に協力するようにとの要請だった。

 建てるだけが建築ではない。メインテナンスを知らなければ、良い建物を作れない。設計事務所の所長のそんなポリシーのもと、私もかつて大規模修繕の最終確認検査の仕事を時折担当していた。

 前三回の人生では、私はこの日、アルバイトに関連する用事で外へ出ていたとの覚えがある。そして今回は四回目。心の年齢五十五歳、心はベテラン建築士。今日やって来る建築士の仕事ぶりをちょっと確かめてやろう。そんな気を起こして、大家さんに後学のためにと検査への帯同を申し出ると、私の大学の知名度と信頼度のゆえか、大家さんはあっさりと認めてくれた。

 篤志家気質でしっかり者の大家さん。そんな人と共にアパートの出入り口付近で待機していると、一台のスクーターが乗り付けてきた。

 寒風の中、モコモコに着膨れした人影は敷地の隅にスクーターを止めると、首を引き抜くような勢いでヘルメットを外した。現れた顔には大きな見覚え。私は思わず「所長」と声を掛けてしまった。

 所長と大家さんが怪訝そうに私の様子を窺ってきた。私は慌てて、二人に話を進めるよう促した。所長は大家さんから私の素性を聞くと、ホウと声を漏らした。

「あの大学で建築士を目指している。しかも、今日は後学のために見学をしたいと。良い心掛け。付いてきなさい」

 私が営業スマイルで会釈すると、所長は「ところで」と言った。

「君とはどこかで会ったかな」

「いえ。業界誌か何かで見たことが……」

 所長は私をジッと見詰めながらフーンと鼻を鳴らした。

「あのう」と私は探りを入れた。「設計事務所の所長さんがこういう現場の仕事を……」

「うちは設計から保守までを請け負う何でも屋だからね。目標はホワイト、オールマイティー、エンジョイ・ライフ。有給休暇をきちんと使い切るよう所員を順番に休ませて、そういう時には私も現場にね」

 その言い回しと言葉の内容に私は安堵した。所長は私の知っている所長だった。

 早速検査が始まった。建屋の外回り、次いで内回り。共用部分、次いで各戸の調査。住人の多くは大家さんの要請に従って在宅していた。そのほとんどは問題なしと返答。たまに「ベランダが。水回りが」などの指摘があると、所長と大家さんは私を玄関外に残して入室していく。そして三階建ての三階、最後の部屋は逸美の部屋。

 逸美は玄関に姿を現すと、「ベランダの手すりの塗装にむらが」と申告した。所長と大家さんが入室し、私も「この子は友達で、この部屋にはいつも来ていますので」と断りを入れて二人に続き、部屋の壁に目を遣り驚いた。

 私はベッドに駆け上がり、壁を背後に隠した。その瞬間、大家さんが低い声音で問い質してきた。

「佐度野さん。何かあるの? まさか、壁に穴が開いているとかではないでしょうね」

「違います。大家さん」

「それなら見せて」

「ただの写真です。写真が掛けられているだけです」

「隠さなければいけないような物なの? 私は親御さんたちからあなたたちを預かっているの。見せなさい」

 私は逸美を睨み付けた。その顔は緩んだり締まったり、銀縁メガネをガクガク揺らして、それで笑いをこらえているつもりか、このクソビッチ。私はそんな風に内心で罵りながら渋々脇に退いた。

「お、おお……」と所長が呻いた。

「所長。検査続行。ベランダ、ベランダ」と私は急かした。

 所長は我に返ったようにベランダへ出て行った。

「佐度野さん。陀打団田さん。あとでちょっとお話しをしましょう」

 大家さんもそう宣言して所長の後を追った。

「逸美は馬鹿なの?」と私は小声で罵った。

「ごめん。忘れてた」と逸美は満面の笑みを浮かべた。

「こんなもの、いつ作ったの」

「ついこの間。何だかぞくぞくが止まらなくて」

 私は壁から大きな額縁を外し、裏返して壁に立て掛けた。その中には自前で印刷したと思われる巨大な写真、貸しスタジオで撮った私のバニーガール姿があった。

 首には純白のカラー、手首には純白のカフス。その他の出で立ちは黒ずくめ。ストレートショートの黒髪。少し冷淡にも見える澄まし顔。背筋を伸ばして自然体で立ち、腰に両手を当てて微妙に腰をくねらせる。

 ピンヒールと網タイツとハイレグがあんなにも脚を長くすっきりと見せるなんて。バニースーツがあれほどのウエストのくびれと胸の谷間を作り出すなんて。ナチュラルなヘアセットとメイクアップがあそこまで顔立ちをくっきりと映えさせるなんて。

 逸美いわく、固定資産税を課すべきシルエット、国宝級のバニークイーン。誇張や揶揄のたぐいと分かってはいても、私自身でも言葉を失うほどの奇跡の一枚。そこにはナルシシズムの奔流に溺れてしまいそうな甘美な背徳感があった。

 程なく、所長と大家さんが戻ってきた。所長はあからさまに私から目を逸らし、逸美に対して「あの程度のむらはどうしても残ってしまう」と説明して部屋を後にした。大家さんも「二人とも、あとでね」と言い残して所長の後を追って行った。

 その時になって私は我に返った。このままでは事態の推移が変わってしまう。前三回の人生では、インターンシップを切っ掛けに所長の設計事務所に出入りするようになり、そのままそこに就職した。誤解を解いておかなければ、その道が失われてしまう。私は「釈明に付き合いな」と逸美に厳命し、そのままアパートの正面玄関へ向かった。

 寒風を避けながらしばらく待っていると、所長と大家さんが現れた。所長は伏し目がち。一方の大家さんは厳しい眼差しを私たちに向けてきた。

「所長さん」と私は声を掛けた。「今日見たことは内密に……」

「クライアントのプライバシーには関与しない。それが規則であり当然のマナーだから」

「それから、再来年辺りにインターンシップをお願いしたいのですが……」

「再来年」と所長は首を傾げた。「その話はちょっと早いな。それに率直に言って、いくら所属する大学が立派でも、勉学に集中していない者を受け入れるのはちょっと。建築士は国家資格なのだし」

「違うんです」と私は首を振った。

 キング・オブ・キング、ヘラクレスオオカブト。所長も身をもって知っているはず。

「あれは単なるコスプレです。単にああいう格好をしてみたかっただけなんです。ああいう格好で何かをしている訳ではないんです」

 所長は何かに思い当たったかのようにフーンと鼻を鳴らした。大家さんが口を挟んできた。

「本当に変なことはしていないんでしょうね。うちで預かっている子の中から身を持ち崩すような子が出たら、親御さんに顔向けできない」

「大丈夫です。問題ありません」

「勉強の方はしっかりやっているの?」

 私は言葉に詰まった。返答に窮した。

 最近、大学の講義が気だるくて仕方が無かった。一回目は中堅レベルの大学、二回目は上位レベル、三回目は最上位レベル。それぞれがそれなりに目新しく、やりがいを感じて努力した。でも、今回は三回目と同じことの繰り返し。

 すると、ここまでのらりくらりと黙り込んでいた逸美が口を開いた。

「私も佐度野も大丈夫です。私はこの前、税理士試験に合格しましたし」

 私は驚いて逸美の顔を凝視した。所長も「ええ?」と声を上げた。

「私は詳しいことは知らないのだが、そんなに簡単な試験ではないだろう。そもそも受験資格を満たすのも大変だと聞いている」

「私は高校生の時に簿記一級を取って、その資格で夏に税理士試験を受けて、先月合格通知が届きました」

「おお」と所長は声を上げた。「詳しいことは知らないのだが、とすると合格者の最年少記録に近いのでは……」

 寒風が吹き抜けた。逸美が笑みをこぼした。私は頭を強打されたような気がした。

「ですから」と逸美は大家さんに目を向けた。「私も佐度野も大丈夫です。コスプレは単なる息抜きです。ちなみに、私は貴婦人風ドレスです」

「本当に息抜きだけなら良いけれど、羽目を外しては駄目よ」

「人生は意欲と意志をもって自ら突き進んでいくもの。本業であろうと、息抜きの娯楽であろうと、最大限に努力して楽しむ。それが私たちの考えです」

「素晴らしい」と所長は両の拳を握り締めた。「エンジョイ・ライフ。エンジョイ・プレイ。人生を堅実に楽しみ尽くす」

「その通りです」と逸美は大きく頷いた。

 所長は逸美と私に名刺を差し出すと、「今度、事務所に遊びに来なさい」と言い残して去って行った。

 私は愕然としてその場に立ち尽くした。逸美は優秀すぎる。逸美の言葉は立派すぎる。まさか、私と同じように過去への移動を繰り返しているのだろうか。でも、いつ、どうやって。私が救わなければ、逸美は事故死するばかりだったのに。

 いずれにせよ、夜な夜な自室で独りナルシシズムに陶酔し、魅惑のポーズを追究している場合ではなかった。逸美の能天気は見掛けだけ。逸美のペースに合わせていたら、私の四回目の人生はあらぬ方向へ迷走してしまう。

 

◇◇◇◇◇

 

 三月、私は大都会の特大スタジアムへ向かっていた。未だ肌寒くはあっても良い陽射し。手提げ袋には水筒と弥生亭の懐石弁当。前回のこの日には長髪原始人と化した鈴木圭太がいたけれど、今日の私は独りきり。逸美は敢えて誘わなかった。

 スタジアムへ通じる道には大量のサポーター。今年のシーズンが開幕したばかりとあって、皆の表情は晴れやかだった。未来があればこその夢と希望。主力選手、新加入の選手、今年の最終順位の予想。そんな話題で辺りは賑わいを見せていた。

 バックスタンドの一番値の張る席に腰を落ち着け、早速食事を開始した。やはり、弥生亭は店構えよりも料理人の腕の方が勝っている。そんな風に感じさせる久方振りの繊細な味わいに私は感慨を覚えた。

 食事が済んで程なく試合が始まった。事態の推移は容易に変わる場合もあれば、中々変わらない場合もある。さすがに私の存在と言動がプロスポーツの試合に影響を与える訳は無く、何となく覚えのある光景が眼下に広がった。

 相手側ピッチの奥へロングボール。ヘディングの競り合いがファールとなってフリーキック。相手側ゴールを直接狙うけれど、クリアされて得点は入らない。記憶の通りに試合が運び始め、私は興味を失って物思いに沈んだ。

 前回の人生の最終盤、最後の打ち合わせの中で私は得意げに鈴木圭太をからかった。私はこれでも最高峰の一つとされている大学を卒業したバリバリの理系なのだよ、圭太少年。すると、それなら歴史の改変についてと鈴木は根源論にこだわった。

 鈴木の疑問。私たちの心が過去へ移動したら、水溜りの脇に残された私たちの肉体はどうなってしまうのだろう。私はその疑問を根本から否定した。残された肉体などというものは存在しないと。

 一人一人の人生を川の流れに例えると、過去への移動は、上流のある地点に遡ってそれ以降の流路を変えることに相当する。当然その場合、元の流れはもはや存在しなくなる。つまり、水溜りの脇に肉体を残したという歴史自体が消えてしまう。

 鈴木の疑問。もし私だけが過去へ移動し、鈴木は移動できなかったら、水溜りの脇に立つ鈴木はどうなってしまうのだろう。私はその疑問に、同じことと答えた。

 私は上流で山田君といっちゃんの流れを大きく変える。それは鈴木の流れを変えることにもなる。三人とも、流れを変えられたことに気付かないまま、そこから新しい人生を歩むことになる。

