年上のお姉さんモノを書きたかった。
「――あっ、大貴くんいらっしゃ~い……」
行きつけの居酒屋に入って店の一番奥、いつものカウンター席に着くと、カウンター内で調理をしていた女性が元気のなさそうな声で僕を迎えてくれた。心なしか、顔色も悪い気がする。夏風邪だろうか。昨日はあんなに元気いっぱいだったのに。
そんなカウンター内の暗い様子とは対照的に、店内は今日も満席で賑やかだった。カウンター六席に二人掛けのテーブル席が二つだけ、という小さい店ではあるのだけど。
「……あの、由利さんどうかしたんですか?」
背後からお冷とおしぼりを置いてくれた顔馴染みの金髪ギャルな店員、彩さんにこっそりと訊くと、彩さんはカウンター内で忙しく動く由利さんを一瞥して、
「あー、ね。まーた男と別れたんだって」
「またですか……」
「こりないよねー、店長も。でー? 大貴くんはいつものでいーの?」
「あ、はい。それで」
「おっけー。じゃーちょっち待ってて……――はーい! お伺いしまーす!」
毎度のことなので由利さんの話は大して掘り下げず、彩さんは僕の注文を取ると呼ばれた他の席へと向かっていった。
カウンター内で調理する由利さんと彩さん以外に、店内に他の店員はいない。小さい店ということはあるにしても、よく二人で回せるものだといつ見ても感心する。
お冷を一口飲んで、こちらに背を向けて調理している、この店のオーナー兼店長である由利さんに目をやる。
背中に垂れた艶のある黒いポニーテール。一般的な女性よりも低い身長。それでも出ているところは出ているし、Tシャツにデニムという服装の上からでもくびれがわかるくらい魅力的なスタイルをしている。
なおかつ、年上のお姉さんとは思えないくらい可愛くて、毎日ご飯だけを食べにくる僕のような迷惑客にも優しいくらい性格も良い。
そんな理想のお姉さんのような由利さんなのだが、一つだけ欠点というか弱点があり――それが男関係だった。
僕がこの店に通い出して四ヶ月ほどの間に、男と付き合っては別れる、というのを今回のを含めて既に四回も繰り返していた。
ほぼ一ヶ月に一回。
そりゃ彩さんにも呆れられるし、いつものことだから、と大して心配もされなくなるというものだ。
由利さんがそんなに男を、言い方は悪いがとっかえひっかえしているのにはもちろん理由がある。
由利さんは下手をすればまだ高校生でも通じてしまうんじゃないかという容姿をしているが、そう見えて二十代後半だったりする。
そんな年齢となった由利さんの同級生は次々に結婚をしていて、結婚願望のある由利さんはそれで焦ってしまっているらしく、日々婚活をなさっているというわけ――というのは彩さんから聞いた。
なお、そんな由利さんのプライバシーを遠慮なく暴露する彩さんにも良心が残っていたらしく、由利さんの正確な年齢は喋らなかった。
注文してからしばし。
その間、働く由利さんをこっそり見たり、スマホを見たりして時間を潰していると、背後から声がかかった。
「――はい大貴くん、おまちどおさま。夜定ね」
「あっ、ありがとうございます。いつもご飯ばっかりですいません」
「あははっ、いーのいーの。大貴くんがいつもおいしそうに食べてくれるの見るの好きだからさ」
好き、と言われて胸が高鳴る。そういう意味じゃないのに。
取り繕っているのか、由利さんに入店した時の暗いオーラは感じられなかった。
言葉を交わしながら、由利さんは席の背後から大小さまざまな器が載ったお盆を僕の席へと置いてくれる。
背が低い由利さんは調理場からカウンター越しに直接客の前に料理を置けないので、普段はカウンター台へ置いて客に取らせるのだが、僕の時だけはこうしてカウンターから出てきて直接置いてくれる。特別扱いされているみたいでちょっと嬉しい。
僕が頼むメニューはいつも決まっていて、夜定――夜定食だ。
目の前に置かれたお盆の上には、ご飯に赤だし、お通しとしても出されている小鉢(今日はほうれん草の胡麻和えだ)、お新香、そしてメインのおかずとして豚のしょうが焼き、さらには三切れと少ないがお刺身まで並んでいる。
驚くべきは価格で、これだけボリュームがあって税込五百円。価格設定がバグっている。
夜定は元々この店になかったメニューで、今でもメニュー表や『今日のイチオシ』と書かれた壁のホワイドボード(空いたスペースに由利さん作の謎動物が描かれている。たぶん猫)にも載っていない、いわゆる裏メニューだ。
