第一章 水溜りの先
ある夜、私はノートの空白ページに、大きく書き殴られた謎の落書きを見付けた。
良い人生を選ぼうとすることは出来るよね。考え抜いて本気で動けば、失敗しても納得は出来るよね。
でも、良い人生を選ぼうとしない人もいるよね。良く考えずに動いて、失敗して後悔する人もいるよね。
一つ一つ、諦めていくの? 分からないの? あんたのことだよ。
◇◇◇◇◇
梅雨の合間の眩い陽射し。いつもの朝がいつも通りに始まった。歩道の脇には花壇と街路樹。道沿いの人たちが丹念に手入れをしているのか、目にしたことはあっても名前は知らない花々が意気揚々と咲き誇っていた。
周囲には同じ高校の生徒たち。ある者は独りで黙々と、ある者は友達と雑談を交わしながら、まばらに列をなして歩き続けていた。
行ってみたい。出てみたい。都会へ向けて一路南へ。やはり、皆もそんな想いを秘めているのだろうか。大都会の煌めく日々。きっと、時の流れはこことは違う。
新品のオフィス。ビジネススーツの上着を颯爽と脱いで、ワイシャツの袖を小粋にまくり、名札をさりげなく首からぶら下げる。巨大なホール。スクリーンの前に一人で立ち、左手を腰に当てて右手にはポインター、笑みを浮かべて聴衆に語り掛ける。
それにしても、週初の朝の空気は重い。金曜夕方のさらさらとしたすっきり感はどこへ行ってしまったのだろう。何という名前だっただろう。花壇で咲いている黄色い小花は。
ふとそんなことを思った時、背後から軽快な足音が近付いてきた。
「あっちゃん」
その声はいつもの通りに元気ないっちゃん。でも、私は振り向かない。銀縁メガネに満面の笑み。私よりも着こなしの良い制服姿。そんなちょっと癪に障る光景が目に飛び込んでくるのは間違いないのだから。
私は足を止めずに、いっちゃんが隣に並ぶのを待った。
「あっちゃん。宿題できた?」
やはり恒例の行事、週明けの儀式。
「また?」と私は尋ね返した。
「あっちゃんの宿題、写させて」
「学級委員がそれでいいの? いっちゃんって本当に見た目だけだよね」
私のからかいに、いっちゃんは膨れっ面をした。それはいかにも作為的。そういうものを見た目だけと言うのです。
その瞬間、私はふと誘惑に駆られた。もう少し勿体ぶってみよう。
「どうしようかな……。陀打団田逸美さん」
「フルネームはやめて。いつも寝癖の佐度野朝美」
「フルネームはやめて。私はサディストではないから」
いつも通りのそんなやり取りに、いっちゃんはいつもの通りにくすくすと笑った。いっちゃんの足元に目を遣ると、可愛らしい白の靴下。焦げ茶色のローファーは綺麗に磨かれていた。
その後の話題は数学の宿題。ここのところ、いっちゃんは理系科目については私に頼りきりになっている。いくら進学校だからと言って、文系志望の三年生にまで理系の宿題をさせるのがそもそもの間違い。そんな風に愚痴をこぼしながら。
セミの鳴き声が聞こえた。時期外れ。まだ早い。そう思った時だった。いっちゃんがアッと小さな声を漏らし、「ごめん。ちょっと」と断りを入れて小走りに駆け出した。制服の紺色のスカートが軽快に、ひらひら、ゆらゆら。
やっぱり可愛い。無駄に可愛い。軽やかな声音と話し方。小柄だけれど女らしい体付き。無駄に突き出た大きな胸。
いっちゃんの向かう先には交差点。信号が青に変わるのを待ち続ける十数人の生徒たち。その中から二人の男子、山田君と鈴木がこちらに目を向けていた。弓道部の部長だった山田君。ラグビー部の副部長だった鈴木。数日前からなぜか、いっちゃんと山田君はいそいそとし、鈴木はそわそわとしていた。
謎に余裕の銀縁いっちゃん。少し先の期末試験が終わったら、いよいよ夏休みがやって来る。でも、今度の夏は遊べない。受験勉強が待っているのだから。
陀打団田。いかにも一族総出で太鼓でも叩いていそうな厳めしい名字。かつては名家と呼ばれていたらしい。いっちゃんの卒業後の進路には、家の意向もあるとか無いとか。