 鈴木の疑問。そうなったら、鈴木のこの十八歳から三十歳までの人生は消えてしまうのだろうか。私はその疑問に婉曲に返答した。だから、記憶を持ったまま二人で一緒に過去へ移動するのだと。

 でもまさか、鈴木の懸念が現実のものとなってしまうなんて。それも最悪の形で。

 そんな物思いに沈んでいる内にも前半戦は終了し、観客も思い思いに休憩に入った。すると早速、顔に締まりのない男が二人、婚活パーティーでは真っ先にふるい落とされるタイプ、私に近付いてくると脈絡のない雑談を仕掛けてきた。良くあること。またナンパ。私は適当にあしらい、男たちを追い払った。

 鈍い男は鬱陶しい。なぜ、独りで居たいというオーラを察知できないのか。ハイブランドをひけらかすオヤジたちの足元にも及ばない、安くて薄い存在感。あのひ弱さでは多分、競走をしたら元陸上部員の私には追い付けない。

 あのはた迷惑な自信は、砂場に突き立てた小枝みたいなもの。心の年齢五十五歳。それくらいのことはお見通し。ちょっと難しい言葉遣いで丁寧に応対してやったら、さりげなく意味不明に逃げて行った。せめて、おずおず、もじもじとしていたら、少しは可愛げもあっただろうに。

 逸美は私のことを男嫌いのサディストと評するけれど、ああいう男たちが嫌いなだけ。そもそも、ピッチ上を溌剌と駆け回るプロ選手たちの雄姿を鑑賞した直後に、あんな頭も体も貧弱な男たちのどこに興味が湧くと言うのか。

 思い返してみれば、スポーツ観戦の際、私の隣にはいつも鈴木がいた。元ラガーマンの鈴木はいかにも厳つく、私たちに余計な干渉をしてくる男などいなかった。その意味では、鈴木圭太は実に頼りがいのある男だった。

 前略。圭太少年。君はこの日、この場所で私に尋ねてきたよね。まさか、何とか嬢とか、何とか女子とかになっていないだろうなと。この前のクリスマス、私は何と生まれて初めて女子会なるものに参加したんだ。これでクリぼっち女子の汚名は返上さ。参加者は私と逸美の二人だけだったんだけれどね。でも、次の機会には君も誘ってあげる。それから、スポーツくじも一緒に買おう。株のこともさり気なく教えてあげる。それらは約束みたいなものだからね。

 もし、山田君が生きていたらどうなっていたのだろう。山田君とのお出掛け、繁華街巡り、スポーツ観戦。その時には、私ももっと女らしくお洒落をして、山田君に甘えてみたり、山田君をからかってみたり、ちょっと振り回してみたりしていたのだろうか。

 そんな回想と夢想に軽く酔い痴れていると、程なく後半戦が始まり、今度は物思いに耽ることなく緊張し始めた。

 今回も一等賞を当てられるだろうか。逸美と買った宝くじの賞金もあることだし、一つ前の回のスポーツくじを買ってキャリーオーバー分を私が総取りしてしまうのは、何となくやり過ぎのような気がする。この人生でも前回と同じく見知らぬ人との山分けで良い。

 徐々に緊張が高まっていく中、約一時間後、結局一等賞。事態の推移に変化は無かった。

 スタジアムを後にした頃には、日が暮れ始めていた。前回の人生では、このまま鈴木と連れ立って弥生亭で夕食。しかし、今回は大人しく帰宅することにした。

 帰り道の電車の中、私はつり革に掴まって車窓の外をぼんやりと眺め、一大イベントが成功裏に終わったことに安堵しながら再び黙考し始めた。

 過去への移動は稀な現象。それはあまりにも明白。噂に聞いたこともなく、様々な文献に当たってみても、それらしき記述は見出せなかった。

 鈴木はあの水溜りを認識できず、過去へも戻らなかった。それを知って改めて考えてみると、水溜りは自然現象であり、人の意識も自然現象の範疇にある。となれば、自然現象同士の相性のようなものもあるのだろう。でも古今東西、私だけが特別とは思えない。私以外にも過去への移動を経験した者はいるに違いない。

 私がそうだから逸美も。それは突飛な憶測に過ぎないのだろうか。逸美の宝くじ、人並外れた優秀さ。どう考えても出来すぎている。やはり私にとっては、逸美も人生を繰り返していると考えるのが最も理解しやすい。今回私は一人でスポーツくじを当てたけれど、逸美も必要とあればどこかで再び当てているような気がする。

 未来から過去へ心が移動すると、人生経験を積んだ分だけ過去の人格が変わってしまう。あの事故から約一か月後、逸美は間違いなく変化していた。あの時は事故のショックによるものと考えたけれど、実は過去へ移動してきた結果だったのかも知れない。

 私が救ったことで、逸美の人生に未来が生じた。そして、私よりも一足先に過去へ移動し、事故の直後へ戻っている。逸美の現状を考えれば、おそらく逸美の人生もすでに三回目か四回目、もしかするとそれ以上。知らない内に私もそれに付き合わされている。

 そんなことを繰り返されたら、私はいつまで経っても事故の前へ移動できない。少なくとも、逸美が私とは別の水溜りで過去へ移動するのは阻止する必要がある。

 いや。無自覚に繰り返された人生の中でも、私は同じことを考えたに違いない。それでも逸美が過去への移動を繰り返してきたのなら、私はこれまで一度も逸美の移動を阻止できなかったことになる。

 いや。逆に毎回、逸美の過去への移動は阻止できないと考えて、私は結局何もしなかったのかも知れない。考え過ぎ。堂々巡り。何が何だか良く分からない。

 逸美は本当に過去へ移動しているのだろうか。そうであれば、その目的は。それらを明らかにすることが先決問題。逸美には過去への移動の件は伏せておこう。

 

◇◇◇◇◇

 

 三月中旬、逸美が質実剛健アパートを引き払った。転居先は歩いて行ける範囲にある分譲マンション。昼過ぎ、私は先ほどから地図を頼りに大都会の街中をうろうろと歩き回っていた。

 つい数日前、逸美の御両親と弟が故郷からやって来た。大家さんへの挨拶、荷物の搬出、逸美が借りてきた軽トラックへの積み込み。貧相さを感じさせるほどに家財が少なかったのは、この引っ越しを見越してのことだったのだろうか。私も作業を手伝う中、御両親から事情を知らされた。

 鈴木圭太の父親の会社、鈴木商会の営業力を頼りに、株式会社陀打団田本舗は全国へ事業を展開することになった。こちらへの商品出荷が第一弾。陀打団田本舗の社長を務めるお父さんなどが今後、定期的にこちらに出向くことになる見込み。その宿泊の拠点として中古のマンションを購入したとのことだった。

 半時ほど歩き続けてようやく着いてみると、そこは安心安全かつ住み心地の良さそうな中規模マンションだった。大都会に典型的な住宅街。周辺の環境はかなり閑静。新居の間取りは三LDKとのこと。心の建築士たる私の見立てではおそらく築十年程度で八、九千万円台。かつては名家と呼ばれ、現在も大々的に実業を営む家には、やはりそれなりに資産があるのだろう。そんな風に私は納得した。

 セキュリティーシステム完備のエントランスから建屋に入り、五階の玄関でインターホンの呼び出しボタンを押すと、待ち構えていたかのように逸美が顔を覗かせた。

 持参した転居祝いの品を逸美に手渡し、早速家に上がり込んでみると、壁紙は真っさら、フローリングの床はピカピカ。まるで新築のように内装は整えられていた。廊下を進むと、突き当たりは南向きのリビング。そこにはテーブルと四脚の椅子。私は遠慮なく椅子に腰を下ろし、転居祝いの中身を確かめる逸美に声を掛けた。

「凄いね。こんな物件をあっさりと買ってしまうなんて、さすが陀打団田家」

「違うよ」と逸美は私に目を向けた。「ここはあの賞金で私が買った」

 私は驚いて逸美の顔を見詰めた。逸美はお金の専門家。それなのに、運用して増やすということを知らないのだろうか。それともやはり、宝くじを再度当てたのか。

「金遣いが荒すぎない?」

 私がそう尋ねると、逸美は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あの賞金の大半は株式会社陀打団田本舗に出資した。でも、うちの会社は非上場で無配だから、株主になっても何の得にもならないんだけど。あとは私のお金でこのマンションを買って、残りは三千万円ぐらいかな。立派な使い方でしょう?」

 返す言葉が見付からなかった。能天気なのは逸美ではなく私の方だった。

「私の出資金で設備を更新して、製造過程をかなり機械化して、量産がかなり可能になって、小規模ながらもいよいよ全国展開。朝美。何か言いなさいよ」

 心の年齢五十五歳。こんな風にやり込められたのは初めての経験だった。

「まいりました」と私は言葉を絞り出した。

「違うでしょう」と逸美は呆れたように言った。

「陀打団田本舗の前途を祝して万歳三唱」

 一旦狂ってしまった調子は中々元に戻らず、私はそんな間の抜けた冗談を口にして顔をしかめた。

「朝美はそれでいいんだと思うよ」と逸美は笑った。

「どういう意味?」

「でもさ」と逸美は気のない様子で話を続けた。「このマンションにせよ何にせよ、高すぎるよね。人が多いからこちらに進出する訳だけど、この国はいずれこういう大都市部から衰退することになるんだと思う」

「そうなの?」

「だって、歴史的には大昔から延々と田舎のような場所が当たり前に続いてきたんだよ。都市部は地方部が無ければ続かない。都市部が生み出しているのはサービスばかり。食糧生産一つ満足に出来ないんだから。だから最後には、人口動態なんか関係なしに、田舎のような場所がしぶとく生き残るんだと思う」

「さすが逸美。視点が別格」

 そんな風に私が率直に感想を述べると、逸美は自慢げに笑みをこぼした。

「ところで、朝美はどうするの。このままずっと、あの質実剛健アパート?」

「三年生になったら通うキャンパスが変わるから、それに合わせて引っ越す」

「宝くじの賞金で?」

「そう。予定通りに来月二十歳になったら換金して、親には宝くじで四千万円くらい当たったと連絡する。実家の住宅ローンなども含めて、私の周りの借金は全て終わりにする」

「残りのお金は?」

 私は逸美の表情を窺いながら慎重に答えた。

「株で地道に運用する」

 逸美は何の驚きも見せず、フーンと軽く鼻を鳴らした。私は自分の言葉遣いに違和感を覚え、すぐに取り繕った。

「地道って中長期投資という意味だから。株がリスク資産なのは知っている」

「十分に地道だよ。私はエンジェル投資だよ」

 その瞬間、私は自分を疑ってしまった。私は堅実を通り越して、けち臭いのではないだろうか。でも、宝くじに当たれば高級店でショッピング、当たらなければ激安店で値引きシールの争奪戦。社会のそんな構造の方がいびつなような気もする。

