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第二章 原始人とマネキン

 足元に地面の感覚。私は一気に駆け出した。次の瞬間、広々とした景色が目に映り、呆気にとられて私は立ち止まった。振り返ってみると運動場。高校生たちがグラウンドに広がって、サッカーボールでパスの練習を続けていた。

「何をやっているんだ。佐度野」

 男の野太い声。その主を確かめてみると、確かあの人は体育の先生。先生は私に手招きをしてきた。訳が分からないままに先生の前に立つと、「おい。佐度野」と先生は言った。

「どこへ行くつもりだ」

「いえ……」と私は口ごもった。

「そんなに走りたいのか。それなら校庭を一周してこい」

 この授業には覚えがある。そう言えば、この人は佐藤先生。私が三年生の時、私のクラスの体育を担当した人。サッカーも三年生の種目だったはず。

「あ、あの……。山田君、山田爽一君は」

 先生は「ん?」と鼻を鳴らし、校庭の方に目を向けた。その視線の先には、機敏にパスを交換する山田君の姿。緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込んでしまった。

 意味不明なままに体育の授業が終わって教室に戻り、目の前では数学の授業が始まっていた。

 クラスメートの言葉を信じれば、今日はあの事故の十四日前、週初の月曜日。私は別の日時に戻っていた。条件が変われば結果も変わる。歩道の水溜りの位置がわずかに違っていたのが原因かも知れない。でも、これはこれで好都合。時間は十分に残されている。

 とは言え、そうなると、あの事故は本当にあの日時に発生するのだろうか。私が余計な言動をとらない限り、時々刻々と推移する事態に変化は生じないはずだけれど。

 そんなことを考えた時だった。教壇の方から「佐度野」と声が飛んできた。ハッとして顔を上げると、先生が私を睨み付けていた。

「佐度野。前に出てきて、この問題を解いてみろ」

 見ると、高校生には難しいかも知れないけれど、私にとっては容易な問題。私はこっそりと溜め息をついて席を立ち、黒板の前に進み出て、さっささっさと解いてみせた。

 これでよろしいでしょうか、先生。積分の練習なら、せめて分布荷重問題くらいは出していただきたかったもの。そんな感じで軽く営業スマイル。先生は言葉に詰まる様子を見せた後に「席に戻れ」と命じてきた。そんな先生を眺めながら、私はふと思った。

 この人は新任だったはず。最初の人生では、若くて格好の良い先生などと私は思っていた。でも、黒板に残されたこの人の数式はぎこちなく縮こまった活字体。一方、私の数式は流麗な筆記体。

 一回目の大学の教授は私たちに専門学校的な指導をした。二回目の大学の教授は研究者的な指導をした。ブレイン・ジムナスティックス。手と頭を最大限に動かせと。心の年齢四十二歳。要するに、年季が違うのだよ、新人。

 先生が気まずそうに再び声を掛けてきた。

「佐度野。正解だ。席に戻って良い」

 私は軽く会釈を返し、皆の注視を浴びながら席に戻った。

 一日の授業が終わり放課後となった。放課後の校舎の至る所に生徒の姿。部活動へ急ぐ者。帰宅しようとする者。何となく残っている者。私は帰宅の準備を整えて、まずは美術室へ向かってみた。

 運送会社側に私が関与する。それは到底上策ではない。事故の損害賠償で資金繰りに行き詰まってその内に倒産しますよ。だから、事故の予防の徹底を。そんな未来を明かしたところで、信じてもらえるとは思えない。それどころか、私の関与によって事態の推移が変化して、事故の日時や状況が変わってしまう恐れもある。

 トラックの運転手個人に関しては手に余る。あの男に関することと言えば、事故の直後に噂話を耳にした程度。二十歳代後半で独身独居。勤務態度は良くはないが、悪いと断定するほどでもない。ただし、事故歴は無いとのこと。それ以上のことは知らないし、犠牲者が出ないようにするだけで手一杯。居眠り運転の果てに事故を起こして死亡しても、それは加害者側の自業自得。ひとまず私の知ったことではない。

 当初の案。つまり、最初から私が交差点で待ち構えていて、トラックが来たら警告する。それで十分だとは思うのだけれど、怖いのは不測の事態。万が一の可能性を考えて、やはり三人には事前に何らかの警告を。

 そんな思案をしながら美術室に足を踏み入れた瞬間、美術部員たちが一斉に不審そうな目を向けてきた。「陀打団田さんは」と尋ねると、「三年生は全員引退したんですよね」と下級生女子に尋ね返された。

「確か、逸美先輩はちょっと前から、学校が終わったら予備校ですよね」

 思い出した。いっちゃんが理系科目の宿題を私に頼っていたのは、学校と予備校、両方の勉強で手が回らなくなり始めていたからだった。でも、いっちゃん自身はそのようには認識していなかった。色々な意味で全てを要領よくこなしている。そんな風に自分自身を評価していた。

「佐度野さんは予備校に通わないんですか」

 女子の問いに、私は首を傾げて考え込んでしまった。

 今の私に受験勉強は必要ない。教科書などをめくりながら、忘れてしまった細かい部分を思い出せば、準備は十分。そもそも、完璧とまでは行かないものの、入試問題そのものを覚えている。でも最初の人生では、なぜ私は皆と一緒に予備校に通わなかったのだろう。

 あの予備校のことは知っている。大学進学のための昼間部と夜間部は一号校舎。高校進学のための夜間部は二号校舎。私は中学三年生の夏の初め頃から高校受験が終わるまでの半年強、二号校舎に通っていた。

「佐度野さん。どうしたんですか」

 思い出した。家にそこまでの経済的な余裕が無かったから。そして親は言った。せっかく良い高校に通っているのに、なぜ学校の先生に教えてもらわないのかと。

「佐度野さん。大丈夫ですか」と女子の困惑気味な声。

「サドさん、ちーっす」とからかい半分の男子。

「私はサディストではないから。私は自分で勉強するから予備校には行かない」

 結局、いっちゃんは空振りに終わった。

 山田君は理系志望で私と同じクラス。私よりも一足先に教室を後にしていた。いっちゃんと鈴木は文系志望。それぞれ別々のクラスに所属している。それなら次は、中途半端に厳つい元ラグビー部員の鈴木の所。まだ残っていれば良いのだけれど。そんな期待を胸に、私は早くも閑散とし始めた校舎の廊下を鈴木の教室へ向かった。

 校舎内の一般教室が並ぶ階に人影は無く、聞こえる音と言えば校舎外からのものばかり。辺りはすでに静まり返っていた。これは期待薄。そう落胆しながら教室にたどり着いてみると、出入り口の扉は開きっ放し。室内から鈴木のものらしき声が聞こえてきた。君はラッキー。私は安堵しながら室内に足を踏み入れようとして、慌てて出入り口の陰に隠れた。

 巨乳。巨乳。鈴木は巨乳を連呼していた。

「俺はやっぱり、あれは巨乳に分類されるべきだと思う」

 ふと見ると、廊下を挟んで向かい側の窓ガラスに室内の影がうっすらと映り込んでいた。

「分類なんかどうでもいいよ。本人の前では絶対に言うなよ」

 落ち着いた声と口調から考えて、話し相手は山田君の模様。

「何だよ。山田だってこういう話には興味があるだろう」

「なあ、鈴木。胸を揉んでみたいとか、メガネをそっと外してみたいとか、そういう話はもうやめよう」

 私はこっそりと溜め息をついた。昔から薄々勘付いてはいたけれど、これが男子高校生の実態、影の猥談。

「鈴木。僕は逸美に告白することに決めた。だからもう、逸美のことでそんな話はしたくない」

 私はウッと呻きそうになった。山田君の突然の宣言。鈴木も絶句してしまった様子だった。

 気付かなかった。この討論会のテーマは銀縁メガネで巨乳のいっちゃん。しかも知らなかった。この頃に山田君といっちゃんの関係性が変わったことには気付いていたけれど、山田君の方から告白していたなんて。

「で、でもさ。山田は佐度野ではなかったの?」

 私はエッと声を漏らしそうになって口を押えた。

「あれは、女子の中では佐度野と逸美が良いかなと思っていたという話」

「で、でもさ。だって、マネキン……」

 私はンッと鼻を鳴らしそうになった。マネキンとは一体。

「やはり、佐度野はちょっと違うかなと思ったんだ。パンをくわえるとか、前からそんな話もあったし。今日も急に様子が変になって」

「どんな風に」

「何て言うんだろう。急に上みたいになってしまったというか」

「確かに、佐度野は女子としては背が高い方だよな」

「茶化すなよ。そういう意味ではないよ。上手く言えないんだよ」

 不審と疑念。私は不用意にやり過ぎてしまった。

「しばらく前から、逸美の方が良いかなとは思っていたんだ。この前も、ちょっと想像してしまってさ。家に帰ったら、逸美が待っていてくれるようなところ」

 それは私も同感。いっちゃんにはそんな家庭的なイメージがある。

「それに巨乳だし」と鈴木は茶化した。

「まあね」と山田君は応えた。

 二人の軽い笑い声が聞こえた。私はそっと拳を握り締めた。先ほどまでの否定は何だったのか。やっぱり男は馬鹿。巨乳という言葉で爽やかに笑い合うなんて。

 弓道着姿の山田君はくっきり、すっきり、爽やか男子。ずっとそう思っていたのに、実はむっつりスケベ。しかも鈴木と同じく、致命的に見る目が無い。

「でも、何で急に告白とか」

「僕も鈴木も次の月曜日から予備校だろう。本当に受験勉強が始まったら、告白なんてとても無理というか不謹慎というか……。受験が終わったらとも考えたけど、そこまでの間に逸美が誰かに告白されるのも嫌だし……。だから、告白というよりも約束を……」

 しばらく沈黙が続いた後、突然ガタッと物音が聞こえ、窓ガラスに映る室内の人影が大きく動いた。

「ダダダンダ・イッツ・ミー!」

 鈴木の叫び。どういう意味だろう。

 巨乳を連呼し、最後には意味不明な雄叫びを上げる。オヤジの萌芽。鈴木はいずれ平清盛などと言い始める。やはり、鈴木の将来は見当違いに熱血なオヤジに違いない。

 随時入学可能が売りの駅近くの予備校。入る前に、いっちゃんと独占契約を結んでおきたい。ただし、それ以上は無し。山田君はむっつりスケベだけれど、やはり真面目は真面目なのだろう。

 男子高校生の妄想と欲情に当てられて、私はこっそりとその場を後にした。これでは無理。この時点辺りに関する記憶はかなり曖昧になっている。深刻な内容を適切に話せるとは思えない。きちんと策を練らなければ。

 

◇◇◇◇◇

 

 翌日、火曜日の朝。事故の発生予想日まではあと十三日。私はいつもよりも早くに家を出て、高校の最寄り駅の改札口付近で山田君と鈴木を待ち受けた。

 通勤や通学の乗客が引っ切り無しに行き交う平日の朝。これでも雑踏には違いない。でもここにあるのは、どことなくゆったりと進む人込み。大都会は足早に流れていく人波。やはり大都会と比べれば、空気が緩いとしか思えなかった。

 二人の自宅は私とは反対方向。しばらくして逆向きの電車が到着し、二人が改札口に現れた。鈴木は目ざとく私を見付けると、早速声を掛けてきた。

「佐度野が待っているなんて珍しい」

 山田君は挨拶代わりに無言の頷き。私も同じく頷き返した。

「しかも、今日は寝癖が無い」

 鈴木の坊や。目ざといのは褒めてあげる。でも坊やと違って、私は今やレディーなのだよ。心の内でそんな風に揶揄しながら、私は鈴木の余計な茶々を無視した。

 駅舎を出てみると曇り空。この時期、梅雨入りと梅雨明けはどうなっていただろう。私の心にとっては、今は二十四年前の過去。中々思い出せなかった。

 他の生徒たちも独りで、もしくは友達などと共に学校へ向かう中、私たちも高校への道を歩き始めた。すると、山田君がためらいがちに尋ねてきた。

「佐度野がわざわざ待っているなんて、何の用?」

 茶々などは入れずに単刀直入。こういうクライアントとは話をしやすい。

「私さ。何だかさ。変な夢を見ちゃってさ。それで気になってさ」

 その瞬間、鈴木が半笑いで口を挟んできた。

「さあ、さあ、うるさいな」

 しまった。昔の口調なんてとっくに忘れてしまった。無理な若作りはやめよう。

「昨日の夜、交通事故の夢を見た。学校に一番近い交差点にトラックが突っ込んでくる夢。そして、うちの学校の生徒たちがはねられる」

 二人は「ん?」と訝しげに鼻を鳴らしながら私を一瞥した。

「だから、横断歩道を渡る時には、右を見て左を見て」

「えっと」と山田君が困惑気味に応えた。「交通安全は分かるけど、夢を見たと言われても。それに、あの交差点で事故が起きたなんて話はこれまで一度も聞いたことがないし」

「だから、一般的な注意ではあるんだけど……。いや。今は梅雨でしょう。雨で視界不良とか、色々あり得るし」

「今年の梅雨明けは早いらしいぞ」と鈴木の茶々。

「何で、急にそんな話を」と山田君。

「だから、夢を見たって」

 山田君が溜め息をつくと、代わりに鈴木が尋ねてきた。

「まさか、夢では俺たちがはねられた?」

 私は二人の様子を窺いながら無言で頷いた。鈴木が露骨に嫌そうな顔をした。

「変なことを言うなよ」

「でも、トラックにはねられたら死んじゃうよ」

「やめてくれよ。朝一番から縁起でもない」

 二人はそれとなく私を無視し、二人並んで私の前を歩き始めた。中々上手く行かないと落胆しながら、私も無言で付いて行った。

 二人の話題は予備校の件だった。クラス分けの試験の結果、山田君は総合コースの一番上のクラスに入ることになった模様。一方、鈴木は文系コースの上から三番目。鈴木は明らかに出遅れている。いっちゃんでさえ総合コースの上から二番目だったはずなのに。

 それにしても、二人の肩と背中は全く違う。ラグビー漬けだった鈴木はムキムキへの発展途上にある筋肉質。弓道有段者の山田君は細マッチョと中肉中背を足して二で割ったような感じ。