三人は信号待ちの最前列で話し込んでいた。いっちゃんは私の親友。でも時々、いっちゃんに僻みや妬みを感じてしまう。名家のお嬢様。甘え上手。要領の良さ。男子たちが取り巻くのはそんないっちゃん。
あの様子では、いっちゃんと山田君は付き合い始めたのかも知れない。山田君には隠れファンがかなりいる。皆黙ってはいるけれど、やはり気付いているに違いない。そして、私は信号待ちの列の後ろで独りきり。結局、私は引き立て役。やっぱりちょっと癪に障る。
信号が青に変わった。片側一車線ずつ、合計二車線の在り来りな道路。それを渡れば、程なく校門。私はホッとして一歩前に踏み出した。突然、目の前の生徒が足を止め、私はその背中にぶつかった。ごめんなさいと謝る暇もなく、大きく後ずさりしてきた生徒に押し倒されて、私は歩道に転がった。
赤信号になったはずの方向からトラック。悲鳴と絶叫が飛び交った。皆の視線に気が付いて、私もすぐさま立ち上がって凝視した。いっちゃんと山田君と鈴木の三人。三人まとめて轢かれていた。弾き飛ばされ倒れていた。
◇◇◇◇◇
私の認識は甘かった。十分に混雑を避けたはずなのに、お盆直前の自由席は混み合っていた。何本もやり過ごしてようやく確保した窓際の席。朝の東京駅を出発し、程なく車内のざわめきも治まってきた。
一路北へ向かう新幹線。車窓の外を流れていくのはモノトーンの大都会。しばらくすると、淡緑の畑や野原が混ざり込むようになる。そして、その内に濃緑の丘と山。そんな色鮮やかな景色が広がるだろうことは何度も目にして知っている。でも、今回は気が乗らなかった。これまでにも年二回、お盆の時期と年末年始に帰省をしてはいたけれど。
突然、視線を感じた。前の座席の背凭れ越しに、小さな男の子が私の方を無言で覗き込んでいた。私はとっさにいつもの営業スマイル。男の子が顔を引っ込め、次いで母親らしき女性がわずかに顔を出し、「済みません」と小さく謝ってきた。
前の座席からは小声の会話。お爺ちゃんとお婆ちゃんが待っているから。そんな声が聞こえてきた。男の子は幼稚園児くらいだろうか。母親はおそらく私よりも少し年上。
もしかしたら、私にもそんな帰省があり得たのかも知れない。少なくとも、私の親がそういう家族関係を望んでいるのは間違いない。
大学生だった頃には、変な男に関わってはいけないと親は私に厳命した。新社会人だった頃には、良い人を見付けなさいと親は私に指示をした。そして最近は、良い人はいないのか。親はそう尋ねてくるようになった。
それに加えて親戚の叔父さん。前回の帰省で顔を合わせた際の酔っ払いぶりには呆れてしまった。
「彼氏いない歴イコール年齢。未だに寝癖の朝美に男なんて出来る訳がない」
「余計なお世話。放っておいてもらいたい」
「工学部なんて男ばかりのはず。今だって元同級生の男たちが山ほど余っているだろう」
「建築学科では、少なくとも私が出た大学の建築学科では、半分くらいが女子学生。皆、建築士の資格を取ってインテリアデザイナーを目指している」
「で、お前はわざわざ東京へ行って、四年制の大学の工学部を出て、インテリアデザイナーになれたのか」
その問いに、私は一瞬言葉に詰まり言い返す。
「最近、そういう仕事も任されるようになってきた」
そんなほろ苦い会話を思い出していると、どこからともなく食欲をそそられる匂いが漂ってきた。こっそりと腰を浮かせて周囲を見回すと、あちらこちらで遅めの朝食と思われる食事が始まっていた。私の腹が密かに鳴った。私も手荷物の中からコンビニのおにぎりを取り出した。
私があっさりと食べ終わってしまった頃、前の座席の子が再び顔をのぞかせた。必殺技には程遠い私の営業スマイル。それに応えるように男の子も笑みを浮かべ、私に飴を一つ差し出すと、背凭れの向こうにパッと消えた。可愛い子。私にもそんな人生があり得たのかも知れない。