「うちは逸美の所と違って事業や商売をしている訳ではないし、いつか皆に楽をさせてあげられればそれで良いかなと思って」

「それも一つの考え方かな。大学を卒業したら、その後は?」

「大学を卒業したら、あの所長さんの設計事務所に入れてもらって、すぐに一級建築士の資格を取って……」

 一瞬、逸美が奇妙な笑みを浮かべたような気がして、私は問い質した。

「逸美は私の将来設計に興味があるの?」

「うちの弟が興味を持っている。かなり前から。『姉ちゃん。あっちゃんは大学を出た後も東京に残るのかな』って。言っている意味、分かる? 私、全然分かんない」

 私はアアと声を漏らした。心の歳月ではかなり昔のことになるけれど、確か逸美と知り合ってしばらくした頃には弟君との面識も出来ていたはず。そう言えば、逸美は高校生の頃、弟君に関して何か不穏なことを言っていなかっただろうか。

「まさかとは思うけれど、もしかして弟君に私の写真を見せたの? それはやめてよね」

「写真は見せていない。高一男子に女子大生は相当刺激的だったみたい。あんな風に成長するなんて、姉としては何だか複雑」

 思い出した。逸美は中学生の頃、小学生の弟君をたまに着せ替え人形にして、女装をさせて遊んでいたのだ。

「弟君は美少年タイプだし、高一ですでにサッカー部のレギュラーなんでしょう。立派な成長だよ。私は格好良いと思うよ」

「へえ」と逸美は笑みを浮かべた。「弟には釘を刺したんだけどね。朝美は美人系だし、賢すぎるし、あんたの三歳も年上だし、あんたには大物すぎるって。でも、朝美にその気があるのなら、私もお義姉さんと呼ばれてあげる。想像するだけでぞくぞくするよね」

 私はハハと虚ろな笑いを漏らしてしまった。

「逸美は大学を卒業したらどうするの?」

「私は大学を卒業したら、別の大学の大学院に進んで経営管理の修士号を取る。和菓子屋は全国にあって競争が激しいから、私が専門家になって経営に加わることにした。創作和菓子とか和洋折衷とか、これからの事業展開を色々と考えていくつもり」

 その青写真の大きさに私が溜め息をつくと、逸美はキッチンへ向かった。

「準備しよう。昼からすき焼きって豪華だよね。引っ越しのお祝いが牛肉って、やっぱり朝美の感性は中々だよね」

 逸美の呼び掛けに応じて、私は椅子から腰を上げた。

 

◇◇◇◇◇

 

「大賞。佐度野朝美殿。貴殿は第四十五回……」

 賞状を受け取って審査委員長に恭しく一礼、壇上の列席者にも一礼、会場に向き直って参列者にも一礼。三度頭を下げて少し視線をさまよわせてみると、所長と奥様、その隣にはちゃっかりとスーツ姿の逸美。

 大学三年生。これまでよりも早くに参戦。逸美の積極性に触発されて。所長に見くびられたくなくて。その結果はもちろん大賞。嬉しさ半分、空しさ半分。私は表彰式の壇上でそんな取り留めのないことを考えていた。

 今回の応募作は私の独自性を前面に押し出したものだった。作品の出来栄え自体には私もそれなりに満足してはいたけれど、如何せんこれは新人・若手のためのコンクール。心の年齢五十七歳のベテランが参戦したとあっては、少々心苦しくもあった。

 でも、社会はあらゆる意味で私に体の年齢の通りに生きることを強制する。それならば、体の年齢二十一歳、この受賞には何の問題も無い。そんな風に私は心の内で反芻した。

 程なく前回と同様、専門誌の記者たちによるインタビューが始まった。

「あ、あの……。大学生の大賞受賞は初のことですが、何か一言」

「皆さん、誠にありがとうございます。これからの励みになります」

「建築学科所属の大学生、若々しくもあると同時に熟練や老成をも感じさせる作品との評価でしたが、御自身ではどのように考えておられますか」

「シャープになりがちなミニマリズムにセレニティーを融和させる。ファサードなどの外面だけでなく内外の全体でそれを追求する。それが目標だったのですが、まだまだです」

「はあ……」と質問者は軽く首を傾げた。

「要するに、単純明快かつ簡潔な美的秩序の中に静かで穏やかなのどかさを醸し出そうとしたのですが、まだまだ改善の余地があると自分では考えています」

「なるほど……」と質問者は不思議そうに小さく頷いた。

「例えば、デザインの骨格そのものに揺らぎの構造を組み込むと、空間に心理的な不安定感が生じてしまいます。やはり本来、揺らぎは付加的なノイズでなければならず……」

 私がそんな解説を始めてしばらくすると、脇から「皆さん」と所長の声が響いた。

「本日は誠にありがとうございました。当事務所推薦の佐度野が大賞を頂くことになるとは、代表の私としましても望外の喜び……」

 予想外に早い所長の介入。写真撮影はバストアップのみ。事態の推移の変化に呆気にとられていると、スーツの袖を軽く引っ張られた。見ると、やはり奥様、その隣には逸美。奥様は私を人の輪の外へ連れ出すと、私の耳元で囁いてきた。

「あなた。若いのに立派ね。あなたがこれほどの人だとは思わなかった」

 私は緊張した。前回の人生では、奥様は確か度胸がどうのこうのと言ったはず。

「朝美」と逸美も囁いてきた。「取材の人たちは皆、朝美に見惚れていたよ。聞き手の人なんて朝美に見詰められてしどろもどろ。私の化粧の腕前にも感謝しなさいよね」

 私は溜め息をついた。前二回の人生で私は奥様に化粧を教えられた。その知識はあっても、実際の腕前は私よりも逸美の方がはるかに上。私が映えるのは逸美の腕があってこそ。それは率直に認めざるを得なかった。

 その時、取材の輪の中からカメラマンがこちらへ向かってきた。カメラマンは私たちに軽く頭を下げ、「何枚か写真を」と声を掛けてきた。ところが、私がカメラに向き直って姿勢を正しても、カメラマンは中々シャッターを切ろうとしなかった。

 ふと見ると、私の隣には逸美が平然と並んでいた。「君は」とカメラマンが困惑気味に尋ねた。逸美の顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。まさか。やめろ。しかし、私が制止する間もなく、逸美は元気溌剌可愛い子ぶった。

「私たちはスーパー女子大生ユニット・いっちゃん・あっちゃんです」

 ださっ。晴れの舞台で余計なことをするな、このクソビッチ。しかもなぜか、プロからスーパーに進化しているし。

「はあ……」とカメラマンは怪訝そうな声を漏らした。

「私たちはモダン和菓子で地方の活性化を目指しています」と逸美はしれっと答えた。

「この子は史上最年少の税理士試験合格者」と奥様が口を挟んだ。

「ほう」とカメラマンは感嘆の声を上げた。「そして、あなたはあの所長さんの奥様でしたね。空間デザインで有名な建築士」

「その通りです」と奥様は力強く肯定した。「史上最年少の大賞受賞。史上最年少の税理士試験合格。うちの未来のスターたち。良い写真を撮ってあげて」

「分かりました。それでは、まずは佐度野さん御一人、次にいっちゃん・あっちゃんの御二人、最後に奥様も含めて三人の写真を撮りましょう」

 指示通りに撮影が進む間、私は心の内で罵り続けた。

 カメラマンのお兄さん。何が、いいですね、いいですね。還暦間近の御婦人と頭が晴れ女の女子大生をそこまでおだててどうするつもりか。

 奥様。それは何のポーズですか。あなたは花の女子大生ではありません。これはアイドル撮影会ではないんですよ。私たちはヒロイン戦隊でも三姉妹何とかでもないんですよ。

 逸美。ぶりっ子はやめな。せいぜい、わかなっ子やつばすっ子にしておきな。ださっ。何が、わかな、つばす。私の田舎育ちのポンコツ感性。スーパーの魚売り場の主任に吹き込まれたオヤジギャグ。ああ、寿司を食べたい。今度、自分へのご褒美で弥生亭へ行こう。

「佐度野さんも何かポーズを」

 私はハッとして、とっさに左手を腰に当てて微妙に腰をくねらせ、さりげなく右手で髪をかき上げ、耳元で微かに揺らいで煌めいているはずのイアリングを。今日は着けていなかった。

 撮影が終わり、カメラマンが去って行くと、奥様が興奮気味に声を掛けてきた。

「逸美さんも朝美さんもとても素敵よ。今度、私の事務所にも遊びに来てね」

 奥様は満面の笑みを浮かべていた。

 

◇◇◇◇◇

 

 アーケード付きのショッピング街にぽつんと置かれたストリートピアノ。奏でるのは見知らぬ女子の中学生もしくは高校生。時折音を外すものの、リズムはしっかりとした演奏ぶり。そのかたわらで、みぎ、ひだり、ひだり。みぎ、ひだり、ひだり。奥様と逸美がゆらゆらと手と体を動かし続ける。

 久し振りに三人で待ち合わせた土曜日の昼過ぎ。ふと気付くと、した、うえ、うえ。した、うえ、うえ。なぜか二人はシンクロナイズしていた。私は奥様に圧倒されるばかりなのに、逸美は奥様と波長が合うのだろうか。花のワルツを演奏し終えて恥ずかしそうに会釈する女の子に二人は拍手を送った。

 それを機に私たちはその場を離れ、奥様お気に入りの喫茶店へ向かった。私の前には奥様と逸美。逸美はキャリアウーマンとマダムの両面を併せ持つ奥様に惹かれている模様。奥様は自身を慕ってくれる有能な女子大学生を友人として可愛がっていた。

 喫茶店の店内には珍しいことに本格的なジャズが流れていた。奥様はテイクアウトのケーキを選びながら、クール、グルーヴィー、ヴィンテージなどと曲と演奏を評し続ける。逸美はフンフンと頷きながら奥様の言葉に耳を傾ける。それらの言葉遣いが一般的なものなのか奥様特有のものなのかは分からないけれど、私たちの故郷では経験し得ない会話に逸美は大いに感銘を受けている様子だった。

 ショッピング街に程近い奥様の個人事務所へ向かう道すがら、やはり二人は並んで先を歩き、私はケーキの箱を手にその後ろを付いて行く。中身はトライフル。イギリスの菓子とのことだった。

 半年に一回程度の奥様からのお誘い。これで何回目だろう。インターンシップやその他の用件で私が所長の設計事務所に出向くと時折、奥様に出くわす。奥様は自身の仕事に区切りがつくと、気分転換のつもりで私たちを誘う。

 そう言えば一度だけ、奥様が私たちの用件に付き合ってくれたことがあった。建築コンクールのしばらく後、業界誌に掲載された記事が目に留まったらしく、故郷の地方新聞社から取材班がやって来た。

 記者によれば、紙面上の記事とインターネットサイト上の動画ニュースになるとのこと。私と逸美の高校入学以降の略歴、私たちの大学生活、今後の抱負。そんな話題が続く間、取材が支障なく続くよう、奥様は私たちをサポートしてくれた。取材の冒頭、逸美は「ハイパー女子大生ユニット・いっちゃん・あっちゃん」と名乗り、取材の最後、奥様は記者に向かって「うちの未来のスターたちをよろしく」と念を押した。

 そんなことを思い出しながら歩き続けてふと気付くと、奥様と逸美の話題は和菓子の件に移っていた。

 和菓子の高付加価値化はグルーヴィーとヴィンテージの二方向で。奥様はそんな主張を繰り返していた。その話し振りは建築関連の技術者というよりは芸術家。どことなく曖昧模糊としており、逸美も時折微かに首を傾げていた。

