チェルカの涙
「クロ、ビス……」
親友のマリナまでラビニアの魅了の犠牲となり失ってしまったチェルカの前に、久しぶりに近くで接するクロビスが現れた。
そしてクロビスは王宮敷地内の中庭で一人蹲るチェルカの側にやって来る。
「丁度良かったチェルカ。君に会いたいと思ってたんだ」
「え?」
『会いたい?
クロビスは今、わたしに会いたかったと言ったように聞こえたけど……』
チェルカは自身の耳を疑った。
王女の魅了に染まって以来、日を重ねる毎にクロビスはチェルカのことなど忘れてしまったかのように振舞っていた。
ラビニア王女の一番のお気に入りだと評されるクロビス。
実際に王女はどの取り巻きの青年たちよりも多く、長く、そして近くにクロビスを側に置いていた。
チェルカは警戒心を強くしてクロビスに言う。
「……何か用なの?」
「用ってほどじゃないけどさ……なに?何か怒ってるの?あ、もしかして僕が全然チェルカに構ってあげてないから?」
「もうクロビスに構って欲しいなんて思ってない……お願いだから婚約解消して……」
チェルカは不毛な会話を続けるのも苦しくなって蹲ったまま俯いた。
「なんだよチェルカ、いつも元気なチェルカらしくないじゃないか!ほら、そんな所にしゃがんでいたら風邪を引くよ?」
そう言ってクロビスは突然手を引いてチェルカを立たせた。
チェルカは立ち上がって即座にクロビスの手を払い除ける。
「もう、触らないでっ」
「えっ……チェ、チェルカ……どうしたんだよ?」
いつものほほんと穏やかなチェルカのはじめての拒絶にクロビスは面食らっている。
「やっぱりなんか怒ってるのか?」
「怒ってるもなにもっ……もう嫌なの。忘れ去られたように相手にされない婚約者でいるのが……お願いだから婚約を解消して……!」
「イヤだよ。なんで?言ってるだろ?僕はチェルカも好きなんだよ?」
「でも王女殿下の方が好きなんでしょ……?」
「それはもちろん!」
「じゃあ婚約解消でいいじゃない。もう破棄でもなんでもいいから……」
「何で?ワガママ言わないでよチェルカ」
「ワガママじゃない!クロビス、わたし達の関係はもう終わりよ……今まで大切にしてきた信頼はもう消えてしまった」
「僕はチェルカを信用しているよ?」
「わたしがクロビスを信用できないの。第一わたしと婚約を解消したら、あなたの大好きな王女様がお喜びになるわ。もしかしたら結婚して貰えるんじゃない……?」
「ははは。何言ってるの?一国の王女と伯爵家の次男坊が結婚なんて出来るわけないじゃないか。それにラビニア様は誰とも結婚しないんだって。誰とも結婚せずに、僕たちみんなと仲良く暮らしたいんだって。だから僕はチェルカと結婚できるよ」
ここまで話が通じないなんて。
何をどう話しても堂々巡りな会話に、チェルカは辟易とした。
それでなくても今日はマリナのことがあって気持ちがいっぱいいっぱいなのだ。
もうこれ以上意味の無い会話を繰り返す胆力は今のチェルカには無かった。
「……この話はまた今度改めてしましょう……わたしねクロビスのお父様、アラバスタ伯爵にお会いするためにそちらの領地に伺おうと思っているの。クロビスと話しても埒があかないなら、もう直接伯爵に婚約解消をお願いするわ。男爵家の娘から伯爵に婚約解消の直談判なんて普通なら有り得ない事だけど、非常事態なんだから仕方ないわよね……」
「うーん……でも父上は僕に魔力のある女の人と結婚して欲しいと願っているからなぁ。僕たちの関係が悪くても、アラバスタ家に魔力のある子供さえ生まれればいいと考えてるかもしれないよ?」
「……魔力を持つ女性でいいならわたしじゃなくてもいいじゃない」
「だからぁ、僕はチェルカがいいって言ってるだろ」
だめだ。
また堂々巡りの話に引き戻ってしまっている。
とりあえずこの場をさっさと立ち去ろう。
チェルカはそう決めてクロビスに挨拶をしようと彼の方に向き直った。
「悪いけど、仕事中だからもう行……」
が、いつの間にかクロビスがチェルカとの距離を詰めており、驚くほど近くに立っていた。
「クロビス?」
クロビスの青い瞳の虹彩が鮮明に見えるほど。
クロビスの吐息がかかるほど近くに。
「え、」
いきなりの至近距離に呆然とするチェルカの両肩を、クロビスの大きな手が包み込んだ。
そしてクロビスは、
チェルカにキスをした。
突然唇を塞がれてチェルカは硬直する。
当たり前だチェルカにとって初めての口づけなのだから。
婚約者同士、スキンシップで頬や額に軽くキスをすることはあったが、唇を合わせるのはこれが初めてであったのだ。
「っ……!?」
ハッと我に返ったチェルカが慌ててクロビスの胸を押して体を引き離す。
チェルカは訳がわからず頭がパニックになった。
「な、な、なぜいきなりキスをっ!?なんの脈絡もなくなぜっ!?訳がわからないっ!」
チェルカは酷く狼狽えながらもクロビスを責め立てて、そして問う。