 二人共に贅肉の気配が無いのは、さすが運動部の高校生。撫でて叩いてみたいのは鈴木の背中。寄り掛かってみたいのは山田君の背中。山田君はむっつりスケベなのかも知れないけれど、やはり私の好みに合うのは山田君。

 私は心の中で二人に話し掛けた。ちょっとそこの少年たち。カフェラテって言ってみな。カフェオレじゃないよ、カフェラテだよ。リピート・アフター・ミー。オトナノ・カフェ・ラテ。それが大都会の煌めく朝。でも、結局はただのコーヒー牛乳なのだけれどね。

 私はハッと我に返って足を止めた。男子高校生の背中に見惚れている場合ではなかった。この二人に関しては、少なくとも今朝は失敗で終了。先に行ってと二人に声を掛け、私はその場でいっちゃんを待ち始めた。

 車道からは走行音。通勤と思われる乗用車。すでに仕事中と思われる大型車。そして時折、二輪車が軽快に駆け抜ける。足元に目を遣ると、手入れの行き届いた綺麗な花壇。

「あっちゃん」

 ギョッとした。振り返ってみると、いっちゃんが立っていた。私は慌てて取り繕った。

「いっちゃんはカフェラテって知っている?」

「うん。今朝も飲んだ」

 私は呆気にとられた。銀縁メガネが無駄に可愛い巨乳のいっちゃん。てっきり、両手でグラスを捧げ持って可愛らしくミックスジュースを飲んでいるのだと思っていた。ところが、陀打団田家の朝はコーヒー牛乳。ただの牛乳の佐度野家よりも意外に都会派。

「いっちゃんの家では、カフェラテって言うの? カフェオレじゃなくて」

「ラテとオレは違うでしょう。コーヒーの濃さが」

 唖然とした。知らなかった。心の年齢四十二歳。そんな違いがあったとは。

 いっちゃんは不審そうに私の様子を窺っていた。私は「行こう」と声を掛け、とにかく平静を装って歩き出した。

「いっちゃんは学校のすぐそばの交差点をどう思う?」

「何で?」

 死という言葉は忌避される。警戒を促すのならもっと慎重に。

「あそこは車の通行量が多いよね」

「うん。この道に沿った方向は多いけど……」

 そうではない。この道と交差する方向からトラックは突っ込んでくる。

「交通事故には注意しなきゃね。道を渡る時にお喋りに夢中になるのは危ないよね」

 いっちゃんは「うん」と神妙に頷いた。男子二名よりも圧倒的に素直。希望の光が見えてきた。しかし、私がさらなる警告を発しようとするのを遮り、いっちゃんは「ねえ」と小声で話し掛けてきた。

「あの子、やっぱり可愛いよね。商業科だったかな……。普通科だったかな……」

 いっちゃんの視線の先に目を遣ると、見知らぬ女子が徒歩で私たちに向かってきていた。

 私立校のその子の制服は、淡いサックスブルーのワイシャツ、ダークグリーンのチェック柄のプリーツスカート、首元から胸にかけてスティールブルーの細身のネクタイ。しかも、その手にはピカピカの学生カバン。

 一方、公立校の私たちの制服は、白いワイシャツ、無地の紺色スカート、首元には子供っぽい紐のリボン。

 私立校の女子とすれ違って少し離れた頃、いっちゃんが囁いてきた。

「あの子の唇、ちょっと艶があったよね。艶入りのリップクリームかな」

 その呑気な言葉に、私は少々苛ついた。

「受験生がそんなことを考えていていいの?」

 いっちゃんがウウーンと情けない呻きを漏らした。

「あの子は制服が可愛いだけ。着こなしに隙があるし、私服はどうだか分からない。あの子と比べたら、いっちゃんの方がずっと自然でずっと可愛い」

 そして、私はおもむろに忠告した。

「いっちゃん。例のあれはやめな。全部無駄になるよ」

 しばらく無言で歩き続けて、いっちゃんも黙り込んでいることにふと気付いた。私が交差点の件に話を戻そうとすると、それよりも先にいっちゃんが口を開いた。

「いつも寝癖の朝美がそんなことを言うなんて、何だか人が変わったみたい」

 言い過ぎた。いっちゃんの機嫌を損ねてしまった。サドの朝美。体は高校生でも、心の年齢は四十二歳。オカンか、私は。

 今朝はもう駄目だと私は諦めた。誰も真剣に受け止めてくれない。それなりに考えてきたつもりだったのに、警戒を促すだけのことがこんなにも難しいなんて。これが臍を噛むような想い。でも、臍ってどうやれば噛めるのだろう。

 山田君と鈴木、そしていっちゃん。三人とももっと素直だと思っていたのに、予想外の反応をする。三人と最後にまともに言葉を交わしたのは、心の歳月で二十四年以上も前のこと。その間に私は多くのことを忘れ、三人の人物像を脳裏で勝手に作り上げてしまっていたのだろうか。

 歩く先に目を向けると、運命の分かれ道となるはずの交差点が近付いてきていた。残すは十三日。何とかしなければ。

 

◇◇◇◇◇

 

 事故の十日前、週末の金曜日。二時限目終了後の休憩時間、校内放送に呼び出されて小会議室へ行ってみると、母と学級担任の先生、生活指導の先生と保健室の先生が待ち構えていた。

 心の年齢四十二歳。それでも、この四人は今でも私よりも年長者。私はこの顔ぶれに安定感のような安堵を覚えた。

 壁も天井も色あせた会議室。部屋の中央には長いテーブル。その周りにはスチール製の折り畳み椅子。この会合には覚えがある。この件に気付いたのは昨日のこと。思い出すのが遅すぎた。

 促されるままに母の隣に腰を下ろすと、学級担任がおもむろに口を開いた。

「佐度野。最近調子はどうだ」

 私は視線を下げた。やはり前回の人生と同じ。

「実は、報告というか苦情というか、そういうものがあってな」

 私は学級担任を見詰めた。この言葉には覚えが無い。事態の推移が変わってしまった。

「山田と鈴木が……」

 私の異常行動を訴え出た。私がしきりに不吉なことを言ってくる。交通事故の夢を見た。交通事故は珍しくない。死んでしまう者もそれなりにいる。二人も十分に気を付けて。

「交通安全はともかく、予知夢とか『死ぬ』とか言われたら、誰でも良い気はしないだろう。まるで霊感商法かインチキ宗教の勧誘だ。二人とも気味悪がってしまっている」

 思い返してみれば、昨日辺りには二人にもいっちゃんにも避けられ始めていたような気がする。手を替え品を替えたつもりだったのに、結局上手く行かなかった。

「他の先生たちも、佐度野は何かが突然変わってしまったと言っている。そこで、お母さんにお越しいただいた訳だ」

 私の隣に目を遣ると、母も深刻そうに私を見詰めていた。

 次いで、私は生活指導の先生に目を遣った。この先生は体育担当の佐藤教諭。私があらぬ方向へ駆け出したのを目撃した人。佐藤先生も深刻そうな眼差しを私に向けていた。

 私が視線を戻すと、学級担任は話を再開した。

「お母さんに伺ったところ、月曜日辺りから急に物忘れが多くなってしまったそうだな。一々、何かを思い出そうとするかのように考え込んでしまうと。佐度野の同級生や美術部の部員たちも似たようなことを言っている」

 これは前回と同じ。私の心にとっては、今は二十四年前。日常的な些細な事柄などとっくに忘れてしまっている。前回は、事故を直視したことによる精神的な混乱という形でごまかせた。それに実際、あの事故はショックだった。

 学級担任に代わって、保健室の先生が穏やかに話を続けた。

「佐度野さん。突然、人柄が変わるとか、物忘れが多くなるとか、言葉が出なくなるとか、一度脳を診てもらった方が良いと思う」

「いえ。大丈夫です」

 生活指導の佐藤先生が大きく息を吐いて腕組みをした。

「佐度野。頭は怖いんだ。病院で診てもらえ。具合が良くなるまで学校を休め」

「診てもらって異常が無ければ、それでいいんですよね」

「状態が元に戻るまで休め」

「その指示の根拠は」

 先生たちが眉をひそめた。

 しまった。仕事の口調が出てしまった。高校生になり切るのは難しい。

「過労で物覚えが悪くなる場合もあるの」と保健室の先生。「過労というと過労死を思い浮かべるかも知れないけれど、そこまで行かない過労なら高校生でも普通にあるの」

「まずは体調を整えろ」と学級担任。「佐度野は生真面目だから、部活を引退して受験勉強に集中しすぎているのかも知れない。あまり根を詰めるな」

 生活指導の佐藤先生が腕組みを解いた。

「変なことになる前に、自主的に少し休め。せめて一週間」

 とうとう、私に代わって母が「はい」と頭を下げた。

 駄目だ。危機感が薄いのだ。人が死ぬ。その程度の言葉を忌避するなんて。その言葉自体は私にとっては日常茶飯、何ら珍しいものではない。間違いや手抜きやごまかしをしたら、建物が潰れて人が死ぬ。それが設計事務所でのお決まりの訓示だった。

 昔は、建物が潰れないかを設計者自身が身をもって確認した。建設の最終段階、設計者は建物の中心に立つ。潰れたら死、潰れなかったら名誉。そんな逸話を私は教授たちからも所長からも何度も聞いた。

 ここにはその種の緊迫感など存在しない。常に全般にわたってではなく、目に付いた時に必要な個所だけに手当てをする。それがここの危機管理。

 あと二週間も残っていると楽観した上に、安直に動きすぎてしまった。これ以上、無理に下手なことをしたら、事態の推移が決定的に変わってしまう。仕方が無いと気落ちしながら、私も黙って頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 事故の七日前、週初の月曜日。気分転換を兼ねて、私は郊外の田園地帯を独り散策していた。

 自宅の最寄り駅から高校とは逆方向に二つ目の駅。そこを起点に整備された古刹巡りのルートに沿って、いくつかの寺や神社をのんびりと訪ねて回った。周囲には田畑、所々に果樹園、視線の先には低く連なる山また山。湿り気を帯びてはいたけれど、大都会には存在しない爽快な緑の風が吹いていた。

 学校を休んで休息せよ。その命令はある意味では渡りに船でもあった。本来であれば、私にとっては短期の夏休み、お盆休みの時期のはずだった。高校生に見られないよう大人の雰囲気を漂わせ、平日午前から独りでぶらぶら田舎道。昼食のために入った蕎麦屋の人たちは、私のことを大学生と認識した模様。気分転換に最適な環境と状況だった。

 先週金曜日の会合の後、私は母に連れられて街の総合病院へ直行した。当然、私の脳に異常は無く、夕方前には解放された。土曜日と日曜日は雨模様。自宅に籠ってのんびり三昧。そして今朝、パートタイムの仕事に出掛けようとする母に散策の件を告げると、帰りに好きな夕飯のおかずを買ってきなさいと母は言った。母親は遠くにありて思うもの。いや。何たる親不孝。ふるさとだった。

 あの事故の件。事前に打てる手は残っているだろうか。

 時速三十六キロメートルは秒速十メートル。時速七十二キロメートルは秒速二十メートル。トラックは交差点手前の停止線では止まらずに、横断歩道を突っ切り、交差点に突っ込み突っ切り、向かいの横断歩道で三人を撥ね飛ばす。その間、おそらく二秒、せいぜい三秒。トラックの突進に気付いて後ずさるには十分な時間。それなのに、あの三人は不注意なままにのんびりと一歩、また一歩と踏み出してしまう。

 日時を明確に示して警戒を促す。やはり、それは危険な気がする。三人から学校側へ話が伝わる。話に信憑性は無くとも、学校側は全校生徒に一般的な警戒を促す。そこまでは十分にあり得るけれど、問題はそれ以降。話がさらに外へ広がる。事態の推移が大きく変わる。その可能性は否定できない。

 事故の朝、駅で三人を待ち受ける。それも有力な案とは思うけれど、多分三人は私を忌避するだろう。無理に引き留めて騒ぎになると、それこそ事態の推移が劇的に変わり、三人以外の誰かが事故に巻き込まれてしまったりするかも知れない。

 やはり当初の案、つまり私があの交差点で待ち受ける。事故は加害者だけで完結してもらう。現状では、それにとどめるのが最も確実。

 そんなことを考えながら田舎道を歩き続けて、ふと道端に目を遣るとお地蔵様。私は心の内でお地蔵様に問い掛けた。私は考え過ぎて余計なことをやり過ぎているのでしょうか。すると、心に言葉が浮かんだ。考え過ぎるのは仕方が無い。あんな事故を目にしてしまったのだからと。自問自答のたぐいと自覚しながらも、私はお地蔵様に向かって頭を下げた。

 その後、電車に乗って高校の最寄り駅へ向かった。目当ては駅前商店街。自宅近くの商店街よりも規模が大きい。そこで夕飯のおかずを物色しようと私は決めた。

 高校の最寄り駅に着いてみると、夕飯までには中途半端な時刻だった。私は何の気なしに高校への道を歩き始めた。その途端、次から次に学校帰りの高校生とすれ違い、しばらく進むと同級生の女子に出くわした。

「何だか大人っぽくて、初めは朝美と気付かなかった」

 その言葉に私は愛想笑いを返して、そのままやり過ごした。

 それはそうだよ、女子高生。私は今やビジネススーツを隙なく着こなすキャリアウーマン。普段の姿にしても、コーディネートから着こなしから所作に至るまで、全てがお子様でもなくオバサンでもなくレディー仕様なのだから。いや。あまりにも高慢なことを考えていると、またコーヒー牛乳のような失敗をしてしまう。

 結局、何の目的も無く高校へ向かうのはやめた。

 来た道をのんびりと引き返して、私は駅近くの交差点で立ち止まった。右へ曲がればいっちゃんたちの通う予備校。このまま進めば駅に着く。

 思い出した。なぜ、最初の人生では皆と一緒に予備校に通わなかったのか。経済的な問題だけではなかった。もう一つの理由。夜の予備校通いに対して、私はまるでトラウマのような重苦しい想いを抱いていたから。

 私があの予備校に通っていたのは中学三年生の時、部活動引退の直後からだった。当初の学力は、女子の制服が可愛らしい、あの私立校の普通科特進コース相当。でも、頑張り抜いた結果は県立高校、県内有数の進学校に合格。心に染み付いてしまった重苦しい想いはその代償とも言えるものだった。