確かに、叔父さんの言うことも少しは分かる。
面倒を見るのは高校まで。その先は基本的には自分の力で。元々、親からはそのように言い渡されていた。それでも親は、中学生の時には高校受験に備えて予備校に通わせてくれた。高校生の時にも勉強に専念できるようにしてくれた。そして大学進学の時。
奨学金を借りてくれと親は言った。自宅から通える所に進学すれば負担は軽くなるはずとも言った。両親は北国の田舎都市の勤労者。貧乏ではないが余裕も無い。それでは埒が明かないような気がした。先が無いように思われた。大都会への憧れは捨てられなかった。
想いを切り離すように上京してみれば、そこに集った女子たちの志望はほぼ同じ。大都会の大学生活に浮かれる子。陽気さだけが取り柄の安っぽい男と付き合っては別れる子。そういう子たちが徐々に抜け落ち、残った者も建築士試験でふるい分けられる。
無事に大学を卒業して中規模な設計事務所に入ってみれば、ひたすら修行、丁稚奉公。先輩たちの図面作りや書類作りを手伝っては、先輩たちに付いて回って役所や現場やクライアントの所を行ったり来たり。自分のコーヒーカップは自分でさっさと洗って片付けて。オフィス内でそう呼び掛けるのも私の役回りだった。
その後、一級建築士の資格を取り、私自身の仕事も増えて行き、一人前になったとの自信も付いてきた。でも、かつて夢見たような仕事は回ってこなかった。私に出来るのは、業界誌に掲載されている写真などを眺めては密かに溜め息をつくことくらい。意匠設計の仕事なんて夢や幻のようなものだった。
あの時、叔父さんは最後に言った。ここは地方の中核都市。ここでも徐々に人口が減少しているとは言え、決して寂れている訳ではない。建築士は立派な士業。街には建築士の仕事もそれなりにあると聞いている。こちらに帰ってきたらどうだと。
大都会の大学に入って卒業し、故郷に戻って就職したあの叔父さん。都会であろうと田舎であろうと、仕事の内容にも収入にも大差が無いのであれば、田舎暮らしでも良いではないか。そんな想いや矜持が叔父さんにはあるのだろう。
今や私も三十歳。多分、今回はいかにも偶然を装ったお見合いをさせられる。そんな考えが浮かんだのを最後に、私は眠りに落ちた。
ふと気付いて時計を確かめると、目的の駅まではもう少し。そこで在来線に乗り換える。窓の外に目を遣ると、少しばかりでも雨が降った後らしく、大都会には存在しない緑の景色が鮮やかに濡れていた。
しばらく前に母が思わぬ情報をもたらした。私の高校時代のクラスメートから実家に連絡があった。今年はあの三人の十三回忌。皆で墓参りをした後に同窓会を開くからと。
同窓会開催の話を聞くのは初めてのことだった。あの日、三人もの同級生が突然消えた。それ以降、私の学年は、特に三人が所属していたクラスは活気を失い、学校は完全に勉学のみの場となってしまった。
無慈悲に薄情に忘れてしまった訳ではない。無理にでも心の奥底に仕舞い込まなければやっていけなかった。そして、日々の暮らしを続けていく中で、三人のことを思い出す機会は自然に徐々に減っていった。
十三回忌の墓参り。そろそろ落ち着いて、あの三人を静かに偲ぼう。そんな気を起こした者がいる模様。でも、何だか違うような気がする。三人の魂は今でもあの交差点に留まっているのではないだろうか。だって、即死だったのだから。それなら、挨拶しに行くのはあの場所しかない。
乗り継ぎ駅への到着間際、私が席を立って乗降口へ向かおうとすると、前の座席の男の子が私に小さく手を振った。私も「バイバイ」と答えて営業スマイル。すると男の子は「またね」と言った。
在来線の懐かしい電車。窓の外には馴染みのある景色。郊外へ出れば、田園、小川、緑の丘に緑の山。まさに遠くにあって故郷と呼ばれるにふさわしい街。でもやはり、決まりきった昼と夜が七日周期で繰り返されるばかりの退屈な街。