対するクロビスは平然として答えた。
「なぜ?なぜって?そりゃキスしたかったからさ」
「ク、クロビスは王女殿下が好きなんでしょっ……それなのになぜこんなっ……こんなっ……」
「それはチェルカの事も好きだからさ、キスの練習をするならチェルカとがいいなぁと思ってたんだ。だからチェルカに会いたいと思ってたんだよ。丁度会えてよかった!」
「……キスの……練…習……?」
その言葉に唖然とするチェルカとは裏腹に、頬を染めて照れくさそうにしながらクロビスが言った。
「ラビニア様がね、そろそろ僕になら唇を許してもいいとおっしゃってくれてね?それなら絶対に上手くキスをしてラビニア様を喜ばせたいだろ?だからその前に練習したかったんだ」
「……うそ……でしょう?そんな理由で……?」
チェルカが呆然自失になりながらもそう言うとクロビスは唇を尖らせて文句を言った。
「そんな理由って何だよっ、僕とラビニア様にとっては一生に一度の大切な事なんだから!」
クロビスの、その言葉の全てが、なんだかチェルカには遠く感じた。
「もういい。……クロビスなんか大嫌い……消えて、お願いだからわたしの前から消えて……」
「なんだよその言い方は!もういいよ、僕は怒ったぞ。謝って来たって許さないからな!」
「…………」
チェルカはもう返事をする気力すら無くなってただ胡乱げな瞳でクロビスを見ていた。
腹を立てた様子で去って行く婚約者の背中を、ただ虚しく。
もう、限界だった。
母を亡くしてからずっとずっと、懸命に頑張ってきた。
でもその中でいつも励ましてくれて優しく寄り添ってくれたのがクロビスとマリナだった。
その二人を今日、チェルカは同時に失った。
「うっ……ふっ……うぅ……」
熱くて冷たい涙がチェルカの頬を濡らす。
どんなに大変でも辛くても、チェルカは今まで決して泣かなかった。
泣いたらもう立ち上がれない気がして。
弱い自分を認めてしまう気がして。
だから必死に泣かずに頑張ってきた。
だけどもう、それももう……
「もうだめっ……もうこれ以上っ…頑張れないっ……!」
チェルカは一人、中庭に立ち竦み両手で顔を覆って泣き続けた。
やがて膝に力が入らなくなり、糸が切れた操り人形のように地べたに座り込んでしまう。
「うっく……ひっく……」
一人ぼっちで声を殺して泣くチェルカ。
その時、そんなチェルカの名を呼ぶこえが聞こえた。
「……チェルカか……?」
「っ……?」
聞き覚えのない声だった。
だけどどこか懐かしい、そんな声。
両手を顔に当てて泣いていたチェルカがゆっくりと手を離し、声の主の方を見る。
するとそこには西方大陸で最高位の魔術師のみが着る事を許される、漆黒のローブに身を包んだ一人の青年が立っていた。
その青年はチェルカを見て、顔をくしゃりと歪ませてつぶやくように言った。
「ああ……チェルカ、……チェルカだ……!」
栗色の髪に深い深い、夜のような漆黒の瞳。
端正で整った顔立ちにも既視感があったが、何よりもその黒い黒曜石のような瞳に、チェルカは見覚えがあった。
『まさか……まさかそんな……、』
静かに涙を流しながら呆然と見つめるチェルカを見てその青年が言った。
重く、地を這うように低い、冷たい声で。
「誰だ……?」
「……え?」
「誰がお前を泣かせた……?
誰がそんなにも悲しい顔をお前にさせた……?」
青年はチェルカの涙を見て怒りの色を滲ませている。
「待って……、その前にあなた、もしかして……」
チェルカは目の前の青年が本当にその人物なのか確かめたくて、涙を拭うことすら忘れて一心にその瞳を見つめた。
青年はそんなチェルカの視線から目を逸らさずに、静かに怒りを含んだ声色で告げる。
「チェルカ、言ってみろ。お前を泣かせた奴の名を」
「……あなたまさかっ……」
「チェルカ、誰だ。お前をそんなに泣かせた悪い奴はどこに居る」
「ロ、ロア?あなた……ロアなのっ?」
慌てて立ち上がるチェルカがそう言うと同時に、辺りの空気が一変するほどの怒気を発して青年が叫んだ。
まるで王宮中に聞かせるかのように。
自分の存在を知らしめるかのように。
「チェルカを泣かせた奴ぁっ、
どこのどいつじゃあっーーーッッ!!!」
その瞬間、凄まじい怒号と共に強大な魔力が王宮中に轟いだ。
地鳴りにも雷鳴にも似た轟音が辺り一帯に鳴り響く。
彼の名はロア・ガードナー。
かつてチェルカが通っていたハイラム王国の小さな街にある精霊魔術塾の仲間で、
大賢者バルク・イグリードの唯一の弟子である。
ナマハゲの正体は、
アルトの兄(爺)弟子のロアくんだったんだな☆
※関連作品『もう離婚してください!なろう版ifエンド』の最終話。
ちびっ子ロアくんが登場してますよ。
ナマハゲ登場記念として、
幼いチェルカとロアのイラストをXにポストします。
もしよろしければ覗いてみてくださいませ♪