ボリュームに対して値段があまりに比例しておらず、一度心配になって由利さんに大丈夫なのか聞いてしまったのだが「余りそうな食材で作ってるだけだから大丈夫だよ。っていうか大貴くんにしか出さないし」と言われてしまっては、それ以上、値段のことを突っ込むことはできなかった。
「それに、大貴くんがまともな食生活を送れるよう、ご両親からお願いされてるからね。居酒屋なのにご飯だけ~とかって気にしないで、これからも食べに来てよ。むしろ来ないと、ちゃんと食べてるかなぁって心配になっちゃうしさ」
由利さんが言った『居酒屋なのにご飯だけ食べにくること』を実は結構気にしていたのだけど、こうしてにこやかな、見惚れてしまうほどの晴れ晴れとした笑顔で言われてしまっては、厚意に甘えさせてもらうしかない。
「……ありがとうございます」
「うんうんっ」
僕の返答に満足そうに頷く由利さんを見て、心が温かくなる。
地方から出てきて一人暮らしをしている身として、こうして身近に心配をしてもらえる存在がいるというのはとてもありがたいことだった。
――そもそもまだお酒を飲めない年齢の僕が、こうして居酒屋でほぼ毎日ご飯を食べているのはなぜなのか。
大学へ通うにあたって一人暮らしをすることになり、引っ越し作業を家族総出で行った。
それが終わり、最後に家族でご飯を食べよう、となった時に入ったのが、僕の部屋から割とすぐのところにあった由利さんのお店だった。
その時はまだ時間が早かったこともあって店内に他にお客さんはおらず、調理を終えて手持ち無沙汰になった由利さんと両親が話し始めた。
が、そこから何がどうなったのか。あれよあれよという間に両親と由利さんが意気投合。帰る頃には、僕に格安でご飯を食べさせてくれるという謎の協定が結ばれていた。
金額も五百円だし、僕が食べている間はただでさえ少ない席を一つ占有してしまう。由利さんにとってメリットなんてないはずなのに。
どうしてそこまでしてくれるのかを聞いてみたことはあるけど、はぐらかされて理由は教えてもらえなかった。
「ところで由利さん……『また』って聞いたんですけど」
「うっ……」
由利さんがカウンターの中に戻ろうとしないので話しかけるチャンスだと思い、ふとさっき聞いたことを指摘すると、それまでにこやかだった由利さんは苦虫を嚙み潰したかのような顔になった。
由利さんの取り繕いがひび割れ、また暗い雰囲気が顔を覗かせる。
彩さんが言ったことを信じていなかったわけではないけど、その反応から本当なんだな、と理解した。ちくり、と心にまた新たなトゲが刺さる。
「いくらなんでも焦りすぎ――」
「うっ、うるさいなぁっ! こっちはもうすぐ三十路なんだよぉっ!」
僕の言葉を遮って、由利さんが発した心からの慟哭に、店内全ての目が由利さんに注目する。
突然のことに目を丸くしている客もいる中、由利さんのことをよく知っている幾人かの常連さんは皆、苦笑いをしている。さもありなん。
「……てーんーちょー? 注文溜まってるんで、男と別れたからって早速逆ナンしてないで働いてもらえますぅー?」
「ちょっ、ちょっと彩ちゃん! お客さんの前でなんてこと言うのっ! もぉー……じゃ、じゃあ大貴くん、ごゆっくり」
由利さんの慟哭により店内の空気がおかしくなる中、忙しそうに動き回っていた彩さんがこちらへ恨みがましい目を向けて、低い声音でそう言ってきた。怖い。
弄られて顔を真っ赤にした由利さんは、逃げるようにカウンターの中へと戻っていった。
お客さんの前でどえらいことを言ったのはあなたもです、由利さん。もうすぐ三十路なの、気にしてたんですね……。
慌ただしく動き始める由利さんから視線を外し、背筋を伸ばしてきちんと座る。
手を合わせて、いただきます、とこうしてご飯を食べさせてくれる由利さんに感謝して、ちゃんと声に出して言う。
そして、まずは今日のメインである豚肉のしょうが焼きから手を付ける。うん、今日もおいしい。
食べながら、ちらり、と働く由利さんのことを見る。
幾度となく見てきた、真剣な表情をして調理に励むその横顔。それはとても美しくて、どうしようもなく胸が高鳴る。
僕は由利さんに恋をしていた。
好きな人の手料理が食べられる幸せを文字通り噛みしめながら、僕は今夜もきちんと平らげるのだった。