少し迷って私は決めた。高校の最寄り駅は次の駅、私の実家はさらにその次。実家に戻れば、すぐにでも見合いや結婚の話題が出るだろう。今は大した荷物を持ち歩いている訳でもない。気分を乱される前に、三人に挨拶しに行こう。
高校の最寄り駅の駅舎を出てみると、小さな駅前ロータリー、駅前商店街、高校への道。ここは県内の都市部といえば都市部の一角。発展してはいないけれど、確かに寂れてもいなかった。
やはり、この辺りにも雨が降った模様。車道も歩道も湿っていた。お盆休みの直前の日、昼下がりの地方の街。道沿いの店舗の多くは営業を続けてはいたけれど、人影はまばら、辺りは閑散としていた。
駅近くの昔懐かしいスーパーは今も健在だった。何か供え物をと思い立ち、ジュースを三本購入した。無駄に可愛かったいっちゃんはミックスジュースが好きだった。弓道の袴姿が凛々しかった山田君はレモンスカッシュだったはず。厳ついラガーマンの鈴木はいつもコーラをラッパ飲み。供え物を残していくと、あとで近所の人が迷惑する。あの交差点に盛大に撒き散らす訳にもいかないだろう。少しずつこぼして、残りは私があとで飲もう。
駅から伸びる道を歩き続けて、あの交差点が近付いてきた。暗い記憶。苦い想い。あの時、私はいっちゃんに嫉妬していた。心の内でいっちゃんを腐していた。まさか、それが最後になるなんて。
見ると、歩道のすぐそこには小さな水溜り。一旦は視線を前に戻してふと気付き、私は思わず足を止めてしまった。土木の設計や施工管理は私の専門ではないけれど、関連分野の一つとしての勉強はした。何だか不自然。こういう歩道のあんな場所になぜ水溜りが。
近付いてみると、水面が揺らぎ、キラキラと夏の日差しを反射していた。地下の配水管からの漏水だろうか。とすれば接合部辺りから。そうであれば市役所かどこかに連絡しなければ。水溜り自体はかなり浅い模様。地盤に緩みや歪みは無いだろうか。
私は一旦周囲を軽く踏んで確かめた後、パンプスの爪先で水の表面に触れてみた。何の感触も無かった。今度は強めに爪先を突き入れた。まるで落とし穴。世界の底が抜けた。
◇◇◇◇◇
私は歩道に立っていた。足元を確かめてみると、水溜りは消えていた。次の瞬間、私は目を疑った。路面は乾燥。靴が違う。靴下も違う。さらに気付いて驚いた。紺色のスカート。服装までもが変わっていた。
顔を上げて見回すと、周囲には高校の生徒たち。どう見ても、これは朝の登校。改めて自分の服装を確かめてみると、私は高校の制服を身に着ていた。
その時、軽快な足音が近付いてきた。
「あっちゃん」
振り返ってみると、銀縁メガネに満面の笑み。なぜか私よりも着こなしの良い制服姿。
「あっちゃん。宿題できた?」
何が起きているのだろう。でも覚えがある。恒例の行事、週明けの儀式。いっちゃんが私の前で立ち止まった。
「宿題、教えて」
私は恐る恐る昔の手順を再現してみた。
「学級委員がそれでいいの?」
「高校の学級委員なんて有名無実。形だけでしょう」
思いがけない理知的な返答に、私は虚をつかれて戸惑った。
「それはそうかも知れないけれど……」
「今日はパンをくわえないの?」
突然の逆襲。私は絶句した。
違う。これは違う。パンをくわえる。その話は絶対に無い。週初の朝の恒例行事は、まずは宿題の解説。私をからかっている暇など無かったはず。
いっちゃんが無駄に可愛いにやけ顔で私を見詰めてきた。
「それで、数学の一問目だけど……」
いっちゃんはそう言いながら、歩き始めるよう私に身振りで促してきた。
これは幻覚だろうか。それとも白昼夢。でも、現実感は確かにある。いっちゃんが話し始めたのは文理共通の一問目。その問題にも覚えがある。
次いで二問目に入ろうとした時だった。いっちゃんがアッと小さな声を漏らし、「ごめん。ちょっと」と言いながら小走りに駆け出した。制服の紺色のスカートが軽快に、ひらひら、ゆらゆら。何だか妙に女っぽい。