 中学校の授業が終わると、電車に飛び乗り予備校に駆け付ける。予備校の授業が終わる頃には辺りは閑散。独り夜道を歩いて再び電車に飛び乗り家路を急ぐ。それまで経験したことのなかった暗く慌ただしい日常に、疲労と倦怠感が徐々に静かに積もっていく。今から思えば、中学生の私は未だ幼く、ひ弱だった。

 今夜、予備校から駅へ向かう帰路の途中で、山田君はいっちゃんに告白するのではないだろうか。その告白が失敗すれば、いそいそ、そわそわと、あの交差点に足を踏み出すこともなくなるのではないだろうか。

 それならば、今から予備校に乗り込んで山田君に囁いてやろうか。違うから。いっちゃんは違うからと。それとも、いっちゃんの方に囁いてやろうか。違うから。山田君は違うからと。でも、それは薄汚れた手口のように思われた。

 私は直進でもなく右折でもなく、交差点を左へ曲がった。しばらく行くと、街を貫く程々の広さの一級河川。私は堤防の遊歩道に独りたたずみ呟いた。

 違うから。いっちゃんは違うから。いっちゃんの巨乳は激盛ブラパッドだから。

 違うから。山田君は違うから。山田君は巨乳大好きむっつりスケベだから。

 でも、三人が助かることを当然の前提とするのなら、つまり四人揃っての人生を復活させることを目論むのなら、余計なことを囁いて人間関係を壊滅させるのは本末転倒気味だろう。

 いっちゃんには天然由来の可愛らしさがある。それに加えて激盛パッド、自前の手芸でブラに留め付け一体型。シャツが濡れて透けそうになると、さりげなく腕でひた隠す。そのたびに、男子たちは感銘の溜め息を漏らして悶絶し、巨乳の定義で論争する。

 平清盛や源寄上くらいならともかく、平厚盛や平激盛はさすがにやり過ぎ。身に覚えのある女子も多い中、何とか秘密は保たれてはいるけれど、巨乳幻想が崩れる時、乙女のオーラも霧散する。それは考えるまでもないことだろうに。

 実業を営む名家のお嬢様。妖精のような愛らしさ。そこに駄目押し、魅惑の激盛。男子たちが取り巻くのはいつもいっちゃん。山田君が最後に選んだのもやはりいっちゃん。

 一回目の人生では、私はそんないっちゃんに呆れると同時に羨望もしていた。山田君のリストには一応、私も入っていたらしい。私のリストには山田君が入っていたのだけれど。でも、心の歳月では、それはもはや二十四年前のこと。

 日が傾いてきた。余計なことはもうやめよう。私は夕飯のおかずを買ってそのまま帰宅することにした。

 

◇◇◇◇◇

 

 運命の朝。動きやすいように、上はトレーナー、下はジャージ、足にはかつての陸上競技で使い込んだ運動靴。ウエストポーチをかっちりと腰に着け、定期券やその他の小物を押し込んだ。

 いつもの時刻に電車に乗り、高校の最寄り駅を出て、そのまま高校への道を黙々と歩き続けた。朝の陽射しが眩しかった。暑かった。胸の鼓動を自覚した。

 いつもの通学路。いつも通りの通学路。私の前後にはぽつりぽつりと同じ高校の生徒たち。前回までと同じなら、その内の十数人があの交差点で信号待ちをする。

 歩道には花壇、整然と咲き誇る花々。季節外れのセミが鳴いた。私の前方には山田君と鈴木がいるはず。二人は私とは逆向きの電車に乗って最寄り駅に到着し、私よりも先に通学路を歩き始める。

 私の後方にはいっちゃんがいるはず。いっちゃんの自宅は最寄り駅を通り抜けた向こう側。私に合わせて徒歩で家を出て、その内に私に追い付いてくる。しかし、私はいっちゃんを待たずに歩き続けた。

 すぐそこにあの交差点。向かいの信号は厳然たる赤。山田君と鈴木が何かを話し込んでいた。事態の推移はわずかに違うような気もするけれど、不測の事態は無い模様。これで終わる。ようやく終わる。

「佐度野」

 びっくりして脇を見ると、佐藤先生。事態の推移が変わった。同じく学校へ向かう途中のようだった。

「佐度野。ちょっと来い」

 先生はそう言いながら私の腕を取り、歩道の端に寄って立ち止まった。交差点の横断歩道まではあと十メートル弱。私は焦って軽く抵抗した。しかし、さすがに体育教師。先生の腕は私よりも力強く、容易には振り払えなかった。

「お前、本当に大丈夫か。今日から登校なら登校で、その恰好は何だ」

「先生。違うんです」

「御両親は何も言わなかったのか」

「時間が無いんです」

「まさか、錯乱しているんじゃないだろうな」

 周囲に目を遣ると、トラックが突っ込んでくる方向の黄信号が点灯中。いつの間にかいっちゃんは山田君と鈴木に合流し、他の生徒たちと同じく、こちらの様子をこっそりと窺っていた。

「時間が無い」

「時間はある」

「緊急」

「普段着のままフラフラ出てくるなんて、頭は本当に大丈夫か」

 私は先生の腕を掴んで睨み付け、小声で伝えた。

「例の夢。まさに今」

「何?」

 私は先生の手を振りほどいた。こちらの信号が青に変わった。歩き出そうとする生徒たち。私は皆に駆け寄り、皆を掻き分け、「戻れ!」と叫んだ。

 視界の端にトラック。三人はこちらの様子を気にしながらも、すでにゆっくりと車道に踏み出していた。違う。注意を向けるべきはこちらではない。

 私も車道に踏み出し、「戻れ!」と絶叫しながら、最も手近にいた鈴木の腰のベルトを後ろから掴んで力任せに引っ張った。鈴木の口からグエッという声。同時に私も背後からウエストポーチを思い切り引っ張られて同じくグエッ。

 私と鈴木が歩道に倒れ込んだ。見ると、私を引っ張ったのは佐藤先生。先生も一緒になって転がっていた。

 次の瞬間、少し離れた場所から轟音が聞こえてきた。身を起こして確かめてみると、横転したトラックがその腹を無様にさらけ出していた。

 

◇◇◇◇◇

 

 いっちゃんと山田君の葬儀も終わった週末の午後。鈴木とその御両親が佐度野家にやって来た。

 和室の客間には私と両親、鈴木家の三人。三人は身なりを整え、詰まらない物ですがと謙遜しながら、座卓越しに豪華な菓子折りを差し出してきた。私の両親がねぎらいといたわりの言葉を掛けると、鈴木のお父さんが私に声を掛けてきた。

「君がいなかったら、圭太は死んでいた。本当にありがとう」

 その言葉と同時に、鈴木とお母さんが頭を下げた。鈴木の感情は麻痺している模様。その顔に表情と呼べるものは見られなかった。続けて、お母さんが話し掛けてきた。

「朝美さん。怪我の具合は。こんなに綺麗なお嬢さんに傷跡が残ったりしたら、もう……」

「大丈夫です。軽い打ち身と擦り傷だけですから」と私は冷静に答えた。

 続いて、お母さんはデパートの紙袋を差し出してきた。中には、ブランド物のジャージと、かなり上等で頑丈そうなウエストポーチ。先日のジャージは路面にこすれてかなり傷み、ウエストポーチのベルトは千切れかけ、二つ共に廃棄処分となっていた。

 その後、取り立てて話し込むこともなく、御両親は自動車で帰っていった。玄関前に残ったのは私と鈴木。私たちは散歩の気分で、ここの最寄り駅へ向かって歩き始めた。

「鈴木」と私は話し掛けた。「あれからずっと、学校を休んでいるんでしょう。私は次の月曜日から行くよ。鈴木もそうしな」

「佐度野は随分醒めているんだな」

 鈴木の声音は低く弱々しかった。気持ちは分かる。でも、私にとっては三回目。

「佐度野も見ただろう。山田の葬式では山田のお母さんが泣いていた。逸美の葬式では逸美のお母さんと弟が泣いていた。あれはきつかった」

「それは私も一緒。私は冷淡ではなく、努めて冷静なだけ。気分が良いはずはない」

「そうか……」と鈴木はあっさり納得した。

 この辺りは猫の額ほどの住宅街。整然と立ち並ぶのは、大きくもなく小さくもなく、良くもなく悪くもない、ちょっと古びた建売住宅。心の年齢四十二歳。心は熟練建築士。おおよその値段は察しが付く。うちの住宅ローンはどれくらい残っているのだろう。

 住宅街の周辺には田畑や野原、昔ながらの家々が点在する。そんな田舎の昼下がり。道行く人は車道を行き交う自動車の中。徒歩ですれ違う人はほとんどなく、その後の道すがら、鈴木が尋ねてきたのは学校と警察による私への事情聴取の件だった。

 死亡者は三名、いっちゃんと山田君と運転手。私は夢と称する話の内容をかなりごまかした。もちろん私とトラック側には何の繋がりも無く、警察官たちは頑ななまでに現実的で、たまたま的中してしまった虫の知らせとの認識で話は最終的に落ち着いた。

 裏の事情を隠して説明すると、鈴木は「虫の知らせか……」と再び素直に納得した。

 しばらく黙々と歩き続け、駅が近付いてきた頃、鈴木が私に聞かせるともなく呟いた。

「あいつら、あの世で仲良くやっているかな……」

 私は無言をもって答えた。

「知っているか。あの二人、付き合い始めていたんだぜ。不幸中の幸いだよな……」

「そういう言い方は好きじゃない」

「でも、そう思うしかないじゃないか。死んだんだぞ。もう元には戻らないんだぞ」

 そうではないんだよ。戻るかも知れないんだよ。泣く人のいない未来。その可能性はあるんだよ。それまでの間、私たちは私たちでこの現実の中を最大限に生きていくしかないんだ。十二年後、もしあの水溜りが現れたら、鈴木も過去へ連れて行く。その時が来るまでは、しっかりしていてくれなければ困るんだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 私の心にとっては足掛け二十六年目の大都会。片や、鈴木にとってはようやく一年が過ぎようとする頃。休日の午後、迷ってさまよう御上りさんを見逃してはならないと、私は気合を入れて改札口に目を凝らし続けた。

 三月は弥生。弥生は春。でも、まだ肌寒い。私の乗っていた電車が駅に到着する寸前、窓越しに弥生亭と書かれた看板が目に留まった。あれは何の店だろう。そんな取り留めのないことを思い続けてしばらくした頃、私の目の前に突然原始人が現れた。

「佐度野。待った?」

 私は思わず後ずさった。ナップサックを背負ったラガーマン体型の長髪。鈴木は訝しげに「何だよ」と不満そうな声を漏らした。

「一年振りに会ってみれば、肩まで届くその長髪。白昼堂々、不潔感」

「大丈夫だよ。風呂には毎日入っているし、服だってちゃんと洗濯しているし」

「これだから男は」と私は吐き捨てた。「綺麗と小綺麗は違うんだよ」

「髭も剃っているし、髪もきちんととかしているんだぜ」と鈴木は白い歯を見せて笑った。

「これだから男は」と私は毒づいた。「口元も締まりが無くてだらしない」

「だ、だらしない? そんなにだらしないかな……」

「法学部なら法学部らしく、原始人取締条例でも作りな」

「何だよ、それ。俺には俺の主義があるんだよ」

 今日の私はシックでスリムなパンツルック。左手を腰に当ててポーズを取り、さりげなく右手で髪をかき上げ、耳元で微かに揺らいで煌めいているはずのイアリングを見せ付けた。その瞬間、鈴木は「お、おう……」と声を漏らした。

 ピアスではないよ。イアリングだよ。今はまだ安物のイミテーションなんだけれどね。でも、絶滅危惧種の原始人を瞬殺するにはこれで十分。原始人を気取るなんて、本物の原始人さんたちに謝れ。そんなことを思いながら、私は鈴木の主義とやらを一蹴した。

 スタジアムへ続く道には、贔屓のチームのレプリカユニフォームを着込んだサポーターの大行列。道沿いのコンビニにもサポーターが溢れ、辺りはお祭り状態となっていた。そんな光景に、鈴木は何度も「凄いな」と繰り返した。その呑気さに私は脱力感を覚えた。

 先の年末年始、故郷に帰省して数日後のこと。鈴木のお母さんから私に問い合わせの電話が入った。鈴木が今回は帰省しないと言っているのだが、東京でどのように過ごしているのか知らないかと。

 何たる過保護。当人が口を割らないのなら、過保護のついでに自分で東京まで確かめに行けば良いのに。そんな風に私が内心で呆れていると、お母さんは思わぬことを語り始めた。あの事故以降、鈴木はふさぎ込むことが多くなった。大学進学を機に、故郷を捨て去るかのように東京へ行ってしまった。鈴木の本音を聞き出してもらえないだろうかと。

 私にとっては三回目。あの事故に対する私の感性は錆びついていたのだと認識し、私はその依頼を引き受けた。帰省を終えてこちらへ戻る日の午前、私は鈴木のお母さんと直接に会い、お母さんに万札を数枚押し付けられた。これでどこかへ遊びに連れて行ってやってくれないかと。母親は遠くにありて思うもの。いや。何たる親不孝。ふるさとだった。

 でも、こうやって実際に会ってみれば、元気は元気。ただし、方向性が少々ずれているような気がした。

 スタジアムに到着してみると、試合開始はまだ先のはずなのに、中からは太鼓の音や応援の掛け声が聞こえてきていた。大都会の巨大なスタジアム。前二回の人生では何度かここを見学する機会があった。今日の感想も以前と同じ。このような箱物は私の志向するものとは異なるけれど、それでもやはり壮大で素晴らしい。

 バックスタンドの一番値の張る席に腰を落ち着けてしばらくすると、華やかな音楽と共に審判と選手たちが登場した。緑の芝生。派手な配色のユニフォーム。ショーアップされたプロサッカーの試合。初めて目にする光景に、私は徐々に没入していった。

 前半終了と同時に、周囲の観客が席を立ち始めた。場所を変えて休憩の模様。私の隣に座る鈴木が「凄かったな」と感嘆の声を漏らした。

「鈴木は今もラグビーをやっているの」

「いや。俺は脳筋にはなり切れない」と鈴木は鼻で笑った。「佐度野はこういうスポーツ観戦を良くするの?」

 私は電光掲示板を眺めながら、「今日が初めて」と否定した。三回の人生を通して今日が初めて。でも、今日は運命の日。

 鈴木は自前の水筒を取り出して何かを一口飲むと、「なあ」と囁いてきた。

「俺たち、周りの人たちに見られていないか」

「原始人が珍しいんでしょう」

「違うよ。皆、特に佐度野を見ている。俺も今日、最初に会った時には驚いた。前はいつも寝癖だったのにこんなに垢抜けるなんて。何か変なことをしているんじゃないだろうな」

