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渋沢栄一の言葉

 深呼吸して新鮮な酸素を取り入れたあとは、「心の燃料ゲージ」に、やる気という名のガソリン(ハイオク)を注入!

 

 先人の言葉たちに背中を押されて、前に進みましょう!



 学問は一種の経験であり、経験はまた一種の学問である。


    ―――渋沢栄一(日本の実業家)



 若い頃から夢を持ち、思い描いた目標に邁進し、日本経済を成長させる大人物とまでなった渋沢栄一。

 夢を持つこと、目標を持つこと、ひいては「欲」を持つことが大事だと説き、「無欲は怠慢の基である」と言っています。


 渋沢栄一は、染物の染料を作って売る裕福な家に生まれ、徳川将軍最後の徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)の家臣として働いたそうです。


 徳川慶喜の弟の徳川昭武(あきたけ)が1867年にパリで開かれた万博に出席することになり、渋沢も同行してフランスへ。

 ヨーロッパに実際に訪れて、産業の発展や経済の仕組みを目の当たりにしたことが、その後の渋沢の人生に大きく影響を与えたと言われています。


 このフランス滞在中に、江戸時代が終わって、翌年から「江戸」は「東京」へと名前が変わります。

 明治新政府は江戸時代の厳しい制度を無くしたり、西欧文化を積極的に取り入れて産業の近代化を行うなど、様々な改革に努めました。


 フランスから帰国した渋沢は、そのまま新明治政府で働くことになります。

 2014年に世界遺産に登録された群馬県の「富岡製糸場」の設立にも関わりました。


 その後も、渋沢は鉄道、印刷工場、不動産、ガス、電力会社、ホテル、病院、造船業……500以上もの会社の設立や経営に関わったそうです。

 私の大好きなサッポロビールやキリンビールも、元の会社は渋沢が興したもの。晩酌で恩恵にあずかっております。ありがたや。


 ちなみに、日光東照宮の「東照宮」と大きく書かれた石柱は、渋沢栄一が書いたものだそうですよ。

 東照宮は、江戸幕府を作った徳川家康を祀る神社ですが、1915年(大正4年)、徳川家康没後300年のお祭りで、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜に仕えた人物として、渋沢は忠義を尽くしてこの文字を書いたそうです。


 さて、渋沢栄一といえば、7月3日から発行された新紙幣に肖像画が使われた人物。


 発行から一週間経ちましたが、皆様のお手元に新・一万円札の「渋沢栄一の肖像画」、回ってますでしょうか?

 私はまだ見ていません。

(普段、電子マネー決済ばかりで、リアルマネーに触れる機会、あまりないですもんね)


 1871年(明治4年)、渋沢はまだお金の種類がバラバラだった日本で、「新貨条例」というお金の制度作りに関わりました。

 現在の国立印刷局にあたる部所の初代トップとなり、日本初の近代的なお札である「明治通宝」の発行にも携わっていたのです。

 日本最初の銀行の設立者でもあるし、昔から、お札と「縁」がある人、だったのかも。

「エン(円)」だけに、とか言ったりして。


 今日も元気にいってらっしゃいませ!


 そして、少しでも「心のメーターの針」がぴくんと動いたら、評価をお願いします!


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