序章
私を一人とはんぶんぐらい足した程の上背のある偉丈夫は、指先を針で刺してしまった時にぷっくりと溢れる鮮血のような瞳で私を見据えている。
美しい艶やかな黒髪は、男性にしては長く、無造作に一つに縛ってある。
余計な肉を削ぎ落としたような筋肉質な体を、胸元を大きく開けた白いシャツと袖の長い黒い上衣で包んでいる。
黒い上衣には、赤い炎の鳥の刺繍が為されていた。
「お前が、王国から来た人間か」
低くよく通る声が、私を呼ぶ。
私は膝を曲げて、スカートを摘んで私の国に則った礼をした。
「はじめまして。アンネリア・ユーヴェルハイムと申します、ジゼルハイド・オグニアス様」
謁見の間の椅子は、煌びやかな広間に置かれている。
天井からは四角いランプがいくつも吊り下がっていて、蝋燭も立てられていないのに光っている。
ジゼルハイド様の座る椅子の背後の壁には大きな円形の格子窓があり、複雑な模様と共にこちらも鳥の姿が描かれている。
まるで、月の上を優雅に鳥が舞っているかのようだった。
柱も壁も装飾が多い。黒と、金と、赤。
そんな色に取り囲まれた空間に立っていると、少々目眩を感じる。
「お前たちは、……カブトムシを食べるのか?」
「食べないわよ!」
これが私と、ジゼルハイド様の出会いである。
◆◆◆◆
結婚願望というものが、私は昔から乏しかった。
私の生まれたエルジェリア王国の男性たちは、女性のように嫋やかなことが美徳とされている。
特に貴族や王族ともなるとそれが顕著で、馬に乗って弓を持って野うさぎを追い回すよりも、猪や熊を狩ることよりも、スキンケアと髪のトリートメントに夢中という有様だった。
もちろん美しいことは悪いことじゃないけれど、同年代の男性の薄い胸板や細い腕を見るたびにため息をついてしまう。
美しさと煌びやかさの塊のような王太子殿下に貴族の娘たちは憧れを抱いていたようだけれど、私は違う。
もし結婚するなら、できることならもっと、体格が良くて男らしい騎士のような方が良い。
そんな方はエルジェリア王国には滅多にいないし、ユーヴェルハイム公爵家長女の私が騎士の方に嫁げる確率はわりと低いので高望みしてはいけないのだけれど。
貴族の婚姻は基本的には政略結婚である。
だからそのうち結婚相手が決まるでしょうと考えていた。
まさか十八歳になるまで誰も相手が決まらないなんて、思ってもみなかった。
「……私の何がだめなのかしら。家柄は問題ないわよね、お兄様。容姿だって、そんなに悪くないわよね、お姉様」
五年前に、私のお兄様であるアンジールは、エリカテーナ侯爵令嬢と結婚している。
アンジールお兄様とエリカテーナお姉様が暮らしている愛の巣である公爵家に、もうとっくに嫁いでも良い年齢である私は、居候している状態である。
エリカテーナお姉様は二人目の子供を孕っていて、一人目の子供であり私の甥子のエルジエル君は天使のように可愛い。
エリカテーナお姉様もアンジールお兄様もとっても良くしてくれているし、ずっとユーヴェルハイム公爵家にいて良いって言ってくれているけれど、やっぱりそういうわけにはいかないと思うのよ。
「うん。アンネリアは美人だと思うよ。私に似て」
「そうですね、アンネリアさんは美人だと思います。アンジール様にそっくりで」
みんなで揃って昼食をいただいている時に私が悩みを相談すると、お兄様とお姉様はにこやかに言った。
美しいの基準がお兄様なのがおかしいと思うの。
確かにアンジールお兄様は美しいのだけれど。
銀糸のような髪は光にあたると七色に輝く虹ができるし、アメジストのような瞳は神秘的で、肌もきめ細やかで白い。
すらりとした細身の長身で、足を組んで座っているだけで絵になるような方だ。
結婚する前は、アンジールお兄様が視線を送っただけで、女性たちが卒倒するとまで言われていたし、実際卒倒していた。
エリカテーナお姉様はどことなく素朴で愛らしい方である。
本当は私のような小姑が一緒に暮らしていて邪魔だと思っていても良いはずなのに、本当の姉のように良くしてくれる。
「アンネリア、僕と結婚しよう」
四歳になったばかりのエルジエル君が、にっこり微笑んで私に言った。
すごくきゅんとする。
でも四歳の子と結婚の約束をするわけにはいかない。甥だし。
四歳の少年に結婚できないことについて心配されている私って、どうなの。
「ありがとう、エルジエル君。気持ちは嬉しいけれど、アンネリアお姉さんは危機感を感じているのよ。十八歳にもなって結婚していないのは、私ぐらいのものなのよ」
エルジェリア王国での結婚適齢期というのは、十六歳から十七歳ぐらい。
十五歳までに婚約者が決まるのがごく一般的である。