「変なってどんな」

「何とか嬢とか、何とか女子とか、何とかの愛人とか」

「まさか」と私は鼻で笑った。

 長髪を主義などと抜かすのは大一病。憂鬱そうにハイブローを装うカント君やヘーゲル君よりはましだけれど。そんなポリシーやフィロソフィーにフンフンと頷いて愛想を返すポチ子たちも大一病。やたらと社会貢献とか自己実現とか言いながら単位を落としまくるワンちゃんたちも大一病。

 私は体の年齢十九歳の大学生一年生。でも、心の年齢は四十三歳、心の中では颯爽たるキャリアレディー。私は中二病でもないし大一病でもないし、いわゆる安い女でもないのだよ。

 私は鈴木の言葉を無視し、財布の中からお金を取り出した。

「これ、お釣り。これで散髪に行きな。ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。大切なのは必要最低限のコーディネートとすっきり感」

 訝しげな鈴木に帰省時の出来事を明かすと、鈴木は大きな溜め息をついた。

「鈴木」と私は語り掛けた。「私たちは私たちで、これからも生きていくんだよ」

「分かっている。それは分かっている」と鈴木は重々しく答えた。

 私も手荷物から水筒とお菓子を取り出して一息ついていると突然、鈴木が鼻で笑った。

「佐度野はさすがだよ。万歳三唱でお見送り」

 突然の逆襲。私はお菓子を摘まむ手を止めて固まった。

「何を急に。どこで聞いたの」

「こちらに来ている高校の同級生の奴から。久し振りに佐度野に会って、ふと思い出した」

 私は呻いて首を傾げた。

 昨年の三月、東京に立とうとする私を見送りに、両親と親戚の叔父さんが自宅の最寄り駅までやって来た。そして突然、叔父さんがにやけ顔で万歳三唱。昔は超有名大学に合格した者をこうやって送り出していたらしいと叔父さんは言った。あなた様は一体何歳であらせられますか。そう思いながらも私は神妙に頭を下げ、到着した電車に逃げ込んだ。

 そんな雑談を続けている内にも選手たちがピッチに戻り、後半戦が始まった。前半戦とは異なり、得点、失点、点取りゲーム。私は手に汗を握り、固唾をのんで試合を見守った。隣の鈴木もしきりに「よし」とか「違う」とか、歓声に紛れて様々な声を上げていた。

 過去への移動。その件を調べるために前回の人生ではかなりの本を読んでみた。でもそこにあったのは、現象論と根源論の違いすら知らない者たちが捻り出した、歴史の改変やタイムパラドックスといった御託ばかり。唯一得られた実践的な現象論と言えば、まずは立場を安定させ、自由と経済力を確保すべしとの教訓だけだった。

 試合が終わり、選手たちがピッチの周囲を巡りながら観客に挨拶を続ける中、電光掲示板に他会場の試合結果が表示された。私は両の拳を握り締め、心の中で「よし」と歓声を上げた。

 スポーツ観戦にも株にも興味の無かった私が前回の人生で必死に暗記した宝のありか。今日はスポーツくじで一等賞が出るはずの日。これで片手の指億円が非課税で手に入る。

 アルバイトも奨学金もこれにて打ち切り。借りた奨学金は一括返済。実家の住宅ローンも肩代わりして一括返済。ああ、夢にまで見たキラキラ大学生活。

 隣からも「よし」と聞こえた。見ると、鈴木はスポーツくじの券を握り締めていた。

「鈴木も買ったの?」

「初めて買った。三等が当たった。佐度野も買ったの?」

「ううん。大学の同級生で買った人がいたから」と私はごまかした。

「賞金はいくらになるかな……。十万円ぐらい行かないかな……」

 その言葉に私は疑問を感じて問い返した。

「賞金の額って、どうやって決まるんだっけ」

「基本は当選者で全部の賞金を山分け」

 私は「あ、ああ……」と落胆して頭を抱えた。見落としていた。理解していなかった。一等賞が出ない日を選ばなければいけなかった。

「佐度野。どうした」

「お腹が空いた。駅前の弥生亭という店が気になってしようがない」

 鈴木は「お、おう……」と小さく頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 明日からゴールデンウィークという日の夕方、一日の講義が終わってスマホを確かめてみると、鈴木からメッセージが届いていた。一緒に夕飯を食べないかと。珍しいと思いつつも、歓楽街の待ち合わせ場所に着いてみると、男子五人、女子四人の集団。鈴木は私に向かって手を振った。

「急に悪い」

 鈴木はそんな風に詫びを入れながら、簡潔に事情を説明し始めた。

 これは合コン。当初は三対三のつもりだったのだが、せっかくだから声を掛けられるだけ掛けてみようということになった。男子五人は鈴木の大学の学生。女子四人は別の女子大の学生。私と鈴木以外は皆、都内の出身とのことだった。

 幹事と思われる男子が先頭に立って歩き始めた。私は最後尾から皆の様子を窺い続けた。鈴木は断髪式をきちんと済ませ、珍しくもジャケットを着て好青年を装っていた。こっそりと尋ねてみると、合コンなんてこれが初めてとの返答。原始人のポリシーをあっさりと捨て去るくらいには気合が入っている様子だった。

 私にとっては、驚きというほどではないけれど、降って湧いた意外な展開ではあった。街中を歩いていて、いかにも下心満載の男たちに声を掛けられたことはある。仕事の繋がりで、紳士まがいのオヤジたちに言い寄られそうになったこともある。でも、心の年齢四十四歳。合コンは初めての経験。これもキラキラ大学生活の一こまに違いない。そんな感慨に浸りながら歩き続けていると、幹事君は程なく居酒屋のチェーン店に入っていった。

 案内された和風の個室には、座卓が三つ着けて並べられ、すでに十人分の箸とお絞りが用意されていた。男子はこちらへ、女子は向かい合う席へ。幹事君のそんな指示に従い、私は一番端に腰を下ろした。

 幹事君はこの種のイベントに慣れているらしく、早速場を取り仕切り始めた。まずは料理の注文、そして各々の自己紹介。女子たちが所属するのはいわゆる名門女子大、伝統のお嬢様大学だった。私も尋ねられ、近所の大学の工学部などと適当に説明すると、皆は一斉にヘエと声を上げた。どうやら女子の理系が珍しい様子だった。

 全員が大学二年生、そして今は四月の最終盤。二十歳以上は幹事君と私ともう一人の女子しかおらず、飲酒は控えることになった。幹事君が女子に「普段はどれぐらい飲むの」と尋ねると、女子は「少し」と笑みを浮かべて科を作った。

 スタイリッシュでフェミニンな着こなし。口調も仕草も笑顔までもが華やかな完璧お洒落女子。先ほどから、鈴木の目はその女子に釘付けになっていた。

 圭太少年。その子の見た目は確かに素敵。でも、のぼせていないで、しっかりと女の言葉を理解しな。少しが少しな訳がない。肯定的に飲むと言うからには、その子はザル。とっくに飲酒に慣れている。だから圭太少年。他の三人にも目を向けな。

 料理が揃い、会食が始まった。それにしても、その他の諸君は何と初々しいのだろう。女子たちは野に咲く一輪の花。男子たちは蛇に睨まれた蛙。これではまるで集団お見合いのデビュー戦。懸命に盛り上げようとする幹事君が空回りするばかりではないか。

 ほら、皆。料理にももっと手を付けな。美味しいものからさりげなくさっさと頂く。それがこういう場でのサバイバル術。もちろん、一人で食べ尽くしてはいけないのだけれどね。

 心の年齢四十四歳。もし、心の年齢二十歳の頃にこんな合コンに参加していたら、私もそんな風に緊張で固まってしまっていたのだろうか。いや。それはもちろん、あの事故が起きていなかったらのこと。あの頃の私は貧乏な独り暮らし。禁欲的であることを自分に強いていた。でも、今の私は隠れ富豪、しかも今度は鈴木がいる。

 この場では、なぜか私は浮いている。男子も女子もそれとなく私を無視。急遽呼び出された飛び入り参加者を扱いかねているのだろうか。そんなことを考えながら、夕飯としてはもう十分と思った頃、お洒落女子が話し掛けてきた。

「佐度野さんは鈴木君の彼女ですか?」

「いや、いや」と私と鈴木は即座に否定した。

「私、驚きました。急にこんなに綺麗な人が来るなんて」

「いや、いや」と私と鈴木が同時に否定した。

 私は鈴木にチラッと目を遣った。あんたまで否定してどうするのか。それよりも良く考えな。このお洒落女子は確かに垢抜け美人。でも、サラッとお世辞を言ってのける子でもある。悪い人間のようには見えないけれど、あんたでは振り回されてしまうだけ。

「でもさ」と幹事君が口を挟んできた。「佐度野さんって、場慣れしているというか、悠然、超然みたいな感じだよね」

 私はウッと呻いた。そういうことですか。皆様が私を避けているのは。声を掛けられたり、言い寄られたりしたことはあっても、男女交際と恋愛の経験は完全皆無。そうこうしている内に、私はいつの間にかオバサン化。ああ、オバサンか。

「い、いやだなあ」と私は若作りな声を上げた。「合コンと言うから、これでも少しはワクワク、ドキドキしているんだけど」

「北国女子って皆、佐度野さんみたいに落ち着いているの?」

 私は鈴木に目を向けた。あんたが目立つチャンスを作ってあげる。

「そういう話はぜひとも鈴木君に訊いて」

 皆の視線が鈴木に集中し、鈴木がおもむろに口を開いた。

「佐度野は俺の知っている佐度野ではないというか……」

 皆の間からエッと小さな声が漏れた。私もギョッとした。

「な、何を言っているのかな。鈴木圭太君」

「この前も言ったけど、佐度野は変わったよな。普通の北国女子とは全然違う。やさぐれちまった哀しみに、鐘が鳴るなり丑の寺」

「何それ」と幹事君が尋ねた。

「俺たちの地元には昔からそういう言い回しがあるんだ」

 何となく場がしらけ始めた。幹事君も気付いたらしく、鈴木に向かって機敏に話し掛けた。

「ところで、鈴木君はこの前までいつも哲学書を読んでいたよな。何か気の利いたカッコいい科白はない?」

 それは違うよ、幹事君。

「ええっと」と鈴木は困惑の様子を見せた。「例えば、奴隷は鏡の中に自己を見るとか……」

 もしかして、それはまさかのヘーゲル君。駄目だ、これは。私は呆れて脱力し、無理やりに話題を変えさせた。

「そんな話ではなくて、私たちの地元のことを話してあげなよ」

 鈴木は「うん」と軽く頷くと、いかにも思い付いたままに脈絡なく様々なことを語り始めた。

 山の中、ちょっと開けた狭間の地。ショッピングモールにアミューズメント施設。公園、牧場、博物館や科学館。街の中心にはショッピング街や飲食店街。何と地下街までも存在する。

「富士山みたいな山があって、立派な桜の木があって、あちこちに温泉があって、空気が綺麗。それが俺たちの地元の取り得かな」

 鈴木がそのように話を締め括ると、お洒落女子がいかにもお洒落女子らしく質問した。

「雪国には美肌美人が多いんですか?」

「良くは知らない。俺たちの地方には、豪雪になる地域とほとんど降らない地域があって、俺たちの所は降らない方だから。ただし、寒くて凍るけどね」

「佐度野さんはほとんどメイクをしていないみたいですけど、やっぱり色白ですよね」

 その指摘に鈴木は私に目を向けてきた。あんたが答えな、と私は仕草で促した。鈴木はウーンと呻いて首を傾げた。どういう意味かな、圭太少年。

「なあ」と鈴木は声を掛けてきた。「真冬の氷点下に厚化粧をすると、バリバリって砕け散るって本当?」

 皆が噴き出したり、鼻で笑ったりした。どこで何を聞いたのかな、圭太少年。いいよ。渾身の冗談に付き合ってあげる。

「そう。下手に付けまつ毛をすると樹氷が出来るしね」

 皆が一斉にヘエと声を上げた。

「いや。冗談を言っただけだから」と鈴木は逃げた。

「いや。樹氷は本当だから」と私は冗談を貫いた。

 皆が再びヘエと声を上げた。

「実際、ファンデーションは割れますよね」とお洒落女子が追随してきた。

 意外な言葉。お洒落女子は私に同調しているのだろうか。それとも、鈴木をサポートしているのだろうか。もしくは両方。いずれにせよ、それなりに気遣いをできる子らしい。

 鈴木がお洒落女子に視線を戻した。

「平均的には皆、色白なのかも知れない。浴びる紫外線の量が少ないらしいから」

 皆がフーンと納得の声を漏らした。

 開始から一時間半くらいが経った頃、合コンはお開きとなった。どうやら、大半はこのあとどこかのカフェへ向かう模様。皆が席を立つ準備を始める中、ふと見ると、鈴木はスマホを手に取り、お洒落女子と電話番号などを教え合っていた。

 おお、チャレンジャー。心の中でそんな声を上げながら、私も腰を上げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 客室に満ちる微かな重低音。窓の外に目を遣ると、巨大な推進機が力強く飛翔を支え続けていた。

 独りで出掛けた三泊四日。今のところ、私に残っているのは疲労だけ。それは充足感を伴う穏やかな倦怠感だった。見るもの、聞くもの、全てが異質。膨大かつ雑多な残像が脳裏を駆け巡るばかりで、何らかの感情が湧き上がる段階には至っていなかった。

 一つだけ確かなのは、鈴木圭太に乗せられてみたのは正解だったということ。夏休みに入って数日後、鈴木が現地から送ってきたあの写真。海辺のリゾートを背景に男女十数人が写っていた。見覚えがあるのは、幹事君とお洒落女子とあと数人。それ以外は見知らぬ顔ばかり。鈴木のメールには、合コンで知り合ったメンバーと来ていると記されていた。