 奥様の事務所は小さな貸しオフィス。室内に一歩踏み入れた所は、衝立で区切られた応接スペース。その奥が奥様の仕事場。奥様は事務所に着くと、私と逸美を応接スペースに残し、奥の方へ入っていった。

 応接スペースの壁には額縁に収められた一枚の写真が掛けられていた。昨年の授賞式で撮ってもらった三姉妹ヒロイン戦隊。あの時のことを羞恥と興奮混じりに回想していると、程なく奥様はフレームに入った写真を手に戻ってきた。

 オープンカーに脇に立つ奥様と所長の姿。若き日と思われる写真の中で、二人はヨーロッパの田舎風の伝統衣装を身にまとっていた。その背後には夕焼けに染まり始めた富士山の雄姿。奥様は私たちに写真を手渡しながら「つまり、これなのよ」と言った。

「オープンカーでドライブするカップル。グルーヴィーだと思わない? つまり、ファッショナブルでエキサイティング。場所は山でも海でも大都会でも良いけれど、例えば海。砂浜と海と空のようなグラデーションが入った錦玉羹」

 逸美は無言で写真を凝視し、私は曖昧に同意した。

「それからヴィンテージ。伝統を守るとは、形を固定するということでもある。つまり、伝統を守り続けるだけでは和菓子に発展はない。でも、伝統は捨てがたい。それなら例えば、縁起物というイメージを付け加える。ただし、あからさまな福ではなく、例えば赤富士。そんなデザインで、ホールケーキのような大きさの錦玉羹。錦玉羹には涼しげな小物の飾り物というイメージがあるけれど、陀打団田本舗がそれを打破する」

 逸美は無言で写真を凝視。一方、私は内心で田舎育ちの悲哀に落胆していた。やはり私は田舎者。道とストリート、高速道路とハイウェイ、田舎とカントリーサイド。私と奥様では語彙が違う。奥様の言葉遣いは真似しきれない。刺激に乏しい定形の日常が繰り返されるだけの保守的な土地では、奥様のような感性は育ち得ない。

 それにしても、富士山をモチーフとする菓子類はすでに存在しているとは思うけれど、菓子自体にさらに縁起物というイメージを付加せよとの提案。食品に多彩な色を付けるのは大変そう。陀打団田本舗はプロだから何とかなるのだろうか。

 ふとそんなことを思った時、逸美が「あのう」と声を発した。

「この写真は富士山の西側、田貫湖辺りから撮ったものですか」

「そう」と奥様は意外そうに肯定した。「良く知っているわね。田貫湖は富士五湖に入っていないのに」

「たまに気分転換でドライブを。ダブルダイヤモンドで有名ですよね」

 私と奥様がほぼ同時に感嘆の声を漏らした。

 全く知らなかった。逸美と山中湖へ行ったのは二年半前の一度きり。私が密かに水溜りの手掛かりを求めて全国各地を巡っている間、逸美は「飛行機は怖いから」などと言いながら、独りで富士山を周回していた模様。

「それなら」と奥様は小首を傾げた。「今度の夏に一泊二日くらいの日程で、三人で出掛けてみる? オープンカーは私が用意するわよ。その時の衣装は……」

「バニーガール」と逸美が不穏なことを口走った。

「イエス。グルーヴィー」と奥様は嬉しそうな声を上げた。「あなたたち、そういうことに興味があるの? オープンカーにバニーガールが三人。クールすぎる」

 私が逸美を睨み付けると、奥様は大笑いした。

「朝美さんは恥ずかしいの? バニーガールはかしずく側。限りなく羞恥心を刺激されてこそのバニーでしょう」

 奥様の言葉責めに私は絶句した。覚えがある。奥様はこういう面ではかなり先鋭的。しかも、今回は逸美と一緒になって絶好調。

「冗談よ。それなら、朝美さんはサングラスを掛けてマスクを着けてバックシートにひっそりと座っていなさい」

 逸美があからさまに笑いをこらえた。私は奥様に釘を刺した。

「さすがに、時と場にそぐわなすぎるコスプレは如何なものかと」

「あなた、若いのに随分と分別臭いことを言うのね。電気店街に行けばメイドやバニーガールなんていくらでもいるでしょう」

「電気店とメイドやバニーガールの組み合わせ自体がすでに違和感満載です」

 奥様は「それなら」と再び事務所の奥の方から写真を持ち出してきた。そこには、やはり若かりし頃と思われる奥様と所長の姿。古代ギリシャの遺跡のような場所で古代ギリシャ風の装束を身にまとう二人。所長はポーズを取って颯爽と立ち、奥様は付き従うかのように所長に寄り添う。

「こういう衣装はどうかしら。これは視察を兼ねてギリシャへ旅行した時に撮った写真なのだけれど、ギリシャ彫刻で良く見るでしょう。ドリス式のキトンとその上にヒマティオン。ロングドレスの原型。単純な構造で簡単に着られるのよ」

「この構図とポーズには何か元ネタが……」と私は尋ねた。

「知っているかしら。英雄ヘラクレスと女神へーべー」

 思わず、私は頭を抱えてしまった。私の田舎のポンコツ感性。ヘラクレスはヘラクレス。ヘラクレスオオカブトではなかった。

「朝美さん。何か?」

「い、いえ。知的で格好良すぎる……」と私は本音を漏らした。

「奥様」と逸美が口を挟んだ。「ドリス式と言うからには、他にも種類があるんですか?」

「イオニア式。ドリス式は胸を隠すけれど、イオニア式では胸を強調することがあるわね」

「私、両方とも着てみたいです」

 何を能天気なことを言っているのか。私は奥様に事情を説明した。

「奥様。今年の夏は、逸美には大学院入試と卒業研究が、私には卒業研究があるので、とても魅力的なお誘いではあるのですが……」

「あら、そう」と奥様はトーンダウンした。「でも、その内に機会はあるわよね」

「はい。その時には是非」

 私がそのように答えると、奥様はニヤッとした。

「是非と言ったわね。知っている? 私に社交辞令は通用しないのよ」

 私はウッと呻いた。めまいがした。

「朝美さん。人の道を踏み外さない限り、人生をどのように楽しもうと自由なのよ」

 その瞬間、逸美が笑いをこらえながら口を挟んできた。

「奥様。忙しくなる前に、貸しスタジオを借りて三人で撮影会をしましょう」

「イエス。スーパー・クール」と奥様は両の拳を握り締めた。「エンジョイ・ライフ。エンジョイ・プレイ。あなた、分かっているわね」

 

◇◇◇◇◇

 

 高原の一角、山中湖畔の木立の中に点在する木造平屋の貸しコテージ。私と逸美は一棟を借りてレンタカーで乗り付け、一泊の日程でささやかな卒業旅行を楽しんでいた。

 優しく霞んだ空。穏やかな光と淡い緑に彩られた早春の高原。ひんやりと吹き抜ける風に木々は控えめに騒めく。そんな景色の中、コテージの周辺を普通の服装で軽く散策。

 その後、コテージに戻って暖房をつけて室内を温める。完全木製のテーブルに目にも鮮やかにずらりと並ぶのは、弥生亭の特注懐石弁当アルファEX・プレミアムRR。それに加えて、付け足しの総菜、ワインなど。そんな準備を整えて、私たちはのんびりと夕食を摂り始めた。

 話題は尽きなかった。東京に出てきた頃のこと。二人で大都会の様々な場所へ出掛けたこと。そのたびに、なぜ男女ではなく女二人の組み合わせなのかと自嘲し合ったこと。私がユニセックスコーデ、逸美がフェミニンコーデなら、「いっちゃん・あっちゃん」ではなく「あっちゃん・いっちゃん」だろうと冗談交じりに罵り合ったこと。

 この四年間、学年が上がるにつれて、コスプレを楽しむ機会は減っていった。そもそも、私も逸美も創作上の人物をモデルとするコスプレには関心が無く、興味をそそられる衣装はそれほど多くなかった。

 最終的に自作の写真集はそれぞれ四冊となった。私が試してみたのは、バニースーツ、チャイナドレス、ベリーダンスの衣装、古代ギリシャの衣装。一方の逸美は、お姫様風、ドイツの田舎娘風、中央アジアのジョージア風、古代ギリシャ風などの各ドレス。

 こうやって思い返してみると、私の衣装はいかにも露出度が高めだった。私の潜在的な欲求の発露、つまりむっつりスケベ。そんな風に逸美は私をからかうけれど、逸美にそそのかされてという側面も多分にある。そういう時の逸美にとっては、私は格好のおもちゃ、着せ替え人形。でも、それはそれで楽しくもあった。

 逸美いわく、健康的なモデル体型。そこに逸美の手による化粧が加わると、私は絶世の美女に大変身。

 他人に見せるためではない。ましてや、男を魅了するためでもない。お姫様にはお姫様の品格が必要。そんなことは重々承知しているけれど、ひとときだけでもプリンセスになってみたい。わずかな間だけでも良いから、こっそりとヒロインに変身してみたい。心の奥底に秘めたそんな願いを逸美の腕前は叶えてくれた。

 来月から私は社会人。逸美は別の大学に移って大学院生。会おうと思えば会えないことはないけれど、たまたま出くわすということはなくなるはず。私はそんなちょっと物寂しい気分に浸っていた。

 時折、「これ美味しいね」などと感想を交えながら料理を食べ尽くし、残るはワインとおつまみとなった頃、逸美がおもむろに語り始めた。

「四年間、楽しかったよね。いつまでも、ずっとこんな風に楽しめるといいね」

「うん」と私は率直に同意した。

「ところで、朝美は神隠しって知っている?」

 その瞬間、遂に来たと私は身構えた。人生の節目。唐突で突拍子もない話題の転換。多分、過去への移動に関係する話。とうとう逸美が切り出した。

「神隠しの話は日本中にあるけど、朝美は神隠しってどういうものか知っている?」

「神隠しの実態は事件や事故、もしくは自発的な失踪。疑問の余地は無いと思う」

「多分ね。でも、ごく少数だけど、そうとは思えない超常的な伝承もある」

「何でそんなことを調べたの」と私はさりげなく探りを入れた。

「そういう話が好きだから」と逸美は当然のように答えた。

 逸美はチョコレートをひとかけら口に含んだ。

「朝美は超常的な神隠しってどういうものだと思う」

「現実的な失踪であろうと超常的なものであろうと、神隠しの特徴は、当該人物の存在がつまり肉体が一時的にもしくは永久に突然消失してしまうことにある」

 その言葉に継いで、私は心の中で結論を述べた。だから、心しか移動しない過去への移動はいわゆる神隠しではない。しかも私の知る限りでは、神隠しの伝承は全て三人称視点。

「難しい言い方をするね」と逸美は鼻で笑った。

 私だって神隠しのことは調査済み。そう思いながら、私は冗談めかして答えた。

「私はこれでも最高峰の一つとされている大学を卒業したバリバリの理系なのだよ、逸美」

「卒業式は来週だよ、朝美」

 その指摘に私は苦笑した。逸美の言葉はさらに続いた。

「でも、それは特徴ではなく定義だよね」

 私は薄い笑みを浮かべた。心の年齢、来月には五十九歳。その程度の突っ込みでは私はもはや動じない。逸美は特徴以前に定義を良く考えるべき。

「私に言わせれば」と逸美は言った。「超常的な神隠しの特徴は、当該人物の記憶に欠落が生じてしまうことにある」

 意外な視点に私は呆気にとられた。

「私はこれでも最高峰の一つとされている大学を卒業するバリバリの文系なのだよ、朝美」

「でも、それは超常的な神隠しの一般的な特徴と言えるの?」

 逸美は鼻で笑い、そのまま口を閉ざしてしまった。

 そこで一旦会話は途切れ、私はワインのグラスに手を伸ばした。話が複雑になり始めている。これを飲み干したら酔い覚ましのカフェラテを作ろう。

 超常的な神隠しの伝承は全国にあると逸美は示唆した。私の調べた限りでも、確かにそれは間違いない。つまり、その種の神隠しは稀ではあっても極めて稀という訳ではないと逸美は言いたいのだろう。