その先には交差点。信号が青に変わるのを待ち続ける十数人の生徒たち。その中から二人の男子、山田君と鈴木がこちらに目を向けていた。
私は手近な見知らぬ男子生徒の腕を掴んだ。日付を尋ねると、男子は驚きを見せた後にためらいがちに答えた。でも、日付だけでは確信を持てなかった。「今日は何曜日」と尋ねると、やはり月曜日。
私は駆け出した。
信号待ちの最前列で話し込む三人。あの時と同じなら、三人は注意散漫なままに横断歩道を渡り始める。そこに居眠り運転のトラックが突っ込んで、轢かれたり弾き飛ばされたりしてしまう。トラックはすぐ先でガードレールに接触。片輪だけ縁石に乗り上げ、ハンドルを切り過ぎて横転。死亡者四名、あの三人と運転手。それに加えて甚大な物的損害。
信号が青に変わった。片側一車線ずつ、合計二車線の在り来りな道路。それを渡れば、程なく校門。真向かいの歩行者用信号しか目に入っていないのか、三人は話し込みながらそのまま歩き始めた。
赤信号になったはずの方向からトラック。運転手の不自然な姿勢。私は動揺と混乱の中を強引に突き進みながら絶叫した。
「戻れ! 早く!」
三人がトラックに目を向けた。違う。立ちすくんでどうする。次の瞬間、私の目の前をトラックが走り抜けた。
◇◇◇◇◇
東京の一角、築数十年の鉄筋コンクリート構造三階建て。見掛けは少々くたびれてはいるけれど、質実剛健を絵に描いたような女子学生専用男子禁制割安アパート。私はその二階の一室で二回目の大学生活を始めていた。
私の中では未だに尾を引くあの混乱。あのキラキラと輝く水溜りは何だったのだろう。なぜ、私は高校三年生に戻ってしまったのだろう。
次の瞬間には元の私に戻るのではないだろうか。次の朝には元の私に戻っているのではないだろうか。初めの内はそんな風に思っていたけれど、何事もないままに十か月以上が経ってしまった。
この世界は元の世界と同じ世界なのか。それとも、私は別の世界へ移動したのか。その種のことは分からない。でも、日々刻一刻と起きる出来事を見る限り、明らかなことが一つある。
私の言動が変化すれば、私の周囲もそれに応じて変化する。私の影響が直接的にも間接的にも及ばない所では、物事は私の知る通りに推移する。
大学生と社会人。私はずっと勉強を続けてきた。そして、もう一度高校生に戻ってみれば、当時には分からなかった事柄も、いつの間にか理解できていた。
前回の大学進学時。親は渋い表情を浮かべながら私に言った。中堅レベルの大学ならこちらにもある。そんな遠い所にまで行かなくてもと。一方の今回。親は私を激励した。せっかく上位レベルの大学に入ったのだから、しっかりと頑張りなさいと。
質実剛健アパートの大家さん。都会には珍しい篤志家気質、住人の親代わりを自任するお婆様。アパートの管理人でもあり、自らもアパートの一階に住む独居女性。
前回の大学入学後。大家さんは安心安全なアルバイト先を私に紹介してくれた。一方の今回。大家さんは大学の学生部へ行くよう私に指示した。あなたの大学なら多分、募集対象は女子学生限定、割の良い家庭教師のアルバイトがあると。
親からの仕送りと奨学金、さらには割の良いアルバイト。そのおかげで前回よりも少しは時間的に余裕のある暮らしを送れるようになった。
その余裕を活かして一度だけ、前回の進学先だった大学に潜り込んでみた。知った顔を見付けたけれど、誰も私の存在に気付いてくれなかった。当然と言えば当然。でも、何となく寂しくて、何となくショック。既視感の中を漂っているような感覚に囚われた。
休日の繁華街、若者の街。前回の大学生活では、そんな所をぶらぶらする余裕なんて全く無かった。一方の今回。安物のアクセサリーを眺めていると、芸能事務所のスカウトを名乗る男が声を掛けてきた。でも、さすがにそんな気分にはなれなかった。あの事故の件を忘れたことはなかった。