 大学が違えば、学業の日程も異なる。だから佐度野は誘えなかった。そう言われてしまえば仕方が無い。

 ここは故郷とは全く違う。だから佐度野も一度は来てみたら良い。そんな言葉に誘われて、私も夏休みの終盤になって出掛けてみた。

 三回目の人生にして初めて訪れた沖縄。太陽の光と匂いに満ちた海の南国。内陸北国育ちの私にとってはまさに別世界だった。

 定番の史跡めぐり、名所めぐり。記念品や土産物を求めてのショッピング。どこへ行っても、人々が朗らかで穏やかなのが印象的だった。

 さらには、神隠しなどの伝承を尋ねて歩く。皆さん、知らなければ次の人を紹介してくれて、最後に行き着いたのはその地の長老格の御老人。皆様、とても親切、とても親身な方々だった。

 三日目の夕食は、タクシーの運転手に教えてもらった、地元の人たちのための大衆食堂で。そこには地元のオジサマたちやオバサマたちが集っていた。独りで黙々と珍味を摘まみ続ける私の姿は、あの方々の目には相当に辛気臭く映った模様。

 ほう。お姉さんは北国生まれかい。でも、ビールのTシャツを着ているからには、いちゃりばちょーでー、すでに俺たちの仲間だな。ほう。お姉さんは置いてきぼりを食らったのかい。なんくるないさ、真っ当に生きていれば気を揉むことはない。

 あの方々は私にそんな言葉を掛けると、ジョッキを片手に鷹揚に笑い声を上げた。

 そんな様々な出来事の中、今回の旅行のハイライトはどう考えてもパラセーリングだった。モーターボートに乗って海岸線から少し離れ、パラシュートにぶら下がってモーターボートに引っ張られ、私はふわっと宙に舞い上がった。

 これが南国の海、これが南国の空、南国の風。そんな爽快感と興奮が瞬時に湧き上がった。ロープが伸びて、どんどん上昇。最高高度は四十メートルくらいと聞いてはいたけれど、景色の雄大さの方が勝ったのか、それほど高くは感じられず恐怖も覚えなかった。

 飛翔体験は約十分。当初からそのように言い渡されていたけれど、そんな時間はあっという間に過ぎ去って、早くもロープの巻取りが始まった。もっと高く飛びたい。もっと自由に飛んでみたい。モーターボート上の離発着台が迫るにつれて、そんな思いが募っていった。

 今回の旅行で唯一残念だったのは海水浴。ホテルにプライベートビーチがあると聞きつけて、意気込んで持参した私の水着、高校二年生の時に買ったもの。いざ着てみると、至る所が少しずつ窮屈になっていた。結局そんな水着は放り出し、リゾートウェアが咲き乱れる中を、私はTシャツとショートパンツ姿で黙々と泳ぎ回った。

 そんなことを思い返し続けて数時間、アナウンスが静かに流れてきた。もうすぐ羽田に到着すると。燦然と輝く太陽の地への独り旅。私はその終わりを実感した。

 

◇◇◇◇◇

 

 ちょっと立派な和食料理店、弥生亭。落ち着いた雰囲気の店内には四人掛けのテーブルが整然と並び、私の目の前にはビールのグラスと梅酒のミニグラスと懐石料理の一品目。秋のシルバーウィーク、休日の夕方。私は御両親からの厚遇に恐縮していた。

「まずは乾杯といこう」とお父さんは言った。

 前方からお父さんのグラスが近付いてきて、小気味よくカチン。斜め前からお母さんのグラス、そしてカチン。私の隣に座る鈴木のグラスは無為に宙をさまよっていた。

「君も圭太も無事に就職が決まって、本当に良かった」

「朝美さんには色々とお世話になってしまって。これからもよろしくね」

 これはあまりにも明白。御両親は私と鈴木をくっ付けようとしている。私にその気は完全皆無。それでも、せっかく大都会に出てきた御両親のために身なりを整え、立ち居振る舞いにも気を配っているというのに、なぜか鈴木は気だるそうにしていた。

 その生気の欠如は何なのか。少しは私に目を向けて、眩しそうにモジモジとするが良い。デリカシー不在の元原始人。何とこの二年半で合コン百戦全敗。その燦然と輝く黒い歴史を暴露されて優雅に悶えて咽び泣け。

 中々口を開こうとしない鈴木を放置して、私は独りで愛嬌を振りまくことにした。

「いえ、いえ。私の方こそこのような場にお招きいただき……」

 そして私はさりげなく強調した。

「鈴木君とは年に一回か二回、スポーツ観戦に出掛ける程度でしたのに」

「あら、あら」とお母さんは声を上げた。「どんなスポーツを見に行ったの?」

「ええっと」と私は思い起こした。「サッカー、アメフト、ラグビー……」

「あら、あら。色々と見に行ったのね。何だか楽しそう」

「いえ、いえ」と私はさりげなく否定した。

 心の年齢四十六歳。心だけなら、実は私はお母さんと同年代。その後しばらく間、男二人を放置して「あら、あら」、「いえ、いえ」、「うふふふふ」の応酬が繰り返された。

 この和食店の料理は経験済み。味は二年半前から変わりなく、接客も料理人の腕も確かなもの。御両親の顔には満足の表情が浮かんでいた。その後、順調に食事が進み、酒も進み、ほろ酔い気分になってきた頃、私は鈴木家の内情を初めて知った。

 鈴木が通うのは私とは別の大学の法学部。この三年半の間、私は当初、鈴木は法律家を目指しているのだと思っていた。ところがその後、良く聞いてみると、鈴木の専攻は法律ではなく政策。それなら目指すは公務員か政治家辺りだろう。そんな風に単純に考えていたら、最終的に鈴木の就職先はこの近辺に本社を置く大手食品メーカー、職種は営業専業。良く耳にする在り来りな進路ではあるけれど、なぜ率先して営業なの。私は建築士志望だから建築学科なのに。そんな疑問を私はこれまで漠然と抱いていた。

 ところが今日の話によれば、鈴木のお父さんは中規模な会社の創業者かつ社長。鈴木商会株式会社の業務内容は、地元の様々な製品や商品を全国に売って回る卸売業、および海外にも送り届ける貿易業。つまり、お父さんは超やり手の営業マン。鈴木と鈴木の弟はその跡を継ぐよう期待されている。ただしその前に、まずは他社の飯を食って武者修行。それが鈴木に下された指令のようだった。

 美味しい食事も最後の水菓子となった頃、私は突然鈴木家の内実の意味を理解した。鈴木にあちらに戻られては困るのだ。鈴木には私の目と手の届く範囲にいてもらわなければ困るのだ。八年後、あの水溜りが出現したら、一緒に過去へ行ってもらうのだから。

 会食が済んで料理店を出てみると、そこは大都会の休日の夜。それほど遅くない時刻とあって、街は人出で賑わっていた。そんな人込みをすり抜けて、私と鈴木は御両親をホテルへ送り届け、いよいよ解散の頃合いとなった。しかし、私は鈴木を引き留めた。

 ホテルの一階、喫茶コーナーで私と鈴木の二人だけで御対面。私の手元にも鈴木の前にもホットコーヒー。私はフレッシュを投入して大都会のカフェラテを演出し、それとなく鈴木の将来の件を切り出した。

「鈴木はお父さんの跡を継ぐの?」

「そのつもり」と鈴木は軽く頷いた。「親父の会社は良い会社だと思うし。県や市も産業支援事業をしているけど、やっぱり限界があって、痒い所に手が届かないんだ。俺としては、将来実際に社長になるのは弟でも構わないんだけど、その時には俺は日本や世界を駆け回る。その方が面白そうだろう?」

「武者修行は十年くらいという話だったけれど、『くらい』って正確にはどれくらい?」

「知らない」と鈴木は軽く首を振った。「正確に十年かも知れないし、切りの良い年齢なら三十歳で八年だろうし。佐度野は興味があるの?」

 私が「ちょっとね」と答えると、鈴木は辛気臭い笑みを浮かべて鼻で笑った。

「なら、俺たち結婚する?」

「やだ」

 鈴木は再び鼻で笑った。

「親父は佐度野のことをとても気に入っている。四年前、佐度野の実家に行った時から。でも、お袋は半々かな。佐度野はいわゆる学歴が俺よりもずっと上だし、キャリア志向があるし、本当に建築の仕事を辞めてうちの会社を手伝ってくれるのだろうかって。それに佐度野は綺麗だし、とてもしっかりしているし、俺では釣り合わないんじゃないかって」

 鈴木は言葉を切って、コーヒーを一口すすった。

「こんなことを言うと、また佐度野に叱られそうだけど……」

「美味しい食事を御馳走になったし、今日は御両親に免じて叱らない」

 鈴木はコーヒーカップをソーサーに戻し、俯き加減になった。

「こういう食事会にしても、スポーツ観戦にしても、山田と逸美が生きていたらもっと楽しかったんだろうなって……。あいつらもこちらの大学に入りたがっていただろう」

 私は言葉に詰まった。

「特に、陀打団田本舗は親父の会社と提携しているから、逸美のことは中学生の頃から知っていたし……。それがあんなことになるなんて、人生って分からないよな……」

 私は溜め息をついた。言われてみればそうだった。私といっちゃん。いっちゃんと鈴木。鈴木と山田君。その三つの繋がりで私たちの関係は始まった。

「そんなことを思い出してしまってさ」

 鈴木の独白は終わったようだった。ちょっと沈んでしまった気分を変えるために、私は敢えて鈴木をからかってみた。

「合コン百戦全敗はその反動?」

 鈴木は半笑いを浮かべた。

「百じゃないよ。十ぐらいだよ。合コン自体がそんなにある訳ではないし。いつまでも昔のことに囚われていてはいけないと思っただけ。でもやっぱり、親父やお袋の言う通りだった」

 私は呆気にとられた。

「合コンのこと、御両親も知っているの?」

「知っている。やっぱり気になるんだろう。都会の子は難しいから」

 その言葉に触発されてふと思い出し、私はアアと哀愁の声を漏らしてしまった。

 私の親戚の万歳三唱叔父さん。叔父さんは大都会の大学に入り、都会育ちの女性と知り合って結婚し、故郷へ戻ってきた。でも、私が高校二年生の時、奥さんは子供を連れて大都会へ逃げ出し、五年近くにわたって別居を続けた後、つい二か月前に離婚した。

「合コンで知り合った子たちとは今はどうなっているの?」

「全員、知り合い以上、友達未満。数人とは今でもたまに顔を合わせる機会はあるけど。恋の熱中症とか、君と二人のモーニング・スターとか、そんなことを平然と口にするような連中には敵わない」

 何とも寂しい話。やはり、鈴木は北国男子。その上、昔の想いを吹っ切れない。だから、新しく知り合っても上手く行かない。

「少女漫画と現実世界は全く別。物言えば唇寒し秋田犬。寒い科白は口にしないのが正解」と私は慰めた。

「なあ。少女漫画に出てくるイケメンって、酢飯ではなくて傷んだ飯のような感じがするんだけど」

「鈴木圭太君。乙女の夢を壊しては駄目。その手の話は封印しておきな」

 鈴木は皮肉っぽく笑った。

「それにしても……、どうしてあんな事故が起きたんだろうな……」

 鈴木はそんな風に吐き捨てるように呟き、そこで夜のお茶会は終了となった。

 帰りの足は、鈴木は電車、私はタクシー。私は自宅の賃貸マンションへ向かう車中、光と闇が混在する街並みを眺めながら、独り黙々と思い出し、独り黙々と考え続けた。

 時を遡って全てを一からやり直せると知ったら、鈴木は必ず手伝ってくれる。でも間違いなく、明かすのは今ではない。

 過去への移動。経験しなければ決して理解できない。特に、自身の行為が事態の推移に影響を与えることなど、繰り返してみなければ理解のしようが無い。

 建築士としての私が影響を及ぼし得る範囲は、巨大社会の一部、巨大都市の一角に限られている。わずかな暗記を頼りに株の売買で手に入れた現金も数十億円程度。巨大金融市場の中では雀の涙にもならない額。誰にも気付かれないよう、仕事で稼げるようになるまでは跡を残さずに小出しに使っていくだけ。

 一方の鈴木。鈴木がこの大都会で何をしようと大した問題になるとは思えない。でも、深い理解が無いままに迂闊に故郷のあの街に影響を与えたら、過去への移動が出来なくなってしまうかも知れない。それだけは絶対に回避しなければならない。

 哀しい子。いや、青年。いや、元原始人の営業マン。少し待ちな。私が何とかする。その時にはあんたも手伝うんだよ。

 

◇◇◇◇◇

 

「大賞。佐度野朝美殿。貴殿は第四十八回……」

 審査委員長が賞状を差し出す。フラッシュライトが瞬く。私が恭しく受け取る。フラッシュライトの瞬き。表彰式はつつがなく終了し、壇上に受賞者たちと主催者代表と審査委員の面々が整列する。フラッシュ、フラッシュ、怒涛のフラッシュ。

 会場内には、コンクールの関係者、業界の関係者、業界誌や経済誌の取材陣。時折視界に入る所長と奥様の姿。私は命じられるまでもなく、客寄せパンダを演じ続けていた。

 受賞者ごとにインタビューと写真撮影。前回の人生とは異なり、私は大賞受賞者として延々と記者とカメラマンに囲まれていた。

「佐度野さん。緻密かつ独創的、しかも現実的な作品との評価でしたが、御自身ではどのように考えておられますか」

「まだまだです。他の方々の偉大な作品に触発されて、そこに私ならこうするなどと手を加え続けると、いずれオリジナルとは全く異なる私なりの作品が出来上がる。そういうことを繰り返していく内に、建築物以外のデザインや物の形にも触発されるようになってくる。今はそういう段階だと自分では思っています」

「多くの人もそういうことはやっていると思うのですが」

「イメージの分解と統合。調整と調和。そういう所に差が出ているのではないでしょうか」

 インタビュアーがホウと感嘆の声を漏らした。

「先ほど、審査委員のお一人が、総工費もおそらく現実的な範囲に収まるだろうとおっしゃっていたのですが、もし実現しようという発注者が現れたら佐度野さんとしては」

「光栄です。ぜひとも」

 カメラマンから声が飛んできた。

「佐度野さん。今度は少しポーズを」

 その声に応えて、軽く微笑みながら髪に手をやってみたり、クールな表情で両腕を組んでみたり、営業スマイルで腰に手を当ててみたり。

「いいですね。次はもっと女性らしさとプライベート感を前面に……」

 突然、私の隣から「皆さん」と声が響いた。いつの間にか所長が立っていた。

「本日は誠にありがとうございました。当事務所の佐度野が大賞を頂くことになるとは、代表の私としましても望外の喜び……」

 私はスーツの袖を軽く引っ張られた。見ると奥様。奥様は私を人の輪の外へ連れ出すと、私の耳元で囁いてきた。

「あなた。若いのに良い度胸をしているわね。あなたがこういう人だとは思わなかった」

 私は緊張した。やり過ぎて心証を悪くしてしまったのだろうか。

「朝美さん。素敵よ」

 奥様は笑みをこぼした。

 

