5
すれ違いざまに声をかけてくる人々に上の空で応じながら、マグダレーネは足早に会場の出口に向かっていた。
(私の仕業だとばれたかしら、まずいわ…)
王族に薬を盛るのは大罪だ。あくまで最終手段のつもりで持ってきていた。自信家のマグダレーネはそんなものを使わずともイグナーツを落とせる、と思っていたのだ。
父である公爵からも、王弟を狙えと焚き付けられていた。年齢の問題で国王の婚約者候補にはなれなかったので、標的が王弟になるのは当然のなりゆきだった。権力に固執する父の思惑を置いても、イグナーツはあらゆる面でマグダレーネに相応しい相手だと思えた。
多くの貴族令息を侍らせていても、王族であり外交能力も高く評価されており、容姿も優れたイグナーツとは誰も勝負にならない。勇んで夜会に乗り込んだものの、イグナーツの参加が遅れると聞いて仕方なく暇を潰す対象を探したのだった。
そうして見つけた相手…アルブレヒトは時々マグダレーネを囲む令息たちに混ざっていたが、伯爵家という身分もあり積極的なアプローチを受けたことはなかった。それに乗じてマグダレーネも相手にすることなく傍に居ることだけを許していたのだ。女性たちに人気があり、垂れ気味の目に色気がある美形のアルブレヒトを近くに置くのは気分が良かった。
…そのアルブレヒトが、今夜は令嬢をエスコートして現れた。初々しく清涼感のある令嬢はマグダレーネよりいくらか年下のようだったが、数年前であってもマグダレーネにそのような雰囲気はなかった自覚がある。それがなんとなく不愉快だった。
令嬢から離れて青年たちの輪に入ったアルブレヒトを追い、周囲に気付かれないよう合図を送って庭園で落ち合った。マグダレーネに恋されていると思い込んだアルブレヒトは有頂天になり、笑い出したくなるほど呆気なく落ちたのだった。
令嬢との仲を気まぐれに引き裂いたことでマグダレーネの機嫌は回復し、その後も適当にあしらっているうちにイグナーツが現れたと知ってさっさと放り出してきた。
(…出遅れたせいで、あの女にみすみすイグナーツ様を盗られるところだったわ)
イグナーツとコンスタンツェが睦まじく話しているのを目の当たりにし、マグダレーネはあっさり媚薬を使う決心を固めた。昔からぼんやりして鈍感な女だった。皆の話についてこられないことに同情して、イグナーツが相手をしてやっていたことも気付かない。マグダレーネが親切に教えてやったおかげで、最近はわきまえていたと思ったのに。
(それが失敗するなんて…。全部こぼれてしまったのならまだ良かった。別の人間の口に入るなんて計算外だわ。…少量だから症状は出なかったかも…いえ、あれは特別強力な異国の媚薬。王族でも抗えないように、いちばん効果のきついものを選んだのだから…。もしも発覚したら、私が手に取る前に誰かがグラスに仕込んだのだと訴えてみるのはどうかしら。私に嫉妬したどこかの令嬢の陰謀だと、泣いてみせれば…)
「失礼、マグダレーネ嬢。少々お時間をいただいても?」
考えに沈んでいたマグダレーネがはっと顔を上げると、目の前で宰相の息子であるフォルカーが微笑みを浮かべて立っていた。
──イグナーツの肩で跳ね返ったブローチが、マグダレーネのきっちり巻かれた金髪に絡み付いていることに、二人とも気付いていない。
他に気付いた者はいたのだが、声をかけられてもマグダレーネはろくに聞くこともなく通り過ぎたのだ。焦りから違和感をおぼえる余裕もなかった。
「まあ、フォルカー様。夜会に出席されるとは珍しいこと」
瞬時に公爵令嬢らしい品格をまとい、優雅に礼を取るマグダレーネにフォルカーは丁寧に応じる。「不躾で申し訳ないが、二人だけでお話したいことがあります。よろしければあちらで」と庭園につづく扉を示す。
(媚薬の件…ではなさそうね。フォルカー様はイグナーツ様の側近でもないし、先ほどまでこの場に居なかった。おそらく話は別のことだわ)
ならば変に警戒するより、堂々としているほうが良い。フォルカーに導かれるまま庭園に出る頃には、マグダレーネはやや楽天的な気分を取り戻していた。
(これまで隙がなくて諦めていたけれど、フォルカー様から誘ってくださるなんて…お近付きになれるチャンスだわ。イグナーツ様に関しては、今日のところは失敗したけれど…宰相の権力や将来を考えれば、お父様だって悪くない結果だと思うはず。私にとっても、美しくて頭脳明晰なフォルカー様と親しくなるのは願ってもないこと)
扉近くで立ち止まり、マグダレーネは自信満々でフォルカーに向き直る。
だがフォルカーが告げたのは甘い言葉どころか、衝撃的な事実だった。
「公爵…父君が捕縛されました。罪状は、密輸品や奴隷の競売の主犯です」