 逸美も過去への移動を繰り返しているのではないかとの疑念。もしそれが事実なら、逸美も同様に私を疑っているに違いない。特にコンクールでの大賞受賞。その後、珍しいもの見たさの取材依頼が頻繁に舞い込み、業界誌などを通して私は持ち上げられた。

 記憶の欠落。逸美は何を仄めかしているのだろう。私は何かを忘れていると逸美は指摘しているのだろうか。それとも、逸美自身が何らかの忘却を自覚しているのだろうか。いずれにせよ、ここは腹の探り合い。余計な口は挟まずに、聞けることは聞いてしまおう。

「ねえ」と逸美が口を開いた。「あの建築士の奥様、規格外れの異彩を放っているよね」

「意外な発想力って色々な方面に出てしまうんでしょう」

「朝美は奥様のような生き方をするのが一番幸せになれると思う。誠実で打たれ強い人を奥様に紹介してもらって、二十代半ばで結婚して、奥様のように個人事務所を構えて、子供を四人ぐらい産んで、家事と子育てを優先して、それに合わせて仕事もこなしていく。そういう融通の利く所が士業の良い所なんだから」

 さすが、フェミニンであることにこだわりを見せる逸美らしい科白。

「そうでなければ、逆に朝美は結婚なんか考えずに、建築士のトップを目指す人生を送るのが良いと思う」

 何と極端な。

「二つの中間みたいな人生は無いの?」

「あり得ない」と逸美は断言した。「朝美はバニークイーンだから」

「どういう意味?」

「兎は多産の象徴。朝美は下手に結婚をすると、見境なく子供を産んでどんどん駄目になっていくような予感がある」

「変なことを言わないでよ」

 逸美がフフンと鼻で笑った。

「たまにいるでしょう。どうして、あんなにしっかりした優等生だった子があんな男に引っ掛かったのだろうって」

「私はそういうタイプではないと思うけれど」

「それなら、表では下ネタに顔をしかめながら、裏ではニヤニヤしているようなタイプ。そういう子が変なはまり方をすると、妙な勘違いをして、あとが大変なんだよね」

 私はわずかにたじろいだ。前半は図星。でも私は強がった。

「さすがに、それは違う」

「結局は朝美の人生、朝美が決めることなんだけどね。そろそろ片付けようか。それが終わったら、私はお風呂に入ってさっさと寝るから」

 そう言い残して突然、逸美は腰を上げた。私は呆気にとられて声を掛けた。

「ちょっと。神隠しの話は? 何で急に」

「このコテージを予約する時にこの辺りのことを調べてみたら、そんな伝承があると書いてあったから。明日、行ってみる?」

 私が迷って首を傾げると、逸美はそのままキッチンの方へ向かって行った。不自然とは言えない逸美の言動に、私はそれ以上の追及を思い留まった。

 過去への移動を繰り返すという行為はまさに過去を見てのもの。なのに、逸美は将来のことを語った。それもかなり具体的に。つまり、逸美は未来を見ている。

 もしかして、逸美は過去への移動をしていないのだろうか。それとも、過去への移動はもうやめると仄めかしているのだろうか。だから、私もやめろと。でも、私がやめたら山田君はどうなる。鈴木圭太はどうなる。特に鈴木圭太は四人揃っての楽しい未来を思い描いていたのに。

 いずれにせよ、あの口振りでは逸美の思惑は私のものとは全く違う。逸美を当てにしてはいけないのかも知れない。

 

◇◇◇◇◇

 

 北の夜、白い吐息とおぼろ雲、深く静かに雪は降り積む。故郷の街では毎年恒例の冬が始まっていた。

 社会人になって二度目の年末、スーツケースに詰め込んだ土産物に両親の声は弾んでいた。大都会で一級建築士として働く私は相当に羽振りが良い。両親はそのように単純に考えている様子だけれど、私の金回りの源はくじと株。もう少しだけ実務経験を積まなければ一級建築士としては働けない。そんな詳細は伏せて話を取り繕い、久方ぶりに私と両親、三人での夕飯が始まった。

 話題はいつもの通りに、互いの近況、地元の様子。両親は私の男関係にも軽く触れた。でも、報告すべき事柄は特に無し。食事も終わろうとする頃、母が思わぬことを言い出した。

 年が明けたら、私の従妹が私の出身高校を受験する。あの高校の少なからぬ生徒は県内全域から集まってきた下宿生。首尾よく合格したら、従妹もこの家に下宿したいと希望している。だから一応、私の部屋の荷物を片付けてほしい。従妹が下宿している間、私の居場所は客間となる。

 その話に、私は口先では健闘を祈りつつも、内心では愕然とした。体の年齢二十四歳、心の年齢六十歳。四回目の人生にして初めての出来事。事態の推移が大きく変わった。

 従妹の父、あのお茶目な親戚の叔父さんはれっきとした農学修士。大学院の前期課程を修了し、この街にある県立農林試験場の研究員になり、現在は市外に位置する演習地で収益性の高い先進的農法を実践している。この家に時々顔を出すのは試験場に出向くついで。

 叔父さんの奥さんは都会生まれの都会育ち。こちらでの就職を決めた叔父さんに付いてきて、叔父さんが街中から山の方へ異動した直後に逃げ出した。何の刺激も無い不便な田舎。前時代的な気風の残滓。奥さんは子育てや子供の教育にも不安を抱いた。当時、小学生だった従妹、幼稚園児だった従弟、二人の子供を連れて大都会へ戻っていき、私が大学四年生の夏にそのまま離婚していたはずだった。

 ところが母によれば、先の秋から従妹が一人で叔父さんの所に戻ってきている。私の出身校が第一志望、この街にある私立校が第二志望、一応大都会の私立校が第三志望。おそらく第一志望か第二志望には合格できるだろうとのこと。こちらの高校に合格したら、奥さんと従弟もこちらに来る。その切っ掛けは、私の大学進学時に私の進学先を知ったこと。さらにその三年後、「ハイパー女子大生ユニット・いっちゃん・あっちゃん」のニュースを見たこと、それによって私の大賞受賞を知ったこと。奥さんも子供たちも過当競争的な大都会に疲れている。田舎育ちでもそこまで出来るのなら田舎暮らしでも良いのではないかと思い始めている。

 私にとっては未知の事態だった。叔父さんたちは離婚したのではなかったのか。私のその問いに、母は呆気にとられたように「何の話」と問い返してきた。父は私に向かって「全部、お前のおかげだ」と言った。その瞬間、私は思った。

 私の成功にはからくりがある。でも、私の母校から毎年、上位クラスや最上位クラスの大学への進学者が多数出ているのは紛れもない事実。つまり全ては努力次第。大都会には自由がある。でも、自由の代償のごとくに安寧を失う者もかなりいる。おそらく奥さんもその一人。叔父さんたちの家庭が修復へ向かい始めた。逸美のおかげで。

 ただし、これからは目立たないようにしなければならない。少なくとも私は。そうしなければ事態の推移がさらに変わり、六年後のあの日、あの時、あの水溜りに到達できなくなってしまうかも知れない。例えば、道端で誰かに呼び止められたり腕を掴まれたりして。

 

◇◇◇◇◇

 

 翌日、大晦日の朝。目覚めてみると相変わらずの曇り空。雪はやみ、積雪はこの時期の例年通りにせいぜいくるぶしの辺りまで。すでに玄関から道路までの雪は父によって払い除けられ、私の心の拠り所はこたつだったのだと私はしみじみと実感した。

 朝食後、私は自室に籠もり、段ボール箱に私物を詰め込み続けた。とは言え、大切な物や必要な物は大学入学時に持ち出している。残りの大半は、名残惜しくはあっても廃棄しても構わない物。残すべきは、卒業証書や卒業文集、卒業アルバムやその他の写真集や記念の品。従妹のために高校の参考書や問題集なども取り分けて、その他は廃棄、廃棄、廃棄に分別。

 小学校の卒業文集をめくってみると、とっくに忘れてしまった将来の夢。欲張りなことに、私はアイドル、イラストレーター、フライトアテンダント、インテリアデザイナーなどを列挙していた。

 中学校の卒業アルバムをめくってみると、とっくに忘れてしまった同級生たち。遠隔地に在住する私は成人式に出席せず、これまで同窓会開催の話を聞いたこともなく、同じ高校に進学した男女数名の顔と名前だけしか記憶に残っていなかった。

 そんな中、一冊のノートに目が留まった。これは確か体の歳月で九年前、心の歳月で四十五年前、中学時代に予備校で使っていた物。ふと思い出してページをめくってみると、あの落書きが残っていた。

 

 良い人生を選ぼうとすることは出来るよね。考え抜いて本気で動けば、失敗しても納得は出来るよね。

 でも、良い人生を選ぼうとしない人もいるよね。良く考えずに動いて、失敗して後悔する人もいるよね。

 一つ一つ、諦めていくの? 分からないの? あんたのことだよ。

 

 手が震えた。愕然とした。

 あれは中学三年生の秋の中頃だった。昼は中学、夜は予備校。慣れない生活にこれほどまでに疲れるのなら、予備校は辞めた方が良いのかも知れない。そんなことを思い始めた矢先にこの落書きを見付けた。

 いつ誰が私のノートにこんな落書きをしたのか、それは分からなかった。でも、薄気味悪くはあったけれど、内容自体に悪意は感じられず、それどころか真理を語っているように思われて、私は誰にも明かさずに平静を装い、そのまま予備校に通い続けた。

 改めて眺めてみれば、これはいかにも逸美の口調、筆跡も逸美のものに似ているような気がする。状況は良く分からないけれど、こんな悪戯をするのは確かに逸美くらい。逸美はあの事故の直後ではなく、中学時代へ移動していたのだろうか。

 そう言えばあの当時、両親に予備校の様子を見せるために、私はスマホで写真を何枚か撮ったはず。そのデータが残っているかも知れない。そう思い付いて、荷物から高性能超薄型ノートパソコンを引っ張り出した。

 画像データを集めたフォルダを調べてみると、あった。残っていた。画像データを一つ一つ開いて確かめていくと、教室内を写した一枚の隅に小さな姿。拡大してみると、おかっぱ頭に黒縁メガネ、田舎の地味子がこちらに向かってこっそりと小さくVサイン。