◇◇◇◇◇

 

 大賞受賞者、二十四歳、女、独身、彼氏無し、そして美人。そんな触れ込みに釣られて、設計事務所には仕事の依頼や取材の申し込みが頻繁に舞い込むようになった。所長はまるで希少価値を高めるかのように、私を短時間だけクライアントとの面会に同席させ、名残惜しさを感じそうな頃合いに私を退出させた。

 外回り、デスクワーク。そんな仕事風景の写真を撮られ続けていく内に、遂には写真集の依頼が舞い込んだ。私服姿の中に数枚でも良いので水着姿なども。さすがにその依頼には奥様が如才なく割って入り、話は流れてしまった。

 さらには、テレビへのコメンテーターとしての出演依頼。奥様は陰から私に強く警告してきた。それはやめておきなさい。衆目に曝されて翻弄されて、下品に醜く消費されるインスタントアイドルで終わってしまうだけだからと。

 

◇◇◇◇◇

 

 高層ビルの最上階に近い高級料理店。簡易な壁で仕切られた部屋には大きな窓。その先には、夜のとばりに抗うかのように、光の瞬きが眼下のはるか彼方までを埋め尽くしていた。

 一品、一品、また一品。私の目の前に丁重に置かれていくのは、ルと定冠詞と付けて呼ぶにふさわしい豪華なフレンチディナー。こんな世界があるのか。生まれてきて良かった。そんな感慨に私は浸っていた。

 テーブルを挟んだ向かいの席には所長と奥様。奥様は黙してほとんど語らず、私と所長の二人で言葉を交わし続けた。話題の中心は先日のプロジェクト、設計コンペティションが大々的に実施されるような大規模案件。私たちのような規模の設計事務所にとっては、参戦して負ければ、費やした時間と労力が無視しえない損失になる。

「佐度野。良く頑張ってくれた」と所長は労ってくれた。

「いえ。チーム全員の勝利です」と私は強調した。

 その後、所長の話は設計事務所の将来へと移っていった。所長は現在還暦手前。その関心事は後継者。所長のお子さんたちは全員、建築とは異なる道へ進んだ模様。結局、所員の中から順番に代表を選んでいくことに決めたとのことだった。

 コースの最後の一品、華やかかつ爽やかなシャーベットを堪能し、お開きの頃合いとなった。今夜は他の所員たちが帯同している訳でもなし、二次会という話にはならないだろう。そんなことを考えていると、「私はこれで」と所長は独りで去って行った。

 残されたのは私と奥様、水とワインのグラス、白ワインのボトル。私は呆気にとられて、奥様に視線で伺いを立てた。もう少し飲むかと奥様に尋ねられた。遠慮した。

「朝美さん」と奥様はおもむろに切り出した。「先ほどの話だけれど、うちの事務所を辞めて、独立しても良いのよ」

 私は困惑した。

「所長の話とは随分違いますが、奥様がそういう話をするとあとで問題に……」

「うちの事務所が株式会社なのは知っているわね。彼は所長や代表を名乗っているけれど、正式には社長。私は会長」

 私は驚きを内心に抑え込んだ。いつの間に会長になったのだろう。事態の推移が変わってしまった。奥様は大株主の一人であり社外取締役だったはず。一級建築士として独自に個人事務所を構え、インテリアデザインや空間デザインの仕事を適度に請け負っていたはずなのに。

「私がこの話をしていることは彼も承知している。彼はあなたを次の次辺りの代表にと言ったけれど、独立して個人事務所を構えても良い。互いを助け合う緊密な協力関係を維持できればそれで良いのだから」

 奥様は私よりも酒に強いのか、平然とワインを飲み始めた。

「あなたには営業の仕方も教えているわよね。トラブルを回避しながら仕事を取る、まともで実践的な方法を」

「はい」と私は神妙に頷いた。「いつも勉強になります。心の機微まで考えよとか」

「先ほど、彼はそれを超えて、権謀術数を身に着けろと言ったわよね」

「陥れるためではなく、陥れられないようにするためと」

「良くも悪しくもそれが世の実態。でも私には、朝美さんがそれをやり抜けるかどうか確信を持てないの。それに、あなたは二十六歳でしょう。女として最も良い年頃よね。そんな時に仕事に浸かり切っていてはいけないと私は思うの」

 私はそっと息を吐いて感嘆した。奥様は私の人生を考えてくださっている。

 私は今日ここまでの話を半分真剣に聞き、半分適当に聞き流していた。四年後、あの水溜りが現れたら、私は時を遡る。でも、現れない可能性もあるのだから。

 そんなことを考えた瞬間、脳裏にふと「あっちゃん。これ美味しいね」という声が浮かんだ。

「朝美さん。男性とのお付き合いの経験は?」

 私は首を横に振った。心の年齢五十歳。完全空疎な男性遍歴。

「彼氏を作る気は無いの? 結婚は?」

「そういうことも考えない訳ではないのですが、機会が無くて……」

 奥様はワインをぐいっと煽った。

「もしかしたら、あなたは分かっていないのかしら。今は女が男に声を掛けなければいけない時代なのよ。近寄ってくるのは、近寄ってきてほしくない男ばかり。それ以外の男たちは、女に声を掛けるのはコンプライアンス違反とか、情けない御託を並べるばかりなのでしょう? 良し悪しの訳が分からない時代になったものよね」

 私は思わず呻いてしまった。思い当たる節は大いにあった。

「せっかく女として生まれてきたのに、女であることを楽しみ尽くさなかったら、もったいないと思わない? もちろん、それは男も同じよ。ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。話としては単純でしょう」

 私は「はい」と頷いた。一般論としては納得できる考え方。

「仕事もプライベートも、知的なことも性的なことも全てやり尽くすのよ」

 突然の露骨な言葉に、私は「せ、せい?」とうろたえた。

「性のことを抜きで結婚を考えているの?」

「で、でも、やり尽くすと言っても、尽くすの意味が……」

「遊びとしての性も、子作りとしての性も、全部やり尽くすの」

「あ、遊びとしての性と言われても限度が……」

「私は仕事を成功させた。それ以外のことも十二分に楽しんできた。性についても遊びだけでなく、子供を四人産んできちんと育てた」

 この人は危ないのではないだろうか。もしかして、これが上流社会の闇。まさか、四人の父親は全員別々とか。

「朝美さん。勘違いをしないでね。私のパートナーはずっと彼だけ。彼のパートナーはずっと私だけ。私にも彼にも、人の道を踏み外して人生を台無しにする気は全く無いの」

 その断言に私は安堵した。

「お、奥様。私にもワインを」

 奥様はボトルを手に取り、私のグラスに並々と注いだ。私は一口ごくりと飲んだ。

「あなたなら、やり尽くせる範囲はもっと広いはず。それだけに、見ていて歯がゆいの」

「せ、性を楽しみ尽くすとは、例えばセッ、セッ、セック……」

「例えば」と奥様は笑みをこぼした。「あなたはバニースーツとか、女王様のボンデージとか興味ある?」

「バ、バで、セッ、セッ……」

「バニーはかしずく側。女王様はかしずかれる側。どちらが好み?」

「エ、エスとか、エ、エムとかの話ですか?」

「全てを正直に答えなさい」

 達人の世界。超人の世界。超越しすぎ。概要くらいなら聞いたことはあるけれど、心の年齢五十歳、完全無欠の彼氏無し。実践面は夢のまた夢、私にとっては妄想の彼方。

「もっと飲む? 心の枷を外して、欲望のままに答えなさい」

「い、いえ。そこまでの欲望は……」

「良く言うわね。水着写真の話には興味津々だったくせに」

「水着モデル程度なら特に珍しくはないと思うのですが……」

「水着やランジェリーは初歩中の初歩」

「興味が無い訳ではありませんけれど、奥様は所長と二人でそういうことも……」

「そう」と奥様は力強く頷いた。「私と彼だけの遊び。面白そうと思ったら、ためらわずに何でもやってみる。エンジョイ・ライフ。エンジョイ・プレイ」

 あの所長とこの奥様が。私はワインを一気に煽った。すかさず、グラスは再びワインで満たされた。

「お子さんたちにもこのような話を」

「子供たちには一般的な話だけ。私と彼の遊びは私と彼だけのもの。子供たちに特に見せたことはない」

「お子さんたちは独立して家を出て、今は奥様と所長のお二人だけですよね。奥様は今でもバニーとか女王様とか……」

「最近はあまりしていないけれど、あとは貴婦人風とか田舎娘風とかメイド風とか」

「と、と言うことは、奥様がバニーなら所長は……」

「ヘラクレスよ」

 私はグラスをテーブルに置き、口元を手で抑えた。

「どう? 楽しいと思わない?」

 バニーガールのコスチューム。奥様の頭には魅惑のうさ耳。ヘラクレスオオカブトの被り物。所長の頭にはそそり立つ角。何をどのように楽しむのだろう。まさか二人で盆踊り。違う。社交ダンス。バニーとヘラクレスのワルツ。

「し、所長も良くもそんなことを……」

「私が育てたの」

 私は盛大に呻いた。

「彼は高校の後輩で私の一つ下」

 私は頭を抱えそうになった。

「私と彼はパートナー。彼は世の実態のかなりの部分を引き受けてくれている。だからその代わりに、私は私の人生のかなりの部分を彼に捧げて彼を支えている。私はそれで良いと思っている。思想は自由。誰がどう思おうと関係ない」

 私はその力強い言葉に大きく息を吐いた。

「奥様は良くそういう相手を見付けましたね」

「優しくて優秀で力強くて真面目で誠実なむっつりスケベ。彼はそういう人。独りでは人生を楽しみ尽くせないのよ。あなたもそういうパートナーを探しなさい。何なら私が探してあげましょうか」

 私の脳裏にふと山田君の後ろ姿が浮かんだ。

「ねえ。初恋の相手同士でそんな風に生涯を楽しく過ごせたら、最高に素敵だと思わない? お付き合いの経験が無いのなら、あなたにはまさにその可能性があるのよ」

「奥様と所長は……」

「最高に素敵」

 私は眼前のテーブルの上にゆっくりと両手を置いた。

「奥様。師匠と呼ばせてください」

 私は全面降伏して深々と頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 鈴木のお母さんから電話が掛かってきた。圭太の様子を見てきてほしいと。直接の面会にせよ電話での会話にせよ、お母さんと言葉を交わすのは約七年振り。就職先決定のお祝い以来のことだった。つまり、お母さんの依頼は深刻。仕方が無いと私は引き受けた。

 鈴木ごときに気張る必要は無いとカジュアルに装いを整え、エレベーターで一階に降りてマンションのエントランスから外へ出てみると、鉛色の空と冷たい風。私は一月下旬の寒気に身震いし、コートの襟を立ててタクシーに乗り込んだ。

 日曜日の午後。お母さんから聞いた通りの住所にたどり着いてみると、そこは三階建ての賃貸マンション。以前に鈴木自身からも聞いてはいたけれど、私が二回目の人生で住処としていたような、可もなく不可もない単身者向けの高機能住宅だった。

 二階の一室。開いた扉の向こうには、ちょっと憂鬱そうな鈴木の姿があった。「入れよ」との声に誘われて、私は鈴木の住処に初めて足を踏み入れた。

 パンプスを脱ぎながら辺りを確かめてみると、玄関から真っ直ぐに伸びる短い廊下、右側はトイレ、左側は洗面所と浴室の模様。廊下の先にはおそらくキッチンとリビングがあるのだろう。そんな在り来りな間取りが目に入った。

 リビングに入ってみると、室内は想像していたよりも小綺麗に片付いていた。その左側には付け足しのようなちょっと狭い部屋。全体の床面積は当初の予想よりも幾分大きい模様。そう思った次の瞬間、私は仰天して後ずさり、廊下の壁に背中をぶつけた。

「何、それ!」

 付け足しの部屋の片隅に女子高生が立っていた。

「マネキンだよ」と鈴木は辛気臭く答えた。

「変なことをしたら、警察に電話するからね」と私は警告した。

「変なことはしないよ。絶対に」

 鈴木は壁にへばりつく私を無視し、キッチンでお湯を沸かし始めた。

「マネキンと制服、どうやって手に入れたの」

「マネキンは普通に通販で売っている。制服はオークション」

「それ、私たちの高校の制服でしょう。制服を売るような女子があの高校にいるの?」

「いるから、ここにある。現実を直視した方が良いな」

 何だか偉そうな口調。鈴木は原始人から安物サラリーマンに進化して、変態制服評論家に堕ちていた。

 狭い部屋に足を踏み入れてマネキンを確かめてみると、制服は綺麗にクリーニングされ、その下には新品のワイシャツ、首元にはリボン。ご丁寧にも頭にはカツラ、マネキンは白いソックスまでも履いていた。

「ねえ。知っている?」と私は鈴木に問い掛けた。「深淵を覗く者は深淵の怪獣になってしまうとか何とか」

「何の深淵だよ。コーヒーが入ったぞ。コートを脱いでそこのハンガーに掛けて、とにかく座れよ」

 私がコートを脱ぐと、鈴木がヘエと声を漏らした。

「変なことをしたら蹴とばすからね。元陸上部を舐めてはいけないよ」と私は牽制した。

「違うよ。それ、カシミアのマフラー?」

「パシュミナの冬ストール」

 私はコートとストールをハンガーに掛け、キッチンにあった椅子をリビングの入り口付近に持ち出した。リビングの床にはカーペット。その中央にはこたつ。鈴木はカーペットの上の座布団に腰を下ろして胡坐をかいた。

 渡されたコーヒーカップから、上品な香りが立ち上ってきた。一口含んでみると繊細な苦みと酸味。さすが大手食品メーカー勤務だけあって、コーヒーだけは鈴木は私よりもかなり上等な物を飲んでいる様子だった。