「…っ?!」
公爵家の裏稼業、秘密のオークションが暴かれたというのか。マグダレーネは蒼白になりながらも忙しく頭を働かせた。「そ、そんな、何かの間違いですわ。お父様がそんな恐ろしいこと…」
「残念ながら、証拠も揃っています。公爵家にも捜索の手が入っている」
(もう言い逃れは出来ないというの…?最近探りを入れられているとは聞いていた。だからこそ捜査を止めさせる権力が必要で…早くイグナーツ様を落とせと急かされていたのに…間に合わなかった)
こうなったら、自分だけでも無関係を主張するしかない。貴族でなくなるかもしれない未来に目の前が暗くなるが、罪人として裁かれるよりはマシだ。
「私は何も存じませんでした。もしも知っていたら、なんとしてもお父様を説得してお止めしましたわ」潤んだ目でフォルカーを見上げながら、身体が震えて立っているのもやっとという演技をしてみせる。
──身を震わせてみせたことで、ブローチはマグダレーネの髪から振り落とされ、植込みの土の上に音もなく転がった。
フォルカーはそんなマグダレーネを見ても動じる様子もない。
「屋敷も捜索したと言いましたよね?明らかに異国出身の若者や少年が使用人として働かされていましたが、マグダレーネ嬢は不審に思われなかった?」
浅黒い肌の野生的な美青年。金色の瞳の、精霊の末裔とうたわれた美少年。異国から攫われ商品にされた彼らを気に入り、競りに出す前に父にねだったのはマグダレーネだ。
「…父が外国の知人に頼まれ、戦災孤児を雇用したと聞いていました。それが嘘だったなんて…あの、母はどうしているのでしょうか?きっと私と同じくらいショックを受けているに違いありません。傍にいてあげたいのですが…」
「母君も取り調べのため王宮にお呼びしています。貴女にもいろいろ伺いたい。会場ではなくここでお話したのは、貴女の身分を慮ってのことです。高位貴族として冷静に、矜持を保って捜査にご協力いただけますね?公爵家のご令嬢なのですから…今のところは」
付け加えられたひとことに絶望しそうになるが、同時にあることに気付きマグダレーネの顔から完全に血の気が引く。
(瓶が…媚薬を入れていた小瓶が、まだ手元にある!)
このまま連行されたら処分する機会がない。イグナーツの件が発覚して、身体検査でもされたらすぐに見つかってしまう。瓶に残った成分を調べられたら公爵家の罪とは別に、マグダレーネも裁かれることになるのだ。
マグダレーネは深呼吸するふりをして、手首に意識を集中させる。ドレスの袖に細工をして、小瓶を忍ばせてあった。媚薬を仕込む時見咎められないための工夫だ。
「…少しだけ、気分が落ち着くまで…お待ちいただけますか?」
黙って見守るフォルカーに気付かれないよう、マグダレーネが慎重に小瓶を袖から手の中に移し、握りこんだ…その時、
「フォルカー様!こちらでしたか!」
扉が開き、男性の声がしてフォルカーが顔を向ける。
(今だわ!)
マグダレーネは姿勢を変えず、手首だけを素早く振って小瓶を背後の植込みに放った。土の上であれば音もせず、呼ばれた声に気を取られているフォルカーが気付くわけもない…はずだったのに。
背後でちりん、と澄んだ音が──小さいがよく響く音がした。
「…ん?なんの音だろう。この辺りから…おや、これは」
音に反応し、即座に小瓶を拾い上げたのはフォルカーではなく、話しかけてきた男性の方だった。その顔を見て、マグダレーネは今度こそ絶望する。
イグナーツの代わりにワインをかぶったその青年は、マグダレーネと小瓶を見比べて言った。「…なるほど、証拠を隠滅しようとしたんですね。マグダレーネ嬢」
「エリック、どういうことだ?その瓶は?」
「王弟殿下に媚薬を盛ろうとしたんですよ。まあ失敗して僕が味見する破目になったんですが」
中和剤が効いて助かりました、と笑うエリックの説明を聞き、フォルカーの表情はこれまで以上に冷たく変わっていく。
「オークションの商品には、異国の禁制薬物もありましたね。…マグダレーネ嬢、貴女への気遣いは必要なかったようだ」
…騎士が呼ばれ、マグダレーネは庭園の奥へ…王宮での取調べのため連行された。
扉のそばに残り会場内を見回していたエリックとフォルカーが「あれはマリー…?どうして一人で…シュークリームのタワーに挑戦してるんだ?」「ん?…あの令嬢は…君の知り合いか?」というやり取りをしていたが、放心状態のマグダレーネの耳には届かない。
(なんであんな音がしたのかしら…。何か金属のような、硬いものに跳ね返ったような…)
小瓶を跳ね返したのがなんだったのか、最後までマグダレーネが知ることはなかった。
読んでいただき、どうもありがとうございました!