 まさか、そんな昔から暗躍していたなんて。まるで座敷童。私は天井を見上げた。座敷童を気取るなんて、本物の座敷童さんたちに謝れ。私はベッドの布団に潜り込んだ。

 これは確証とも言える証拠。逸美は過去への移動を繰り返している。逸美が見付けた水溜りは私が見付けたものとは異なるもの。逸美は中学時代へ戻っている。

 逸美はあの事故に関する私の予言を全く信じず、事故の際にも自ら危機を回避せず、事故の後に私を責めてきた。つまり、あの事故は逸美にとっては初めてのもの。

 逸美が中学時代へ戻る。そこにいるのは一回目の私。時を経て、逸美が再び中学時代へ戻る。そこにいるのはやはり一回目の私。そんなことが何度か繰り返された後、突然歴史が壊滅的に書き換わり、あの事故が発生するようになった。そして、逸美が死んだことによって、私の繰り返しが始まった。

 逸美の過去への移動を阻止しなければならない。そうしなければ、もっと壊滅的なことが起きるかも。しかも、私の心の人生が消えてしまう。いや。逸美が過去へ行く時には、私も付いて行かなければならない。中学時代へ戻れるのなら、あの事故を必ず回避できる。

 私は布団を跳ね除け、スマホを手に取り、逸美に電話を掛けた。電源が切られているか、電波が届かない場所にいる。そんなメッセージが返ってきた。陀打団田家の固定電話に掛けても誰も出なかった。陀打団田本舗もやはり同様。

 母の軽自動車で家を出ようとして止められた。どこへ行くつもりなのかは知らないが、裏路地には残雪、日陰は凍結。私の不慣れな運転では心許ない。何か急ぎの用かと。

 その言葉で私は我に返った。逸美は大学院を修了した後、陀打団田本舗の経営に関与する予定となっている。つまり、過去への移動はその後のはず。慌てる必要は今は無い。私と両親は明日、年始の挨拶のために祖父母の家へ出向くことになっている。今日中に片付けを終わらせて、とにかく身軽になっておかなければ。

「今度、ちょっと昔話をしよう。時を駆ける座敷童のこととか」

 そんなメールを送ってみると、除夜の鐘が鳴り終わろうとする頃になって返信が届いた。

「あけおめ。ことよろ。ペコリ、ペコリ。今、家族みんなで東京です。今は大学院と家の仕事で忙しい。暇が出来たら連絡する。かしこ。ペコリ。源朝臣佐度野寄上朝美殿。平朝臣陀打団田厚盛逸美より。追伸。最近、カップサイズが一つ上がりました。V」

 その瞬間、銀縁メガネをきらりと輝かせながら得意げに胸を張る逸美の姿が脳裏に浮かんだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 二月、大都会の平日夕方。パシュミナのマフラーで首元を覆い、コートの襟を立てて大通りに出てみると、まるで何かにあらがうかのように、人、人、人。きっと、バベルの塔は人で出来ていたに違いない。それにしても、なぜ昼の一番短い冬至の頃ではなく、冬三か月の最後の月が最も寒いのだろう。そんな疑問とも愚痴ともつかないことを考えながら、私は雑居ビルを後にした。

 私のビジネスバッグには報告書。まだ目を通してはいないけれど、すでに概要の説明は受けていた。興信所を利用するのはこれが初めて。公権力を持たない民間の調査には限界があるのだろう。調査結果に特筆すべき事柄は無かった。

 得られたのは、あのトラックの運転手に関する基本的な情報のみ。氏名、住所、経歴、家族構成や友人関係、生前のスナップ写真をさらに写真に撮った物など。あの運送会社と陀打団田本舗や鈴木商会との間に特に繋がりは無かった模様。なぜ、あの運転手は居眠り運転をしたのか。その直接の原因はおろか、遠因と思われる事情でさえ分からなかった。

 逸美の過去への移動が事態の推移を大きく変えてあの事故を誘発した。おそらく、それが真実なのだろう。でも、逸美の過去への移動と運転手の居眠り運転の因果関係。遠因さえも分からない以上、おそらくそれは巡り巡ってのとても遠いもの。

 難しい。超が百個くらいは付くような難問。この問題が解ければ、あの事故への直接的で効果的で根本的な対処が可能になるのに。

 鈴木圭太は爆破予告のいたずら電話を主張した。いっそのこと、その種の劇的な対症療法の方が確実なのかも。いや。皆揃っての明るい未来。それが目標である以上、それを覆しかねない犯罪的な手段を採るのは本末転倒気味。いや。やはり最後の手段として、心の片隅に留めておいた方が良いのかも。

 

◇◇◇◇◇

 

 四月の中旬、桜の季節も終わった頃、遂に逸美から連絡が届いた。マンションに遊びに来ないか、昔話でもしようと。私はケーキを手土産に日曜日の午後、逸美のマンションへ向かった。

 五年前の引っ越しの時には、ミニマリズムを追求したのかと思うほどに家財が少なかった。でも、今や陀打団田本舗の出城には家財が満ち溢れ、実存的な生活感が漂っていた。

 リビングのテーブルにケーキとコーヒーを並べ、私たちは口数も少なく、向かい合う席に着いた。何から話せば良いのだろうと私が迷っていると、逸美が「さて」と話を切り出した。

「和菓子屋の牙城に洋菓子を持ち込むなんて、良い度胸をしているね」

 そういう話から始めるのかと、私は脱力した。

「たまには目先を変えるのも良いでしょう?」

「冗談だから」と逸美は笑みを浮かべた。「私が何をしているのかを分かるということは、朝美も同じことをしていると考えて良いの?」

 逸美に単刀直入に尋ねられて、私は「多分」と頷いた。

「朝美はいつを起点に、いつへ遡行しているの?」

「ちょっと待って」と私は遮った。「弟君は? 弟君に聞かれる訳にはいかない」

「弟は外出中。彼女とデート。多分、夜遅くまで帰ってこない」

「弟君は大学三年生だっけ」

「そう。あんなにシスコンだったのに。多分、女よりも男の方が恋愛脳だよね」

 私は鼻で笑った。

「それで、朝美はいつを起点に、いつへ遡行しているの?」

「三十歳の夏から高三の春の終わりへ」

 その瞬間、逸美は首を傾げて固まった。私が「逸美は」と尋ねても、逸美は無言で考え込んでいた。「ちょっと」と私は強めに声を掛けた。

「逸美もきちんと答えて」

「朝美はその現象をどのように解釈している?」

 私はコーヒーを一口飲み、かつて鈴木圭太に解説した現象論をそのまま話した。同じ世界の過去への移動であること。心のみの移動であること。過去の心を上書きしていること。その時点から先の事態の推移、人生の流れを変えていること。

「私もそう思う」と逸美は簡潔に同意した。「とすると、私はもう時の遡行をしないの?」

「逸美はいつからいつへ戻っているの?」

「二十七歳の夏から中二の初めへ」

 私は理解した。逸美は自身が事故死する歴史を知らない。逸美の視点では、逸美が二十七歳をそのままやり過ごすことによって、私はその三年後に過去へ移動する機会を得た。

「やっぱり、そうか」と逸美は勝手に納得した。「時の遡行なんて何度も繰り返すようなものではないし、もう潮時だと思っていたんだよね」

 逸美は突然席を立ち、「絶対に覗いたら駄目だからね」と言い残してリビングを後にした。何事だろうと思いながらケーキを食べていると、廊下の方から「ねえ。何で覗かないの?」という声が聞こえてきた。「面倒臭いから」と私は怒鳴り返した。

 しばらくして戻って来た逸美の姿に、私は目をむいた。淡いサックスブルーのワイシャツ、ダークグリーンのチェック柄のプリーツスカート、スティールブルーの細身のネクタイ。故郷の街にある、制服の可愛らしい私立高校。その制服を逸美は着ていた。

「そんな制服、どこで手に入れたの。まさかオークション?」と私は追及した。

「オークション? こんなもの、行く所に行けば簡単に手に入るでしょう。弟の母校でもあるし」

「弟君は知っているの?」

「知っている。『意味不明だけど中々可愛い』とか言っている。ほんと、いつまで経ってもシスコンが抜けないんだから」

 私は思わずフフンと笑ってしまった。

 私に言わせても意味不明。でも、やはり逸美は可愛らしい。良い歳をしているくせに、未だに高校生に見えるなんて。私が着たらただのコスプレだろうに。

 逸美が席に着くのを待って私は尋ねた。

「逸美の心の年齢は何歳? 要するに精神的な経過年数」

「五十一歳ぐらいかな」

 その瞬間、私は誘惑に負けて、あの迷科白を口にした。

「ババアじゃねえか」

「そう言う朝美は」と逸美は強く訊き返してきた。

「五十一歳で中学生から大学院生までの役をこなすなんて、大した演技派だこと」

「話をはぐらかさない」

「体の年齢二十五歳。心の年齢六十一歳」

「もっとババアじゃねえか」と逸美は笑った。「なぜこんな制服を持っているのか説明してあげる」

 逸美はそのように前置きすると、おもむろに自身の歴史を語り始めた。

 逸美の一回目の人生。陀打団田本舗は祖父母と両親の四人で切り盛りする小さな和菓子屋に過ぎなかった。商品は良く言えば伝統的、悪く言えばありふれた田舎菓子。固定客は高齢化して先細り、新規の顧客はほとんど無いというありさま。結局、余計な負債を抱え込む前に、逸美の高校進学と同時に店を畳むことになった。そして祖父母は引退、両親は会社員となり、逸美は手に職を付けるつもりであの私立高校の商業科に進学した。

「あの高校? 商業科? それなら私は?」と私は驚いた。

「朝美も同じ高校、普通科の特進コース。でも、私との接点は無かった」

 高校生活に特筆すべきことはなく、強いて挙げれば簿記二級の資格を取ったくらい。陰鬱な日常から逃れるために、逸美は高校卒業をもって学業を打ち切り、東京の中小企業に就職した。

 田舎の地味な高卒女子。真面目に働き続けるだけの安くて薄い独り暮らし。帰省は年に一回くらい。まるで趣味のように仕事の合間に簿記の勉強を続け、上京四年目に簿記一級の資格を取った。

 そのおかげで任される仕事も少し増え、それに応じて給料も少しは増えた。それでもやはり、田舎の地味な高卒女子。浮いた話も華やかな話も特に無く、時は寡黙に過ぎていく。遂に、先が見えないのならこちらに戻って来いと両親に勧められた。

 故郷に引き上げる直前の二十七歳の夏、思い立って上京以降初の旅行に出掛けてみた。目的地は富士山、青木ヶ原樹海。電車を乗り継ぎ、山中湖畔の宿に着いて、些細な失敗に気が付いた。山中湖はどちらかと言えば富士山の東側、青木ヶ原樹海は西側。一回目の人生では運転免許証を取得せず、車を運転することもなく、地理にかなり疎かった。そして旅行二日目の午前、山中湖畔を散策中に時の鏡に出くわした。

「時の鏡?」と私は口を挟んだ。

「そう。光を反射してキラキラしている姿見のような大きさのもの。横から見たら厚みが全然無くて、裏へ回ってみたら、まるで存在しないかのように全く見えない。朝美は違うの?」

「あとで説明する。話を続けて」

 逸美の二回目の人生。逸美は陀打団田本舗を盛り立てるべく、付加価値の高い創作和菓子作りを提案した。保守的で進取の気性に欠ける親たちを説得するため、製造法を聞きかじっていた錦玉羹を自ら作ってみせた。試作と改良を繰り返した後に販売してみると、かなり好評。両親も品揃えの拡充に前向きになり、陀打団田本舗の経営は安定した。