私の知り合いやお友達たちは、ほぼほぼ既に嫁いでしまった。
「アンネリア、僕がアンネリアをもらってあげるよ。ところでお母様、お魚を残しても良いですか」
「駄目ですよ、エルジエル。生き物の命をいただいているのだから、食べなければいけません」
お魚を残して良いですか、という言葉が私の胸に突き刺さる。
残り物の私。残された魚のようなもの。
そのうち結婚できるでしょ、などと言っていられたのは今年のはじまりぐらいまでだった。
六月に誕生日を迎えてしまった私は、さすがに危機感を感じている。
「アンネリアは、結婚したくないのだと思っていたよ」
「そういうわけではないわよ。そのうち婚約者が決まるでしょうって思っていただけなのよ。政略結婚が、普通でしょう」
「私の娘のようなアンネリアを、政略結婚の駒に使うなんて……」
アンジールお兄様が悲しげに言う。
お父様とお母様をご病気で早くに亡くしてしまった私を育ててくれたのは、確かにお兄様だった。
大切にしてくれているとは思っていたけれど、そんなふうに思われているなんて知らなかったわね。
「アンネリアは結婚したくないと思っていたから、婚約の打診が来ても断っていたのだけれど。私の一人目の娘として、ずっとここにいて良いんだよ、アンネリア。エルジエルもアンネリアと結婚すると言っていることだし」
「うん。僕が十五歳になったら結婚しよう、アンネリア」
「すごくすごくありがたいんだけど、流石にそれは駄目なのよ。こんな可愛いエルジエル君に、残した魚のような私を貰ってもらうわけにはいかないわ」
「そんな、残した魚なんて……アンネリアさんはとても美しいですわ。ご兄妹が並んでいる姿など、まるで絵画のよう。毎日芸術品を見ることができて私は嬉しいです。結婚なんて無理にしなくて良いから、一緒にいましょうアンネリアさん」
エリカテーナお姉様が、ゆっくりとした口調でにこやかに言った。
みんな私に甘くて優しい。
ずっとここにいたら私は駄目になってしまうわよ。
あっという間に相手を探すことも難しい年齢になってしまう。
本当にずっと居候している私を見て、今はこんなに私に好意を抱いてくれているエルジエル君に幻滅されたら堪らない。
「お兄様、お姉様、エルジエル君。ありがとう、本当に嬉しいわ。でも、できることなら結婚したいと思っているのよ」
「そうか、それは知らなかった。アンネリアの望みは、叶えてあげたい。できるだけ理想通りに。結婚相手の理想などはある?」
お兄様が少しだけ寂しそうにしながら、尋ねてくる。
「できれば、体格が良くて筋肉質で、私を片手で抱き上げて肩に乗せて歩けるような大きな方が良いです」
私は早口で答えた。
お兄様はしばらく考えてから「それは、伝説の巨人だね。とりあえず、国王陛下に相談してみるよ」と言った。
それからしばらくして、私は国王陛下に呼ばれた。
私とお兄様は、謁見の間ではなくお城の客室にお兄様と共に通された。
そこには王太子殿下から最近国王陛下になったばかりの、私にとっては幼馴染のような存在のジュード・エルジェリア様が待っていた。
「アンネリア、君は結婚したくないのだと思っていたよ」
ジュード様は、いつもきらきらしている大輪の薔薇の幻が背後に見えるような方だ。
その煌びやかなジュード様は、お兄様と同じようなことを私に言った。
「でも、ちょうど良かった。君にぴったりの結婚相手がいる」
「ぴったり?」
「そう。隣国のオグニアス皇国の、炎帝ジゼルハイドが、我が国から花嫁を一人選びたいと言っていてね。若い娘たちは炎帝を怖がって、結婚相手など絶対嫌だと言うんだ」
炎帝ジゼルハイド。
その名前は、この国の者たちなら誰でも知っているぐらいに有名だった。
エルジェリア王国とオグニアス皇国は同盟国のような位置づけであるものの、オグニアス皇国の方が国土が広く国力も強いため、実質属国のようなものなのである。
オグニアス皇国に住むのは竜人と言われる種族で、私たちよりもずっと体格が良いし、竜に変化して空を飛ぶことができる。
ジゼルハイド様が炎帝と呼ばれるのは、炎を吐く竜だからだと言われている。
化け物だと、この国の人々は思っている。
だから聞き分けのない子供などに「炎帝がくるよ」と言うと、すぐに泣き止むのだ。
「アンネリア、嫁いでくれる?」
ジュード様は嫋やかな容姿に似合わず、有無を言わせない迫力がある。
確かに私は体格の良い方が良いと言ったけれど。
まさかこんなことになるなんて、思っていなかった。
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