私はすでに開き直っていた。多分、あの水溜りに再び出くわして、再び足を踏み入れない限り、あの現象は起こらない。これが私の現実、私の世界。この世界が続く限り、私はここで生きていくしかない。さらには、私はとっくに気付いていた。この現実は意外に容易であると。
◇◇◇◇◇
密集した家々。郊外の住宅地。その隙間を網目のように走る夜の小道。私は充足感に浸りながら独り家路を歩んでいた。
私の基準では、ここは到底郊外ではない。田畑が広がり、小川が流れ、爽やかな風が吹き抜ける。それが私の知る郊外。大都会の郊外もどきに、心の芯から疲れを癒してくれるものなど存在しない。
そう言えば、この辺りではここのところ、自転車に乗った不審者がすれ違いざまに女性の胸を撫でたり掴んだりしているらしい。至る所に街灯の明かり。確かにそれはそれで便利なのだけれど、そのような利便性には影もある。
三階建ての賃貸ワンルームマンション。外見はいつも立派、少しお洒落。私でもこの程度の案件であれば容易にこなせる。そんなマンションの階段を上り、二階の自宅に帰り着き、私はビジネススーツを乱雑に脱ぎ捨てた。
下着姿のままでコーヒーを淹れて、ようやく一息。コーヒーカップを手にベッドに腰を下ろし、今日という日を振り返った。
新人・若手のための建築コンクール。かなりの広さの会場で、私は人前に立って賞状を受け取った。優秀賞、佐度野朝美殿。大賞には届かなかったけれど、私にとっては十分な成果だった。
素晴らしい感性。新人には珍しい完成度。そのような講評に耳を傾けながら、私は内心で呟いた。だって、知っているのだから。私の体は二十四歳、大学卒業から二年目の新人。でも、心は三十六歳なのだから。
私は未だ存在していない設計やデザインを知っている。そのまま盗むのはさすがに気が引けるので、私なりに手を加え続けてみれば、オリジナルとは全く異なる私独自の作品に仕上がっていた。
コーヒーを飲み終わって人心地ついてみると、何となく小腹が空いているような気がした。今日は事務所の人たちが立派な夕飯を奢ってくれたけれど、こんな日くらいは少しなら。そんな風に高を括って湯を沸かし、心の拠り所だった取って置きのカップラーメンを棚の奥から取り出した。
前の世界の所長。その人柄を思い出して今回も就職してみれば、この世界の所長も人が好かった。違いが分からなかった。全くの同一人物だった。
最初から佐度野は優秀だとは思っていたが、これほどまでとは思わなかった。これからは大きな仕事もどんどん取って来るからな。所長はそんな威勢の良いことを言っていたけれど、それなら私の給料も上げてくれ。
◇◇◇◇◇
受賞者、二十代前半、女、独身、彼氏無し、そして美人。そんな触れ込みと共に、所長はたびたび私を営業活動に連れ回すようになった。
客寄せパンダ。所長は躊躇なくそう言い切った。待っていても仕事は来ない。仕事が来なければ飯を食えない。特に建築業は景気次第。客寄せパンダは偉大な資質であると。
私に言わせれば、美人は誇大広告。業界誌に小さく載った写真の写りがたまたま良かっただけ。可愛い系ではなく美人系。これまでそんな風に評されたことはあっても、美人と明言されたことは一度もない。しかし、それ以外は紛れもない事実。設計事務所には突発的な依頼が頻繁に舞い込むようになった。
所長の奥様も私を可愛がってくれた。前の世界の奥様も気を遣ってくれてはいたけれど、それは所長の妻と所員の関係を越えるものではなかった。一方、今の世界。奥様は所長が私を広告塔として使っていることを知り、私に積極的に関わってくるようになった。
奥様は上品かつ知的で闊達な人だった。これは朝美さん自身の為にもなることだから。そんなことを言いながら、色々と私の面倒を見てくれた。
ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。どこで知った言葉なのか、奥様はそんな決め科白と共に、服装や化粧や立ち居振る舞いなどを教えてくれた。さらには男の見分け方とあしらい方。
