32:卒業式
――夜は、抱き締められた心地を思い出しながら、眠りにつく。
――朝は、抱き締められていた夢から覚める。
好きだとただ伝えるのが、こんなにも難しい人に恋するなんて、思ってもいなかった。
***
「明日、琥太君の卒業式が終わったら、お母さん達そのまま百日法要に行ってくるから」
「え? 明日って……琥太君の誕生日やん」
受験も終わり、自由登校な故にのんびりとし始めた琥太郎とは対極に、卒業式シーズンの美容業界は忙しい。
深夜近くに疲れ果てて帰ってきた早雪に、同じくげっそりとした顔で典子が告げた。
誕生日と卒業式が重なり、ダブルでおめでたい琥太郎が「誕生日祝ってもらいたい年でもないよ」と典子の横で笑っている。
新米の早雪は休みなど取れるはずもない。てっきり、典子と昭平が卒業&誕生祝いをしてやるのだとばかり思っていた早雪は狼狽えた。
「お祝いしてあげたかったんだけどね……どっちの誕生日とも不幸事が重なって、ごめんなさいね」
「仕方ないよ。気にしないで」
「気にするわよ。特に今回は、節目の十八歳なんだから」
早雪はドキリとする。節目という言葉を使うということは、母も勿論知っているのだ。成人年齢が十八歳に引き上げられたことを。
めでたいことなのに、なぜだか後ろめたい気持ちになり、早雪は慌てて話題を変えた。
「百か日、私は行かんくっていいの?」
「あんたにとっては、おじいちゃんのお姉さんだからねぇ。気持ちだけでいいわよ。私は可愛がってもらったり、お店建て替える時もね。随分助けてもらったから――。店はスタッフに任せて、お昼過ぎから顔出してくるわ」
「皆によろしくね」
しばらく会っていない親族の顔を思い出してそう言うと、母は「りょうかーい」と頷いた。
「そっかぁー。中学生だった琥太ちゃんも、いよいよ高校を卒業するのねぇ」
しみじみと典子が呟く。
この家に最初にやって来た頃の琥太郎を思い出しているのだろう。早雪も、玄関を振り返った。
早雪と同じ身長だったくるくるもじゃもじゃの琥太郎が、あのドアから入ってきた瞬間を、早雪は今でも覚えている。
無頓着な容貌に反して堂々としていた男の子は、思えばあの頃からずっと、恋でなくとも早雪をときめかせていた。
「お母さん達、急いで帰ってきた方がいい?」
じーんと思い出に浸っていた早雪の隣で、典子が琥太郎に話しかけた。その声は、何故かうきうきとしている。
「お付き合いもあるだろうし、ゆっくり帰って来なよ。夜道の運転、気をつけてね」
「いいお誕生日になるといいわね」
典子が琥太郎にウィンクをする。その古い仕草を笑いながら、早雪は風呂場へと向かった。
***
校庭の賑わいが、開け放たれた窓から風と共に入り込み、教室のカーテンを揺らす。
天気に恵まれた高校生活最後の日。
教室の黒板はカラフルなチョークで彩られていた。窓から差し込む日差しが、一面に描かれたチョークの粉をまぶしいほどに照らす。
今日ばかりはとクラスの垣根を越え、違うクラスの生徒同士で集まっている。
卒業式を終えた生徒らは様々な表情を浮かべているが、おおむねが晴れやかな笑顔だ。
「四組寄ってく? 夏帆さん達が寄せ書きしてるって」
夏帆とLINEでやりとりしている拓海が、琥太郎に尋ねる。
「俺はいいよ。タク、行ってくる?」
「一人で女子ん中入る勇気ないわ」
生徒がバタバタと行き来する廊下を、琥太郎と拓海が並んで歩く。
二人とも、手には何も持っていない。卒業証書の入った筒も、卒業アルバムも、学生鞄も、セロファンで包まれたチューリップも、既に親に渡して持って帰ってもらっている。
拓海も琥太郎も県内での進学を選んだが、大学は違う。こんな風に校舎の中を二人で歩くのも、今日が最後だろう。
先ほどまでひっきりなしに、琥太郎のもとに女子がやってきていた。そのたびに写真を撮らされていた琥太郎をちらりと見た拓海が、また顔を引き攣らせる。
「……ほんとに何度見ても引くわ、その制服」
「俺もびびってるよ」
かろうじで服は勘弁してもらったものの、琥太郎の制服に付いていた装飾品の類は全て奪われている。
ブレザーからYシャツまでの全てのボタン、名札、校章ピン、ネクタイがなくなった琥太郎は、Yシャツの中に着てあったTシャツが完全に露出していた。
一・二年でクラスが一緒だったギャル度の高い福澤らならともかく、三年生の進学クラスになって一緒になった大人しい女子や、普段話すことのない女子まで緊張した面持ちでやってくるのだから、無抵抗になるしかない。
「三年間、結局一個もバレンタイン受け取ってくれなかったんだから。って、凄い理由だよな、あいつら……」
「クラスチョコはもらったんだけどな……」
「カウントしないんだろ」
「タクは、今年は早川さんに貰えてよかったね」
「ほんとにな」