「俺のうちに来るのは初めてだよな」

「電話では言わなかったけれど、お母さんに様子見を頼まれた。この前の正月は帰省しなかったんだって?」

 鈴木はコーヒーをすすった。

「会社にはちゃんと行っているの?」

「そういうことはちゃんとやっている」

「鈴木と最後に会ったのは、去年の秋のラグビー観戦だよね。そのあと何かあったの?」

 鈴木は黙ってコーヒーをすすり続けた。私もコーヒーを飲みながら返事を待った。二口、三口の後、鈴木はこたつの上に置かれたメタリックシルバーのノートパソコンを軽く押しやり、コーヒーカップを置いた。

「少し前に親父に言われたんだ。三十歳の年度末にうちの会社に来いって。でも俺、あちらには帰りたくないんだ。たまにならいいんだけど、ずっとはな」

「つまり、あと一年ちょっとか……。東京の方が良いということ?」

「違う。多分、トラウマになっているんだと思う。あの交差点が」

 私はすぐに遮った。

「分かった。もう言わなくていい。私が御両親に伝えてあげる」

 鈴木は安堵したように大きく息を吐いた。

「一度、カウンセリングを受けてみたら? 合コン三昧だった頃の方がよほど健全だった」

「そうだな……。その自覚はある……」

「それから、マネキンは何とかしな。それはかなり半端」

「半端……」と鈴木は訝しげに復唱した。

「言い間違えた。それはかなりの変態」と私はすぐに訂正した。

 鈴木はマネキンに目を遣り、皮肉っぽくフフンと鼻で笑った。

「ルサンチマンのルネサンス。俺は変態の概念を超越する実存でありたい」

「そんな素敵な言葉遊び、どこで覚えたの」と私は呆れた。

「ちょっと思い付いただけ。佐度野が深淵とか言うから」

「それは忘れて」

「マネキンは俺なりの供養なんだ。毎日、俺はあれを見て逸美を偲ぶ。山田はマネキンが好きだった」

 山田君とマネキン。かなり以前に聞いた覚えがあった。確か、放課後の教室で鈴木がそんな言葉を口にしていた。

「でもマネキンでは、どうしても逸美っぽくならないんだ」

「それは……。だって、体型が違うから」

「俺、高校生の頃に想像したことがあるんだ。俺の隣にはいつも逸美がいて……」

「鈴木もいっちゃんのことが好きだったの?」

「まあね……。でもまさか、何で山田が告白するんだよ……」

 私は呆れた。

 放課後の教室。鈴木は巨乳を連呼していた。要するに、照れ隠しでわざと下卑ていたのだ。そして、突然先を越されて、ショックのあまりに意味不明な雄叫び。

 月曜朝の交差点。鈴木はあの二人にへばりついていた。要するに、二人の様子が気になって仕方が無かったのだ。そして、事故に巻き込まれて、二人と一緒に二度も即死。

 どうしようもない男。でも、高校生くらいでは仕方が無かったのかも知れない。いや。やはり小学生並の行動様式。

「ねえ。どうして、いっちゃんはあんなに男子たちに人気があったの? 可愛かったのは分かるけれど、どこがそんなに良かったの? 例えば、胸の大きな子は他にもいたでしょう」

 鈴木はフフンと鼻で笑った。

「やっぱり、女に男の感覚は理解できないんだな」

 私もフフンと鼻で自嘲した。

「佐度野。ちょっとマネキンの隣に立って、同じポーズを取ってみな」

 理由を尋ねると、「とにかく」と鈴木は言った。

「佐度野のスマホで写真を撮ってやる」

 意味不明とは思いつつも私がマネキンに並ぶと、鈴木は部屋中の明かりをつけて照明を整えた。鈴木がスマホを構えた。私もポーズ。鈴木は数回撮影した。

 返されたスマホを私が確かめていると、鈴木は座布団の席に戻り、「だよな」と言った。

「マネキンってスタイルが良くて、何を着せても全部似合うだろう。佐度野はまさにマネキンだよな」

「マネキンってそういう意味?」

「ただのハンガーみたいなガリガリのモデルと違って、佐度野にはちゃんと胸もあるし、くびれもあるし、尻だって……」

「その物言いはかなりセクハラくさい」

「ただの客観的な分析。批判ではなく称賛」

「変なことをしたら、大声を出すからね」と私は予告した。

 鈴木は「知っているか?」と言いながら、ノートパソコンをしばらく操作して文書ファイルを開いた。

「これ、山田が書いた短編小説」

 勧められるままにちょっと覗いてみると、地方の高校生の心情が冒頭から全力で書き記されていた。

「あいつ、急にその気になって、一気に書き上げたんだって」

 私は山田君の未知の一面にヘエと声を漏らした。意外だった。山田君にこんな繊細さがあったなんて。

「タイトルは……、鏡の中の未来……。どんな話?」

「鏡を眺めながら、あの時ああしておけば良かったと物思いに耽る話」

「結末は?」

「自分で読めよ。あとでメールに添付して送ってやる」

 私は軽く頷いて了承した。

「山田は元々は佐度野のことが好きだったんだ。でも、手が届かないというか、高嶺の花というか……。学校の男たちは皆、そんな風に思っていたんだ」

 私は溜め息をついた。手の届かない女。何と魅惑的な響きだろう。

 彼氏いない歴イコール心の年齢五十三歳。体の年齢二十代の私にあの手この手で言い寄る気配を見せるのは紳士まがいのオヤジばかり。体の年齢同年配には完全無欠の鉄壁女子。もし、高校生の時に山田君に告白されていたら、おそらく私は受け入れていた。

 そんな認識と思考は完璧に払拭しなければならない。師匠の教え。選ばれる女ではなく、選ぶ女であれ。高慢な獲物ではなく、高潔な狩人であれ。つまり、脇目などは決して振らずに、私が山田君に狙いを定め、私が山田君を高潔に狩るべきだったのだ。

「でも、逸美は佐度野とは違った。逸美は可愛いんだけど、どことなく地味な所があって、その上、今になって思えばセックスアピールがあったんだ。自分のものにして、自分の子供を産ませたい。そういう衝動や欲求を感じさせる女って確かにいるんだよ」

 男が感じる女のセックスアピール。初めて耳にする言葉だった。でも、何となく分かるような気がした。

「でも、その言い方は傲慢でしょう。せめて、子供を産んでいただくとか言えないの?」

「何言ってんだよ。その種のことは女にもあるだろう。初対面で運命を感じた。この人と結婚してこの人の子供を産むことになると直感した。女のそういう話、俺は聞いたことがあるぞ。佐度野の理屈だと、その場合は子供を産ませていただくになる」

 私は呻き声を漏らしてしまった。一気に出産までも意識させる一目ぼれ。確かに私も聞いたことはある。

 そう言えば以前、鈴木は山田君ともこんな赤裸々で率直な会話を交わしていた。やはり、人の本質は何歳になっても変わらない。私も他人のことは言えないけれど。

「鈴木圭太君。その手の露骨な話は封印しておきな」

「親父の仕事の繋がりで、逸美とは中学時代に何度か会ったことがあるんだけど、その頃の逸美は真っ平らだったのに、高校に入ってみたらあの巨乳だろう。俺は心底驚いた。女の成長は本当に凄いって」

 私は憐憫の溜め息をついて首を振った。

「なあ。何で女はお洒落をするんだ。それもある種のセックスアピールだろう」

 私は再び溜め息をついた。男の誤解。ありふれた問い。

 上品で上等なスーツ。高級なインナー。ちょっとセクシーなランジェリー。男に見せるためのものではない。男に媚びるためのものでもない。

「自分に気合を入れるため。自分の心に活力を与えるため。全ては自分自身のためのもの」

「外見を取り繕うって、本質的にはそういうものではないだろう」

「分かってないな」と私は首を振った。「それなら、なぜ鈴木は大学一年生の時に長髪になったの」

「パシュミナのマフラーって高いんだろう? やっぱり佐度野はリッチだよな」

「そんなことはないよ」

「おまけに、出た大学とか仕事のキャリアとか、ますます高嶺のお花畑」

「そんなことはない」

「要するに、お前のことは俺が守るとか言われた経験、佐度野には無いだろう」

 突然の反撃に、私はわずかにたじろいだ。

「な、何が要するに。それは余計なお世話」

「なら、俺たち結婚する?」

「やだ」

 私はコートとストールを手に取り、「御両親への説明は任せておきな」と声を掛けて、鈴木の魔窟を後にした。

 

◇◇◇◇◇

 

 鏡の中の未来

 

 時折、何かのはずみに思い出す。もし邂逅していなければ。もし離別していなければ。それは重く伸し掛かるような後悔ではなく、深く沈み込むような哀愁でもない。ふと浮かび、ふと沈んでいくような想いのかけら。

 もし別の道を歩んでいたとしても、おそらく僕の人生に大きな違いはなかっただろう。その中でただ一つ、もしかしたらと思わせる分かれ道があった。高校卒業、大学進学。僕たちは無限の可能性という幻想に酔っていた。

 世界には夢と絆と真実がある。約束の未来は夢想の一つ。永遠の意義と刹那の価値。そして、僕たちの繋がりは失われた。

 

◇◇◇◇◇

 

 過去への移動の日まであと一か月。でも、十三回忌の墓参りと同窓会の連絡は届かなかった。実家の母に問い合わせてみても、そのような話は聞いていないとのこと。

 ラグビー部の副部長だった鈴木に人望があったのだろうか。その鈴木は現在、大都会の片隅でマネキン女子高生と何とか無事に生息している。だから、誰も墓参りの件を思い付かなかったのかも知れない。いずれにせよ、どうやら事態の推移が変わってしまった模様だった。

 もうすぐ梅雨明けという土曜日の午後、私は鈴木を呼び出した。大都会のど真ん中、南北に細長い広場、それを取り囲むように点在する動物園や博物館や美術館。広々とした公園のベンチに座って景色を眺めていると、ようやく向こうの方から鈴木がやって来た。鈴木は私の隣に腰を下ろすと、いかにも営業マンらしい乗りで「まいど」と似非大阪弁を華麗に披露した。

「話したいことって何」

「単刀直入に訊くけれど、鈴木はいっちゃんといっちゃんのおっぱい、どっちが好きだったの?」

「急に何の呼び出しかと思ったら」

「私は真剣に訊いているの」

 わずかに間が空き、「何の話だよ」と鈴木は低い声で言った。

「いっちゃんのことが好きだったのは巨乳だったから?」

 鈴木が周囲を見回した。

「こういう場所でする話か?」

 私も見回してみると、通り過ぎてゆく人々の耳に会話が届いている気配は無かった。

「そうか」と鈴木は勝手に納得した。「佐度野は自分が巨乳じゃないことを気にしていたのか。俺としては大きい方が好みだけど、小さいなら小さいなりに趣がある」

 その見当違いの言い回しに私は苛立った。

「その言葉、確かに聞いたからね。ついでに訂正しておくけれど、私は小さくはないし、源寄上だけだから」

「みなもとのよせあげ……。何それ」

 私は脱力して溜め息をついた。

「うちの業界の一部の男たちの隠語。忘れて」

 鈴木はフーンと訝しげに鼻を鳴らした。

「半年前、今年の一月、佐度野が親に話してくれて助かったよ。親と話し合って、しばらく前にクリニックで何度かカウンセリングを受けたんだ。俺は大丈夫だ」

 妙な方向に話が進み始めた。時を遡る件を明かそうと思っていたのに。

「俺たち、今年で三十だろう。俺もそろそろ前向きにならないとな。俺たち結婚する?」

「やだ」

「それなら、俺は次に帰省したら見合いだな」

 余裕と虚勢は似て非なるもの。そう思って私は鼻で笑った。私たちのすぐそばを鳩がヨチヨチ歩きで通り過ぎた。私は溜め息をついて考え込んだ。

 なぜ、三人は注意散漫なままに車道に踏み出したのか。それは、いっちゃんと山田君が付き合い始めて浮かれ気分になっていたから。鈴木もそれに釣られてしまったから。

 鈴木はいっちゃんのことが好きだった。山田君は私のことが気になっていた。あの当時、いっちゃんに特定の意中の人はいなかったはず。それなら、山田君のいっちゃんへの告白を阻止すれば事故を回避できる。

 鈴木は山田君から告白の件を打ち明けられた。だから、いっちゃんのことが好きだったのに引き下がった。それなら、山田君がいっちゃんに告白する前に、私が山田君に告白して成功させる。山田君の告白前であれば、山田君といっちゃんの関係は存在せず、二人の関係を壊すことにはならない。鈴木は私の告白を手伝うだろう。

 一回目の過去への移動は事故の直前へ。二回目の過去への移動は事故の二週間前へ。それなら次回はもっと前へ。今度こそ時間は十二分にある。

「ねえ」と私は声を掛けた。「もし高三の春辺りに戻れたら、鈴木はどうする?」

「どうするも何も」と鈴木の声音が低くなった。

「今から話すことは絶対に秘密。信じられなくても、必ず最後まで聞くこと。いい?」

「何を勿体ぶって」

「十二年前の予知夢のことを覚えている? あれは予知でも夢でもない。私は事実として知っていたの」

 鈴木が黙り込んだ。見ると、鈴木は口を半開きにして固まっていた。私はベンチから腰を上げた。

「その辺りで飲み物でも買って、もっと人の少ない所へ行こう。そこで話す」

 梅雨明けの宣言が無いだけで、実質的には明けているのではないだろうか。そんなことを思わせる雲半分の晴れた空。散策を楽しむ人たちの間を抜けて手近な売店で飲み物を買い、私たちは道を外れて閑散とした立木の傍らで立ち止まった。