安い女になってはいけないと奥様は強調した。落とせそうで落とせない高嶺の花になれと。そういう女にこそ意欲的な男たちは価値を見出す。好むと好まざるとにかかわらず、それがこの世の実態なのだと。
パンダ見物の男たちの中には紳士もどきも散見された。そのたびに、奥様は「あの男は駄目」などと私に囁いてきた。あの目付きを見てみなさい。あの笑い方を見てみなさい。人相の見極めは世を渡る上での知恵の一つ。そんな様々な蘊蓄と共に。そして、事態の混迷が予想される場合には、所長と奥様がさりげなく私を守ってくれた。
さらには、奥様も私の親たちと同様のことを言った。性的な下心は問題ではない。むしろその種の興味は健全なもの。大切なのは、知性と行動力、誠実さと真摯さ、加えて素性の良さ。それら全てを併せ持つ男を一人だけ選び抜けと。
それに加えて私の本来の仕事。その後、私に任される案件も着実に増え、収入も人並みを幾分超えるまでにはなっていった。
◇◇◇◇◇
その日が来た。とうとう来た。お盆の直前、私は新幹線の座席に身を預けていた。
前の世界と今の世界。違いがあったのは私の周辺、私が直接間接に関わった範囲だけ。私の知る限りでは、それ以外に変化は全く見られなかった。そして、先日の母からの連絡、十三回忌と同窓会。それなら、あの現象も再び起きるのではないだろうか。
列車は定刻に朝の東京駅を出発した。自由席の混み具合は不明だけれど、指定席の車両にまで乗客が溢れてくるような状況ではない模様。私は駅構内の売店で買った駅弁をおもむろに広げた。
何事も無ければ、いずれこの日を迎えることになる。その認識は以前からあった。しかし実感を伴わず、食欲の減退を自覚し始めたのはつい数週間前のこと。これからどうするにせよ、今は食べなければ。私は気力を振り絞り、牛焼肉弁当を口に押し込み続けた。
あの現象は何なのか。この十二年間、いくら考えても分からなかった。誰にも分からないであろうことは明白だった。それならば、ありのままに受け入れるしかない。その結論だけは明確だった。
弁当を食べ終え、ペットボトルのお茶で口直し。席を立って車内のゴミ箱へ向かってみると、何となく見覚えのある姿があった。トイレに行ってきたのか、これから行こうとしているのか、幼稚園児くらいの男の子とその母親。私の記憶が正しければ、私に飴をくれた気の好い子。ようやく身に着けた必殺の営業スマイルを男の子に向けてみると、男の子も笑顔を向けてきた。そのまますれ違って席に戻り、私はふと思い出した。心の歳月で十二年前のあの日、あの子は最後に「またね」と言った。
座席に腰を落ち着け、もう一度ちょっとだけ口直し。窓の外を眺めてみても、見覚えのある景色ばかり。私は再び物思いに沈み始めた。
私の体と立場は三十歳。でも、心の年齢は四十二歳。その分だけ心理的に余裕がある。職場にも収入にも仕事の内容にも不満はなく、奨学金の繰り上げ返済で借金関係も綺麗になったし、この暮らしは捨てがたい。それならば、あの交差点へは行かなければ良い。でも、もしも私の仮説が正しければ。
パンをくわえる。あの言葉は一回目には絶対に無かった。
中学三年生の夏休みの自由研究。私たちのグループの男子たちが提案した課題は、小説や漫画などに登場する非現実的なシーンがどこまで現実的なのかを調べることだった。
学校の体育館に体操競技用のフカフカのマットを敷いて両足跳び蹴り。女子はもちろん男子が試してみても蹴る所までは全く行かず、マットの上にボフッと落ちるだけ。格闘技のプロ選手たちが実際にやっていることは知っていたけれど、私たちでは無理だった。
一人の男子を女子で取り囲み、いわゆるハーレム状態を作ってみる。好きと言い続けるなんて演技であってもあまりにも馬鹿馬鹿しく、結局は女子全員で男子をからかうばかり。男子にしてもよほどの鉄面皮でもない限り、そんな状況には耐えられない模様。