 逸美はあの私立高校の普通科特進コースに進学した。やはり高校生活に特筆すべきことはなく、まるで習い性のように簿記一級の資格を取得。

「その頃の私と逸美の関係は?」と私は訊いた。

「友達かな……」と逸美は首を傾げた。

 高校卒業と同時に逸美は上京し、中堅レベルの大学の法学部に進学した。そこには、同じく上京してきた鈴木圭太がいた。同郷のよしみで友人となり、鈴木商会の存在を知り、逸美は両親に鈴木商会との提携を提案した。

 鈴木との個人的な関係が深まることはなかった。逸美は乗りの悪い田舎女子。その他大勢の中に埋没するばかり。鈴木の関心は都会育ちの垢抜け女子たちに向いていた。

 逸美は大学卒業と同時に故郷へ戻り、陀打団田本舗の仕事を手伝うかたわら、まるで惰性のように税理士試験のための勉強を続けた。

「あのさ」と私は口を挟んだ。「さっきから習性とか惰性とか言うけれど、簿記や税務の勉強は仕方が無くやっていたの? 私は立派だと思うけれど」

「私にとっては、簿記の資格は大都会へのパスポートだった。それに、高校生の簿記一級や最年少の税理士合格は私に箔を付けてくれた。そのおかげで物事がスムーズに進むことが増えたのは確かなんだから。でもどう考えても、それは迷走だった。財務や税務は事業を裏から支えるだけ。会社を動かすのは経営。会社の役に立ちたいのなら、経営を勉強すべきだった」

「それなら、なぜ法学部」と私は困惑した。

「専門家並みに法律を勉強しておけば会社の役に立つと思ったから。でも結局、私は本筋の周りをうろうろしていただけだった」

 逸美はそこで言葉を切ると、大きく息を吐いた。

「逸美は十分に立派だよ。延々と準備ばかりを続けて、全然本題に入らずに終わってしまう人も多いのだから」

「そして、今回は三回目の感動巨編。内容は大体分かるよね?」

 私が頷くと、逸美は椅子から腰を上げ、リビングから出て行こうとした。

「その制服はノスタルジー?」

「違う。ちょっと待っていて」

 程なく戻って来た逸美の手にはスケッチブック。逸美はスケッチブックを私に手渡すと、黙々とケーキを食べ始めた。ページをめくっていくと、次から次に鉛筆による写実的なデッサン。あの私立高校の制服を着て様々なポーズを取るマネキンのような姿。

「良く描けているでしょう」と逸美は自慢げに言った。

「さすが、元美術部員」

「その絵は全部、朝美だから」

 私は唖然とした。

「朝美の知らない朝美の二回の人生。写真がある訳でもないから、この忙しいさなかにわざわざ制服を取り寄せて、出来るだけ正確に描いてみた。感謝しなさいよね」

 私は呆然とデッサンを眺め続けた。

「反則だよ。朝美がそんな格好をするなんて。学校の男子たちも他校の男子たちも皆、朝美に群がるし、二回とも学校の制服モデルにまで選ばれて。それを脇で見ているだけだった可哀想な私。でも、この三回目の人生では大逆転。私だってやれば出来る子」

「やれば出来るって、そんなに状況を変えられるものなの?」

「前回までの私立校の男子たちに比べて、今回の県立校の男子たちにはちょっと純真で奥手な所があるからね」

 そう言いながら逸美はケーキを食べ尽くし、コーヒーを飲み干すと、三たび腰を上げた。

「温かいお茶でも淹れよう。朝美はそれを見ながらきちんと反省するように」

「あのさ」と私は声を掛けた。「例えば、例えばだよ。セックスアピールってそんなに意図的に演出できるものなの?」

「出来るでしょう。やる気になれば」

 キッチンからは逸美の気配、コーヒーカップとケーキの皿を洗う音。純真で奥手な男子高校生たちを全員まとめてたぶらかすなんて、とんだ悪女。

 私は改めてスケッチブックのページを最初からゆっくりとめくっていった。直立の姿勢の私。両手を腰に当てて微かに首を傾げる私。左手を腰に当てて微かにポーズを取り、さりげなく右手で髪をかき上げる私。その次は一体何のポーズだろう。私は制服姿でダンスでもしていたのだろうか。

 突然、私は思い出した。大学一年生の時に逸美と二人で密かに作った写真集。正面バニー、見返りバニー。お澄ましバニーにうっふんバニー。直立、寝転び、前屈み。ほとんど一緒ではないか。私の知らない高校時代、私は制服姿で同じことをやっていた。

 私の知らない人生では、私は男子たちの目をかなり意識していた模様。どうにも現実味が無いけれど、あり得ないとは言い切れない。ポーズを取るくらいのことであれば、煽てられてけしかけられればやってしまうかも。

 逸美は熱々の緑茶と裂きイカを手に戻ってくると、裂きイカの袋をベリッと破って摘まみ始めた。和風喫茶イッツミー。そんなことを思っていると、逸美が「ねえ」と話し掛けてきた。

「朝美はこの人生に満足している?」

「一応」

「私も満足している。もし考え抜いて本気で動いていたら、私は多分、二回目の人生を一回目で実現できていた。それどころか、今回と同じく経営学修士にもなっていた。でも、私の一人の人間としての実力はそこまで。今回は宝くじのおかげで二回目をはるかに超えることが出来た。これで満足しなかったら強欲すぎる」

 その言葉に私は溜め息をついて、裂きイカに手を伸ばした。逸美は私よりも優秀。逸美には先見の明がある。

 そう言えば、私は小学校の卒業文集に様々な将来の夢を書き記していた。アイドル、イラストレーター、フライトアテンダント、インテリアデザイナー。もし一つに絞って考え抜いて本気で動いていたら、おそらく私も私の一回目をより良いものに出来ていた。

「朝美。もう、時の遡行はやめよう。これまで、遡行を繰り返せば繰り返すほど人生は良くなると思っていた。でも、話はそこまで単純ではなかった」

「何かあったの?」

「私は皆を幸せにしたいと思ってきた。具体的には、まずは私の家族や親族、次は友人関係の朝美とか。でも、もう限界。時を遡行して、やり方を改善しても、うちの会社の発展はこれ以上は速くならない。誰も付いてこられなくなるから。それに中学生活は退屈すぎる。窮屈すぎる。中学生のような子供の立場では、何をやるにしても障害が多すぎる。前回と今回は途中で投げ出したくなった」

 私は大きな疑問を感じ、「んん?」と鼻を鳴らして首を傾げた。

「逸美はあの事故のことをどう考えているの? 特に山田君と鈴木のこと」

 逸美も訝しげに「ん?」と鼻を鳴らし、しばらくの間、無言で私を見詰め続けた。

「朝美がそれを言うの? あの二人を見殺しにしたのに」

 私は絶句した。

「正確に言えば、何らかの事情で見殺しの形にせざるを得なくなった。でも、朝美を責めるつもりは無い。以前に朝美が言った通り、あの場で朝美が警告しなかったのは二次的な問題。悪の元凶は運転手。それに、あの二人に問題があったのも事実。小学生でもあるまいし、あんな風に横断歩道を渡ろうとしたのが大きな間違い。だから、私はこれまでこの件には敢えて触れなかった」

 大きな誤解。私は言葉を発しようとした。でも、声が出なかった。

「朝美が男を毛嫌いする気持ちは良く分かる。私の一回目と二回目の人生では、朝美は男たちに振り回されて人生を棒に振った。そして、朝美は私の知らない所で人生を繰り返して、やっぱり同じように男たちに振り回された。そうなんでしょう?」

「言っている意味が分からない……」

「私の一回目と二回目の人生では、朝美は高校の推薦でこちらの大学に進学して、その直後に芸能事務所にスカウトされて、女優かアイドルか良く分からないものになった。そして、経緯は分からないけど、山田爽一と知り合って付き合い始めた。そのあとは滅茶苦茶。朝美が成績不振になったら、高校に割り当てられた推薦枠が取り消されて、高校に迷惑がかかる。かと言って一度契約した以上、芸能活動もいい加減には出来ない。芸能事務所も大学の勉強には一応配慮をしたようだけど、山田爽一とは直ちに別れろと言う。おまけに、道端で不審者に胸を触られたり、ファンとは名ばかりのストーカーに付きまとわれたりする。結局、朝美は何とか大学を卒業して、芸能事務所との契約を解除してもらって、田舎の実家に戻った。山田爽一も田舎に帰って就職して、朝美と地味に結婚した。でも、たった数年で離婚して、山田爽一はこちらに出てきて再就職した。そして、朝美は独り寂しくあのスーパーの店員。一回目の人生では噂に聞いただけだったけど、二回目の人生では実際にこの目で見た。だから、この三回目の人生で私は本当に驚いた。もうスーパーの店員になったのかよって」

 逸美はそこで言葉を切り、お茶を飲み始めた。

 ふと気付くと、私の上体はふらふらと前後左右に揺れていた。体の芯から全身に広がる、めまいにも似た感覚。私は私の知らない所で二回もアイドルになり、二回も山田君と結婚していた。そして、どちらの人生も失敗。

「信じられない。私はそこまで馬鹿じゃない」

「根が真面目なのは知っている。でも、朝美は高校生の時にちやほやされ過ぎて、頭の中の歯止めが完全に壊れて、調子に乗り過ぎたんだと思う。だからこの三回目の人生では、私は駄目元で中学生の朝美に教訓を吹き込んだ。そうしたら私と同じく、朝美はあの県立校に進学した。それで今度は、朝美を付き人にして、私の方がちやほやされてみた」

「逸美は今、山田君のことを色々と言ったけれど、山田君に告白されて満更でもなさそうだったよね。それはどういうこと」

「二回目の人生では、私も朝美や鈴木圭太を通して山田爽一と知り合いになった。山田爽一は悪い人間ではない。むしろ良い方。でも朝美よりも繊細。ちょっと打たれ弱い所がある。そのせいで朝美とは相性が悪かったのだと思う。だから朝美には何度も、打たれ強い堅実な男を選べと言った。朝美には例えば鈴木圭太の方がよっぽど似合っていた」

 私は脱力して、温くなった緑茶を一口含み、裂きイカに手を伸ばした。逸美が腰を上げてリビングから出て行こうとした。「今度は何」と私が尋ねると、逸美は「トイレ。覗いたら駄目だからね」と胸の前で両の拳を握り締めた。私は手振りで逸美を追い払った。

 疲れた。窓の外に目を向けてみると、日が傾き始めているようだった。今日は日曜、明日は仕事。長居をし過ぎる訳にはいかないけれど、どうしても今日中に逸美の認識を訂正しておかなければ。

 それ以前に、私はまだ自分の体験を明かしていない。当然、逸美は尋ねてくるだろう。自分が死んだ歴史。鈴木圭太は中々信じようとしなかった。理解した後は、いつの間にか怒りを抱え込んでいた。逸美も自分が死から蘇ったとは欠片も思っていない模様。そう言えば、鈴木圭太も私と山田君の相性について何か否定的なことを言っていたような気がする。

 逸美は程なく戻ってくると、「ねえ」と言いながら私の向かいに腰を下ろした。

「もう、時の遡行はやめよう。朝美に教訓を吹き込んでみたり、朝美を付き人にしてみたり、ちょっとやりすぎたかなとは思っていたんだ。その反省の意味も込めて、朝美にはこっそりとコスプレを堪能させてあげたでしょう。詰まらない女優もどきではなく、ハイパー女子大生ユニットで知的に華麗にデビューさせてあげたでしょう。それで満足しなよ」