 私はいかにも木を観察する風を装い、飲み物を一口含み、声を潜めた。

 一回目の人生。死亡者四名の事故。三十歳の夏に水溜りに遭遇して過去へ移動。

 二回目の人生。事故の直前から開始。なすすべもなく死亡者四名の事故。三十歳の夏に水溜りに遭遇して過去へ移動。

 三回目の人生、つまり今回。事故の二週間前から開始。鈴木しか救えず、死亡者三名の事故。そして、もうすぐ三十歳の夏。

 私の説明が終わると、鈴木はかなりの時間を掛けて考え込み、おもむろに口を開いた。

「実は佐度野と運転手の間には何らかの繋がりがあった。そう言われた方がよっぽど信憑性がある」

「事実として、そんな繋がりは無かった」

「それなら、俺は死んだの? 二回も」

「残念だけれど。でも、ようやく鈴木だけは救えた」

「全然信じられない」

「あの時、私が引っ張っていなければ、鈴木も間違いなく死んでいた。それは認めな」

「信じられないけど……、納得できる点もあるにはある……。確か、あの事故の二週間ぐらい前だった。佐度野が急に大人っぽくなったような気がしたんだ」

「今度は鈴木も一緒に行くんだよ」

「信じられない話だけど……」

「過去に移動したら、嫌でも信じることになる。移動できなかったら、信じなくていい」

「それはそうなんだろうけど……」

「もう、鈴木が死ぬことはない。だって、今度は知っているのだから」

 鈴木は大きな溜め息をついた。

「いいことを教えてあげる。スポーツくじの結果と株の値動きをいくつか暗記しておきな。そして過去に移動したらすぐにメモする」

「えっ」と鈴木が声を上げた。「お前、まさか……。それでリッチ?」

「鈴木がいれば、今度は必ず成功する。山田君がいっちゃんに告白する前に、私が山田君に告白して成功させる。そうすれば事故を回避できる。そうなったら、次は鈴木がいっちゃんに告白するんだよ」

「実際のところ、佐度野は一体何歳なんだよ」

「体の年齢三十歳。心の年齢五十四歳」

 鈴木は一瞬言葉に詰まる様子を見せて吐き捨てた。

「ババアじゃねえか」

「失礼な」と私も吐き捨てた。「私がこれまでどれだけ苦労してきたと思っているの、坊や」

「何だか変だとは思っていたんだ。時々、ババア臭いというか、ジジイ臭いというか……」

「男の世界で揉まれれば、レディーもオヤジに染まるんだよ」

「オヤジレディーなんて聞いたことねえよ」

「私だって聞いたことねえよ」

「なあ。知っているか? 深淵を覗く奴は深淵の同類とか何とか」

「何の深淵? いや。言わなくていい。ツァラさんを気取るなんて、本物のツァラさんたちに謝りな」

 その瞬間、鈴木は首を傾げて微かに笑みを浮かべた。

「善悪の彼岸を徘徊したのはツァラさんではなく、ピーさんでもプーさんでもなく、ニーさんだろう。ちょっと聞いてやるから、知っている哲学を歌って踊って語ってみな」

 私はウウッと呻いてしまった。鬼の首を取ったかのような鈴木の嬉しそうなこの気配。鈴木は意外に詳しそう。私は何かと混同していたのだろうか。

「とにかく圭太少年。私は何歳になってもお嬢様でお姫様。そのことだけは良く覚えておきな」

「分かったよ。とにかく一応、信じることにする」

 彼氏いない歴イコール心の年齢五十四歳。でも、体は二十代までしか経験していない完全無欠の清純派。そんな私もいよいよ覚悟の決め時、メイク・マイ・デイ。十八歳に戻ったら、これまで聞きかじるばかりだったテクニックの限りを尽くして山田君を魅了する。所長の奥様に倣って、山田君を私好みの男に育て上げる。

「圭太少年。動物園にパンダを見に行こう。客寄せパンダが本物のパンダに御挨拶」

 その瞬間、鈴木は鼻で笑った。

「パンダを気取るなんて、本物のパンダさんたちに謝れ」

 私は鈴木の戯れ言を黙殺し、木から離れて歩き始めた。

 

◇◇◇◇◇

 

 新幹線に乗るならグリーン車。いつの間にか、それが私的な長距離移動における私の習慣となっていた。

 鈴木の手には弥生亭の弁当二人前。私が発注しておいた三段重ねの懐石弁当だった。さらには鈴木の背中には大きな荷物帰省仕様。鈴木が過去への移動に半信半疑なのは明白だった。

 座席に腰を落ち着けると、鈴木は周囲を見回し、小声で囁いてきた。

「やっぱりグリーン車は違うな」

 圭太少年。世の神髄を理解するが良い。一、二、三ではなく、乙女、レディー、ババアでもなく、自由席、指定席、グリーン指定席。それが真のレベルアップというものなのだよ。そのあとは、アルファ、ゴールド、プレミアム。それでも足りなければ、EXやRやRRなどと続くのだけれどね。絶対に成金などと言ってはいけないよ。私たちは大海原を泳ぎ回る出世魚、進化を続ける偉大なる超人。

「グリーン車も弁当も全部佐度野の奢りでいいのか?」

「その代わりに、今日はしっかりと働いてもらうから」

 列車が快調に走り始めても、鈴木は妙に畏まったまま弁当に手を付けようとしなかった。私はまずは体をシャキッとさせるために酢の物。さっさと食べなと促すと、鈴木も慌てたように弁当の包装を開き始めた。

 手毬寿司、造り酢の物、炊き合わせ、油の物に締め和菓子。鈴木は「美味い」としきりに感嘆。私も全くもって同感だった。お金は過去へ持っていけない。そう思って張り込んだ特注懐石弁当アルファEX・ゴールドRR。弥生亭はいつも良い仕事をしてくれる。

 窓の外を流れてゆくのは見慣れた風景。特に三十歳のこの日の景色は私の記憶に焼き付いている。私は鈴木と他愛のない雑談を交わしたり、今日これからの手順を独りで反芻したりしながら、乗り継ぎ駅への到着を待ち続けた。

 数日前、今日の段取りを話し合う中で、鈴木は過去への移動に関する独自の考察を語り始めた。心が過去へ移動するだけ。移動先の時点の心が未来からの心で上書きされるだけ。私のその仮説が正しければ、タイムパラドックスは発生しないことになると。

 最も有名なパラドックスは、過去へ移動して過去の自分の存在を抹消したら、過去へ移動する自分も存在しないことになり、抹消も発生しないことになるというもの。しかしそれは、精神と肉体の両方がそのまま過去へ移動することによって生じる矛盾。

 私の仮説に基づけば、過去への移動先は肉体が存在している期間に限られる。過去へ移動して自分の存在を抹消したら、それはただの自殺に過ぎない。それによって以後の歴史が書き換わり、自殺の事実だけが残ることになる。

 鈴木はさらに続けて、歴史が書き換わる仕組みは不明だけどと疑問を漏らした。それに対する私の返答。

 それは無意味な根源論。例えば、建築家としての私にとっては、鉄の根源が素粒子であろうと鳥型精霊であろうと関係ない。根源ではなく性質を知り、建材として使えればそれで十分なのだから。それが応用科学であり現象論というもの。心の年齢五十四歳。私はこれでも最高峰の一つとされている大学を卒業したバリバリの理系なのだよ、圭太少年。

 そんなことを断続的に思い出しながら数時間後、列車は乗り継ぎ駅に到着した。鈴木はホームに降り立った瞬間、大きく深呼吸をした。しばらく前から鈴木の口数は少なく、はた目にもその緊張ぶりは明らかだった。

 鈴木は立ち尽くしたまま中々、在来線ホームへ向かおうとしなかった。

「鈴木。行くよ。電車を逃したら、事態の推移が変わってしまうかも知れない」

 そのように声を掛けた瞬間、私たちの脇を新幹線の車両がすり抜けていった。その車内には何となく見覚えのある男の子と母親の姿。根拠薄弱ではあっても私は確信した。事態の推移に変化は無く、今回もあの水溜りは出現する。

 エンジョイ・ライフ。エンジョイ・プレイ。次こそは本物の人生。鈴木はいっちゃんを相手にダダダンダとばかりに子沢山のスイートホーム。私は山田君を捕獲して育て上げ、大金持ちで仕事も順調、世界中を飛び回り、至高の人生を極めてみせる。

 遂に高校の最寄り駅に到着した。鈴木の息遣いが荒くなり始めていた。私は落ち着くようにと声を掛けた。私が経験した限りでは、移動は一瞬、何の感覚も伴わない。

 駅の外へ出てみると、毎度のように雨上がりの街並み。私たちは高校への道を歩き始めた。私も鈴木もほとんど無言。耳に届くのは、私たちの足音と車道を行き交う車の走行音のみ。昔と何も変わらない歩道を歩き続けてしばらくした頃、鈴木が声を潜めて「最終確認」と言った。

「過去へ行ったら、まずは誰にも気付かれないように佐度野と連絡を取り合う」

「そう。不用意に事態の推移を変えてしまわないよう慎重に。事故の日は早めにあの交差点へ行って緑のオジサンとオバサンになる」

「その前に事故の朝、運送会社にいたずら電話を掛ける。お宅の車両のどれかに時限爆弾を仕掛けたって」

 初耳のプラン。私は軽く驚き、歩みを止めずに周囲に人影が無いかを確かめた。道沿いの家々に人の気配は感じられず、歩道を歩く人影と言えば車道を挟んだ向かい側に一つだけ。それでも私はさらに声を潜めた。

「ちょっと待って。さすがにそれはやり過ぎ」

「勘違いをするなよ。あの会社は法人であり加害者。被害者ではなく善意の第三者でもない。だから、会社としても莫大な損害賠償の責任を負うことになったんだ。そこはきちんと区別しろよ」

 私にとっては新しい視点だった。私はずっと思い込んでいた。加害者は運転手。運送会社も加害者的な立場にあるとは言え、総体的には被害者の一部であると。でも運転手だけでなく、あの会社も明確に加害者。そこまでの峻別をしたことなど一度もなかった。

「あの事故では、とんでもない人的被害と物的被害が発生した。あの会社が関与する物流が一時的に全部止まって、荷主たちも迷惑をこうむった。そうなるよりははるかにましだろう」

「でも、爆破予告でも物流は止まる」

「眠気覚ましのモーニングコールでちょっと慌てさせる程度でいいんだ。俺たちが捕まったら元も子もないから、やりようが無ければやらない」

「荷主などへの迷惑は」

「そういう責任は全部あの会社が負えばいい。事故のせいで金と信用を失って倒産するよりははるかにまし。俺はあの会社に殺されかけたんだ。俺としては、加害者に配慮する気なんてさらさら無い」

 法学部出身の鈴木圭太。決断と実行の元原始人。その大胆さが急に頼もしく思え始めて、私はフムと頷いた。

「でも、もし事故の直前に戻ってしまったら」と鈴木は確認を続けた。

「そうなったら、話は一番単純。鈴木がいっちゃんと山田君を制止すれば良い。もし私が事前にいっちゃんを捕まえられたら、鈴木は山田君だけを捕まえれば良い」

 鈴木は無言。何も答えなかった。

「そうなったら、山田君といっちゃんは付き合っていることになる訳だけれど、鈴木は鈴木でもっと男を磨いて、知識と経験とお金に物を言わせて、今度は気立ての良い都会の堅実美人を捕まえな」

「なあ。この前ふと思ったんだけど、佐度野と山田の組み合わせは何だか違うような気がする」

「そういう話はあと。水溜りが消えない内に行かないと」

 程なくあの交差点が近付いてきた。私は安堵の溜め息をついた。やはりあった。「ほら、あそこ」と私が声を掛けると、「何が」と鈴木が尋ねてきた。私は驚いて足を止め、鈴木の顔を見詰めた。

「見えないの? 水溜り」

「どこ」と鈴木は目を凝らした。

 私は鈴木の腕を取り、水溜りの淵まで連れて行った。

「止まって。あと一歩で水溜りの中」

 鈴木は足元付近に視線を巡らせた。

「見えない。湿っているだけのただの歩道」

 私の足元には水溜り。夏の日差しを反射してキラキラと輝いている。

「私にははっきりと見える。現実世界の自然現象である以上、人の認識に関係なくそこに存在しているのは間違いない。やるしかないんだよ。やって駄目なら仕方が無い」

 わずかに間が空き、鈴木は大きく息を吐いて「分かった」と答えた。

「私が合図をするから、一緒に同時に行くんだよ。いいね」

 鈴木は大きく息を吸った。

「一、二の三」

 

◇◇◇◇◇

 

 気付くと、私は腕を取られていた。

「お前、本当に大丈夫か。今日から登校なら登校で、その恰好は何だ」

 まさか。これは想定外に近い想定内。事故の直前に戻っていた。佐藤先生を無視して辺りを見回すと、交差点には信号待ちをする十人くらいの生徒たち。登校中の生徒たちがぽつりぽつりと私たちを追い越していった。

 いっちゃんが怪訝そうな表情を浮かべながら、私のそばを通り抜けようとした。私は急いで手を伸ばし、ちょうど手に当たった巨乳幻想をむんずと鷲掴んだ。いっちゃんがアッと声を上げ、私の手を引き離そうとした。すかさず、私はいっちゃんの手首に握り替えて強引に引き寄せた。

「朝美。痛いよ。そんなに引っ張らないで」

「佐度野。何をやっているんだ。陀打団田を放して、こっちを見ろ」

 私はいっちゃんの手首を握りしめたまま、佐藤先生に向き直った。

「先生。このままで少しだけ待ってください」

「朝美。何なの?」

「佐度野。陀打団田を放して、とにかく落ち着け」

 信号待ちの生徒たちに目を向けると、皆がこちらの様子を窺っていた。そこには鈴木と山田君の姿もあった。

 鈴木。あんたもさっさと我に返って、ボケボケせずに山田君をしっかりと捕まえな。

「朝美。放して」

「佐度野。お前は自分が何をやっているのか、本当にちゃんと理解しているのか」

 佐藤先生は皆に向かって手振りで、こちらのことは無視して学校へ向かえと合図した。山田君だけでなく鈴木までもがこちらに背を向け、横断歩道に向き直った。まさか。

 次の瞬間、行く手の信号が青に変わった。驚きのあまり声が出なかった。私はいっちゃんを放し、佐藤先生の腕を振り払って駆け出そうとした。皆が歩き出す気配を一旦見せて、突然逃げ腰になり後戻りした。

 トラックが視界を横切った。横転と衝突の轟音。生徒たちの悲鳴と叫び声。

「先生! 山田と鈴木が!」

 そんな馬鹿な。ついさっきまで一緒にいたのに。


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― 新着の感想 ―
奥様はコスプレでハッスルされているのですね。 かなり凄い性癖をカミングアウトされていますけど、家庭円満なようで何よりですw 男には、少しくらい夢を見せた方が世の中うまくいくと思いますので、「平特盛」…
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