そしてパン。陸上部員だった私は皆に付き添われて、まるでフラッシュモブのようにパンをくわえて街中を駆け出した。でも、ほとんど走れなかった。パンが邪魔で息が続かず、街の人たちに白い目で見られただけだった。
高校生になって美術部に入り、いっちゃんと友達になってその話をしてみると、いっちゃんは無駄に可愛い笑顔で私に尋ねてきた。自由研究の結論はと。男子は馬鹿。その答にいっちゃんは派手に大笑いした。
それ以降、私をからかう際の題材の一つとして、いっちゃんはほんの時折パンの件を口にするようになった。でも、一回目のあの時には無し。二回目には有り。
初めの内は、別の世界へ移動したのかもと思っていた。でも、それでは話が複雑すぎる。そもそも、いっちゃんがパンの件を口にする前に、私の方が行動を変えていた。一回目では、歩き続けていっちゃんを無視。二回目では、立ち止まっていっちゃんを迎えた。
ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。私の心が過去へ移動しただけ。ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。あの時点の心が未来からの心で上書きされただけ。原理は全くもって不明だけれど、そのように考えるのが最も単純明快に違いない。
もし、あの移動が別の世界の過去へのものなら、もはや元の世界の三人もこの世界の三人も救えない。でも、もしあれが単純な過去への移動なら。
それならば、もし今度もあの現象が起きるのなら、あの三人を救える可能性は十二分にある。使命とか運命とか、そんな大げさなものではない。次の人生では、私はもっと上手くやってみせる。しかも、あの三人も生きている。その方が良いに決まっている。
私の印象では将来、爽やか弓道部長の山田君はそれなりのエリート社員。厳ついラガーマンの鈴木はオヤジ営業マン。学級委員の銀縁いっちゃんはさっさと結婚して専業主婦、ダダダンダとばかりにいつの間にか子沢山。
歴史の改変とかタイムパラドックスとか、そういう言葉は知っている。でも、そんなことは関係ない。だって、現実は現実として、ありのままに私の前に存在し続けているのだから。
進学先の大学が決まった時は別として、親の言葉は今回も同じだった。変な男に関わるな。良い男を探せ。良い男はいないのか。でも、もう少し待ってほしい。私にだってその気はある。
在来線への乗り継ぎ駅が迫ってきた。車内にアナウンスが流れた。私は「よし」と拳を握り締めて席を立った。
在来線のホームに降り立ってみると、やはり雨雲が通り過ぎた後の模様。景色の至る所が濡れていた。高校の最寄り駅はここから一つ目。アナウンスが流れた。走行音が迫ってきた。在来線の列車が到着した。
高校の最寄り駅を出てみると、馴染みのある景色が広がっていた。駅前ロータリー、駅前商店街、高校へ続く道。間違い探しのように目を凝らしてみても前回との違いは見当たらず、新しい発見は特に無かった。
高校への道をたどりながら、時折立ち止まっては屈伸運動。ここで準備をしても意味はない。それは分かってはいるけれど、そうせずにはいられなかった。手入れの行き届いている歩道。夏の盛りの花壇にはわずかばかりの小さな花。
私の記憶が確かなら、多分すぐそこのはず。過去へ戻ったら、急いで交差点へ向かい信号待ちの最前列に出る。トラックの接近を確認したら、警告の声を上げて皆を押し戻す。簡単な話。たったそれだけ。
あった。キラキラと揺らめく小さな水溜り。前回とはわずかに場所が異なるような気もするけれど。
せっかく集めたお気に入りのアクセサリー。ふとそんなことを思い出してしまったけれど、答は一つ。やるしかない。ミニマリズム。シンプル・イズ・ビューティフル。私は深呼吸をして一歩前に踏み出した。