「過去に何があったのかはともかく、私は山田君と鈴木を助けたい。もちろん、逸美にはその責任がある」

「責任?」と逸美は不満げな顔をした。「朝美の遡行で事故が起きるようになった。そして、二人が何らかの形で巻き込まれた。だから、朝美は再度遡行して予知夢という形で警告した。それでも、二人が巻き込まれた。だから朝美はさらに遡行して、結局は二人を救えなかった。そうなんでしょう? だから言ったの。繰り返せば繰り返すほど良くなる訳ではないんだって。どれだけ頑張っても回避できないのなら、もう仕方が無いよ。さらに余計なことをしてもっと悲惨なことになったら、取り返しがつかなくなるよ」

「違う。私にとっての一回目の人生でもあの事故は起きた。つまり、私が過去へ移動したからあの事故が起きるようになった訳ではない」

 逸美は呆気にとられたような表情をした。

「何が事故の切っ掛けになったのか、私は興信所を使って調べてみた。でも、分からなかった。でも、今は一つだけ言えることがある。逸美にとっての二回目の人生で、逸美が中学時代に手を加えても事故は起きなかった。つまりおそらく、問題は逸美が手を加えた三回目の高校時代にある。それなら、高校時代を二回目へ戻せば良い」

 逸美は私を睨みながら突然、裂きイカを手のひらでガバッと掴んで口に押し込んだ。私も逸美を睨みながら、残りの裂きイカを全部口に押し込んだ。逸美はモグモグと忙しく口を動かすと、緑茶を煽って一気に全てを飲み込んだ。私もそれに続いた。緑茶は冷めきっていた。

「また、あの私立校に入って朝美の付き人みたいになって、田舎アイドルの浮かれ姿に共感性羞恥を覚えて陰でこっそり悶え死ねと言うの?」

「その言い方、ひどすぎない?」

「実際は陰でこっそり笑っていたんだけどね」

「クソビッチ、やさぐれちまった哀しみに、鐘が鳴るなり山の寺」

「いいよ。分かった。二人で中学時代に戻ろう。せいぜい私を楽しませなさいよね」

 私は両の拳を握り締めて力強くテーブルの上に置き、高らかに宣言した。

「話は決まり」

 逸美は大きく息を吐き、湯呑を手に取った。ついさっき飲み干したばかりだろう。そう思っていると案の定、逸美は湯飲みの中を一瞥し、すぐにテーブルに戻した。

「でも朝美。私を褒めたければ、もっと素直に褒めてよね」

「褒めているように聞こえたの?」

「最近、ビッチという言葉は強い女というポジティブな意味でも使われるらしいよ」

 唖然とした。知らなかった。つまり、逸美はクソ強い女。

「朝美は今、興信所を使ったと言ったよね。報告書はある?」

 私は席を立って、バッグの中から調査報告書の封筒を引っ張り出した。逸美は全ての中身をテーブルの上に広げると、ほとんど目を通すこともなく「あれ?」と声を上げた。

「この写真に写っている男が事故の運転手?」

「そうらしい」

 その瞬間、逸美は脱力したように椅子の背凭れに身を預け、天井から吊り下げられた照明に目を遣った。しばらくの沈黙の後、逸美はぽつりと言った。

「その男、知っている」

 逸美はゆっくりと私に視線を戻した。

「私の一回目と二回目の人生で、いい歳をして仕事をさぼって、下校中の朝美にナンパしてきた男。どちらの人生でも、三度目のナンパで朝美が高校に相談して、高校が運送会社に通報して、ストーカーになる前に運送会社がきつく説教して、かなり離れた町にある関連会社に移されたどうしようもない男。事故のニュースでは名前しか出なかったから、全然気が付かなかった」

 

◇◇◇◇◇

 

 気を付けて行ってらっしゃい。そんな言葉を掛けられて、私たちは宿を後にした。

 私たちの視線の先には穏やかな湖面、その背後には真夏の朝日を浴びる富士の山。湖畔へ向けて道なりに進んでいくと時折、私たちの脇を高校生たちが駆け抜けていく。おそらく部活動の合宿中。すれ違うたびに、男子高校生たちの足並みは乱れ、さりげなく逸美に目を向ける。

「逸美。こんな時に女子高生のコスプレなんて。しかも、今日は気合を入れて激盛。ほんと感心する。良くその歳で違和感なく高校生になり切れるよね」

「近い内に北欧から連絡が来るはずなんだよね。あなたが今年の平和賞受賞者に選ばれましたって。この制服、授賞式で着るつもりだったのに、辞退なんて残念すぎる」

「はい、はい。ピース、ピース」と私は適当に相槌を打った。

「これだから朝美は。旅の恥は掻き捨てぐらいに開き直りなさいよ」

「私はスポーティーな清純派レディーなの。Tシャツとスラックスで必要かつ十分。下手なコスプレはしないことにしているの」

「少しは、美しさは罪とかうそぶいてみなさいよ。そうしたら突っ込みがいがあるのに」

「美しさの根源は内面にあり。もう少しお洒落な会話をしよう」

「要するに、昔のお洒落な服が入らなくなったと」

「違うから」と私は呆れ声で否定した。「間違いなく、自然な時の流れの範囲内だから」

 今回の件、逸美が乗り気でないのは仕方が無い。逸美は今や絶好調。設計事務所の所長と奥様にお洒落なカフェのオーナー数人を紹介してもらい、和スイーツのアンテナショップ役を引き受けてもらって、陀打団田本舗の業績は着実に上昇中。その上、逸美は鈴木商会の経営にもコンサルタントとして参画している。

 中学時代へは戻りたくない。逸美のその気持ちは理解できる。上手くやってのけた中学時代を逸美は一からやり直すことになる。しかも、憂鬱で窮屈な毎日。子供であることを強制され、大人の行動を取ったら罰せられる。

 戻るのならせめて高校時代へ。逸美はそのように主張するけれど、あの事故自体を歴史から消し去るのが最良の策。逸美の言う通り、良い歳をした男が仕事をさぼって女子高生をナンパするなんて不届き千万、気持ちが悪い。でも、私が田舎アイドルを演じ続けて引き寄せて、三度耐えれば済む話。

 いずれにせよ、二年半前の話し合いの席で、すでに結論は出ており了解は成立している。

 私たちが歴史を書き換えたせいで、掴んだ幸運の量が減った人はいる。でも、あの事故以外では、不幸になった人がいるとの話を聞いたことはない。つまり、仮にそういう人がいたとしても、それは因果の遠い話。私たちは原因ではない。本来の原因は別にあり、私たちは巡り巡ってわずかに環境を変えたに過ぎない。要するに、バタフライエフェクトなんて未経験者のたわごと。その種の事態は特定の未来、アトラクターに収束するに決まっている。だから、私たちが責務として為すべきは、あの事故の発生を阻止することだけ。

 真相を知ってからのこの二年余り、私の仕事も順調すぎるくらいに順調に推移。とは言え、私の心はどことなく弛緩し続けていた。でも、いよいよ本番、メイク・マイ・デイ。

 体の年齢二十七歳。心の年齢六十三歳。過去への移動はこれで最後。そう思うと、ある意味では寂しくもあり、ある意味では肩の荷が下りたような気もする。

 湖畔に出て遊歩道を少し歩いた所で逸美は立ち止まった。こことそこ。逸美はそう言いながら、足元と十メートルくらい離れた場所を指さした。

「それでは、手はず通りに」

 私の指示に逸美は頷いた。私たちは遊歩道に沿って五十メートルくらい東へ向かい、逸美はそこで独りで待機。私はさらに百メートルくらい東へ向かい、ウエストポーチからスマホを取り出し、首掛けストラップに頭を通した。

 私たちの経験では、時の鏡や水溜りの出現位置は毎回ばらばら、十メートルくらいのずれがあった。ただし、出現の向きはいつも同じ。時の鏡はほぼ東向き、水溜りは上向き。それらを考え合わせ、私も逸美もそれぞれの持ち場から西側を監視する。出現位置が数十メートルくらいは変わり得ることも念頭に置くこと。

 そんな注意事項を反芻しながら、私は周囲を見回した。あちらこちらにぽつり、ぽつりと観光客。未だ朝早い頃合いとあって、その数はそれほど多くはなかった。

 スマホのアラームが鳴った。逸美の記憶の通りなら、今から数分以内に出現する。遊歩道、遊歩道の左手の湖岸、遊歩道の右手の広場。私は周辺に目を凝らし続けた。

 出現時間はおそらく数十分。何時間も何日間もとは考えにくい。もしもそんなに持続するのなら、適性を持つ者は少数とは言え、遭遇する者はそれなりに出てくるはず。歴史上、神隠しのような伝承ではなく、もっと現実的な記録が残っていてもおかしくない。

 一分。二分。三分。四分。どこだろう。どうしたのだろう。そんな焦りと苛立ちを感じ始めた頃、スマホの呼び出し音が鳴った。

「朝美。見えた?」

「見えない。もう五分くらいは経っているけれど、今で間違いないの?」

「間違いない」

「それなら次の手順。木でも電柱でもいいから、よじ登ってみよう」

 私は通話を切り、手近な街路樹によじ登った。

 もしかしたら、予想以上に離れた場所に出現しているのかも。それなら、もっと高い所からもっと広範囲の捜索を。しかし、枝分かれの上に立っていくら目を凝らしてみても、それらしきものは見当たらなかった。

 再びスマホが鳴った。

「朝美。あった?」

 遠くに目を向けてみると、街路灯の中ほどに蝉のようにしがみ付く女子高生の姿。

「無い。湖の方も確かめて。もしそっちだったら、すぐに水泳」

 その時、見知らぬ男性が聞こえよがしに「おい、おい」と言いながら遊歩道を通り過ぎて行った。私は溜め息をついて木から降りた。

 持ち場の周辺をうろうろしたり、人目を避けて木に登ったりしながら待ち続け、一時間ほどが経った頃、三たびスマホが鳴った。見ると、逸美はゆっくりとこちらへ向かってきていた。

「朝美。もしかしたら、出現の時刻が変わったのかも」

「私の経験ではそれはない。逸美の経験でもそうでしょう」

「それなら、出現したのはかなり離れた場所だったのかも。もしくは、ふと思ったんだけど、水平方向ではなく垂直方向にずれたのかも。例えば地面の下」

 垂直方向にずれたためしは一度も無い。

「もしくは、あまり言いたくはないんだけど、もしかしたら出現しなかったのかも」

 ありえない。時の鏡は自然現象。その出現は自然界の歴史の一部。自然界も含めた世界全体の事態の推移がそこまで変わったとは到底思えない。

「朝美。もう探しようが無いよ。諦めよう」

 私はその場にしゃがみこみ、頭を抱えて溜め息をついた。時の鏡に出会えない。そんな根本を覆すようなことが起きるなんて。


次章予告。大逆転。

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― 新着の感想 ―
おぉ、驚愕の事実が明かされましたね。 具体的なことは他の読者さんのネタバレになるから書けませんけれど、読んでいる最中にも驚きながら読み進めておりました。 逸美と朝美……スーパー女子大生ユニットw …
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