二年の秋に出来た恋人夏帆と拓海は、仲良くやっている。ほんの時たま喧嘩もするようだが、喧嘩するくらいに腹を割れるようになったのだろう。
夏帆と拓海が付き合い出した経緯を知っているため、どんどんと本物の恋人になっていく二人が微笑ましかった。
誰さんと誰くんのどんな関係も、一つとして同じかたちはない。
少し歪で変わった恋が上手くいっていると、自分の恋愛の背を押してもらっているような気になる。
「クラス会は顔出すんやろ?」
「そうだね」
「返事しとくわー」
拓海がスマホを操作する。その間にも「あっ、コタロー君!」とシャッターチャンスを狙う女子らが琥太郎に駆け寄ってくる。
愛想笑いを浮かべた琥太郎は「撮るよー!」の声に、スマホのカメラに視線を向ける。
(中学の頃、クラス会には誘われもしなかった)
あの頃は強がりでなく、本気で行きたいとも思わなかった。
(なのに、変われるものだな……)
高校最後の日に、高校生活を共にした友人らと特別な思い出が欲しいと、琥太郎も思っている。
こんな風に変わるきっかけをくれたのは、早雪だった。
数組の女子と写真を撮った琥太郎は、「コタローありがとうねー!」と手を振る女子らにひらひらと手を振り返しながら、ぽつりと拓海に言った。
「――卒業式、絶対少しも、しんみりしないつもりだったんだけど」
「わかる」
スマホで連絡を取っていた拓海は顔も上げずに、けれど食い気味に返答した。
「ね」
「な」
窓枠に両手をかけた琥太郎と、もたれ掛かっていた拓海が、顔を見合わせて低く笑った。
「見ーっつけたーっ! コタロー!」
廊下の端から、女子の大声がした。福澤、小堀、樋口だ。
同じクラスだった時は、その騒がしさに疲れることもあったが、今日でお別れかと思うとなんだか感慨深い。彼女達の明るい笑顔や強引にクラスに引き入れようとする賑やかさに、なんだかんだで助けられていた。
しかし、好きな相手には素直になれないのか、樋口と小堀には、拓海や嘉一への好意を隠すための緩衝材として、まあよく使われたものだ。
他人に勝手にいいように利用されて、嬉しいわけもない。きっと早雪を好きになる前の琥太郎なら、嫌悪感も露わにしていたに違いない。
けれど今は、未熟な自分や、柔らかい恋心を守りたい弱さもわかる。
長い人生でいくつかする内の、たった一つの恋。
大人はきっとそんな風に言うけれど、そのたった一つにどうしようもなく身を焦がして、無惨に破れてしまえば息の根が止まってしまいそうなほど切なくなってしまう。
そんな弱さがわかるからこそ、彼女達の視線の先に誰がいるのか知らないふりが出来るし、多少自分という存在を雑に扱われても優しく出来る。
そう――琥太郎は早雪を好きになって、人に優しくなった。
「コタロー! もう十分他の女子に貸してやったよねー!?」
「もううちらの番でいいやろー!?」
「えーん! コタロー! 今日でお別れとか淋しすぎる無理ぃー!」
樋口、小堀、福澤が涙を滲ませながら駆け寄ってくる。ドーッンと三人で琥太郎に飛びついてきた。そんな彼女らを受け止めるのも、今日で最後だ。
「みんなが最後まで元気で、嬉しいなぁ」
メイク直しをしてきたあとのある彼女らの顔を見て、琥太郎は笑った。嘘偽りなく、本音だった。
淋しいと言いたい相手も、抱きつきたい相手も、琥太郎ではないだろうに。別れの悲しみを化粧と笑顔で覆い隠し、微塵も見せずに強くあろうとする彼女達を、いじらしくも思う。
明日から彼女達は、琥太郎という壁がないところで頑張らないといけない。妹なんていないのに、なんだか兄のような気分になって、彼女達の恋を見守っていた。彼女達はこれから、勝ち目が薄い恋に泣くのだろうか。頑張るのだろうか。このまま逃げ続けるのだろうか。
「もぉやだ。コタロー大好き……!!」
「クラス会、カラオケやろ? そっちのクラスに絶対行くから! 横に他の女、絶対座らせとかんでよ!」
「うちらのコタローなんやからね!」
琥太郎は笑った。
どうかこの先の彼女達が笑っていたらいいなと、素直に思った。
「タクー! 琥太ー! 二組どこー?」
廊下の向こうから、声をかけられる。そこには、クラスメイトに囲まれた康久がいた。
いつものように、琥太郎に構う女子らを静かに見守っていた拓海が、声を張って答える。
「カラオケ!」
「まじ? 俺聞いたとこ、今んとこ全部カラオケなんやけど! 一緒行こーぜ!」
田舎にカラオケはもちろん一軒しかないため、必然的に皆同じカラオケボックスへ行くことになる。康久に拓海と琥太郎が頷くと、それまで拓海にしがみついていた福澤らが慌てる。
「あっ! うちらも行く!」
「鞄持って来るから、門で待ってて!」
「置いてったら鬼電するから!」
バタバタと慌ただしく女子らが廊下を走っていく。
琥太郎は康久に手を上げて、また拓海と並んで廊下を歩き出した。








