18:チョコレートの甘い罠
恋になればいいと、思ってはいた。
ただ、何に対してもそれほど深く心を動かされたことがない自分と、恋なんて不確かなものは、無縁だとも考えていた。
そんな拓海にとって、夏帆の提案はひどくありがたかった。
恋をしていない罪悪感を持たなくていい上、一生に一度ぐらいはやっておきたかった男女交際の経験を積ませてもらえるなんて、願ったり叶ったりだ。
だから、夏帆には最大限優しくしようと思った。
それがいつしか、優しくしたいと思うようになっていた。
誰よりも、自分が、夏帆に優しくいたかった。
***
「ごめんね! 助かりました!」
LINEで泣きついてきた夏帆に教科書を渡した、次の休み時間。六組の入り口近くの廊下で、眉を下げられるところまで下げた夏帆が、拓海の教科書を両手で突き出していた。
「んや。夏帆さん、忘れもんとかしなさそうなんにね」
ポケットに片手を突っ込んだまま、拓海は教科書を受け取る。教科書の四隅は折れ、薄汚れている。夏帆に貸すことになるのなら、もう少し綺麗に使っておけばよかった。
「そうなの……高校入って初めて忘れ物して……。もーテンパってたから、拓海君が助けてくれて本当よかったー」
困った時に最初に自分を思い浮かべてくれて、頼ってくれて、嬉しい。拓海は夏帆の頭をポンポンと叩いた。
「俺のでいいならいつでも借りに来て」
「ほんとに? いいの?」
「いいよ。つか、彼氏やし」
免罪符のように「彼氏」と使えば、夏帆がホッと体の力を抜く。真面目な夏帆は、よほど失敗し慣れていないのだろう。もし今後また同じ失敗をしても、拓海を頼ればいいとわかり、安心したようだ。
そんな大ごとでもないことを、脱力するほど喜ぶ夏帆が可愛くて仕方がなかった。
慎重に観察し、嫌がっていないことを確認しながら頭を撫でていると、むんずと夏帆に掴まれた。ビクッと固まる拓海の手を、夏帆の細くて華奢な両手が包む。
そのまま下ろされ手を放されるのかと思いきや、夏帆は拓海の片手を両手で掴み、二人の間で振り子のようにぶらぶらと振りながら会話を続けた。
「今度の土曜、出かけられるんよね?」
「――…………ん。夏帆さん、どこ行きたいか決まった?」
「いっぱいありすぎて! 拓海君、いいとこいっぱい探してくれてるんやもん。あそこよかったし、ここもよかったし、あっちも行きたい。今度はこことここにして、次はあっちとそっち行ったりさ――」
拓海の手を揺らしながら、夏帆は興奮してまくし立てる。
自分がしたことで思った以上に喜んでくれている。
微笑ましく見つめていた拓海は、しかし途中で苦笑を浮かべた。そんな拓海に気付いた夏帆が言葉を止める。
「どうかした?」
せっかく笑っていたのに、また眉を下げ、焦った表情を浮かべる夏帆に拓海は首を横に振る。
「んー、いや。あと二回で行けるかなって考えてた」
「?」
「俺、日曜はどっちもバイト入ってるから。一緒に街まで行ける日、クリスマスまであと二日しかないやろ?」
夏帆はぽかんとして拓海を見上げた。
拓海は教科書を脇に挟むと、繋いでいない方の手で夏帆の頭をぽんぽんと叩く。
(この顔……クリスマスまでって忘れてたな)
拓海が指折り数えて意識していることを、夏帆は全く意識していない。それが好意の差なのだと、嫌でも認識させられる。
拓海は早く、このお試し期間が終わって欲しかった。
この期間の間に夏帆に好きになってもらえれば万々歳だが――好きになってもらえずとも、クリスマスの日に思いを告げるつもりでいた。
これほどお試し期間を楽しんでいる夏帆に今すぐ思いを告げ、焦らせたり、罪悪感を植え付けたりしたくない。けれど、クリスマス後もずっと、この宙ぶらりんなままでいいと強がることも出来なかった。
(夏帆さんにも、好きになってもらいたい)
そのために何をすればいいのかはわからずとも、頑張るしかない。根性論など大っ嫌いなはずなのに、拓海に出来ることといえば、頑張ることのみだった。
「イチャついてんなよ」
夏帆が両手で繋いでいた拓海の手を、教室から出て来た嘉一がチョップする。夏帆は顔を赤くして、パッと両手を放した。
「早川ぁ。心、教室いる?」
「い、ると思う」
「あそ。恥ずかしがるくらいなら、人おらんとこでやれよ」
げんなりした顔で言った嘉一は、さっさと廊下を歩き出した。いつの間にか嘉一が「心」と名前で呼び捨てていることに気づき、ついその後ろ姿をじろじろと見てしまう。
夏帆は先ほどまで拓海の手を握っていた両手を、赤くなった自分の頬にあてている。
「ひぃ。廣井君、私にも容赦なくなってきたね。ドキドキしちゃう」
照れ隠しなのか、いつもより少し早口で夏帆が言った。
「え? ムカムカやなくて?」
「なんか、仲間認定してもらえたみたいで嬉しい」
拓海君もやけど、男子って男子にしかしない顔あるやん。と照れた顔で見上げる夏帆を、猛烈にぎゅっと抱き締めたくなる。そんなものに憧れずとも、夏帆も拓海にとって大事な位置にいるのだと、伝えたくて仕方がない。
「……びっくりした。夏帆さんMなんかと。俺、夏帆さんにきついこと言えんし、嘉一に乗り換えられたらどうしようかと思ったわ」
「拓海君、女の子に優しいもんね」
「言ってるやろ。夏帆さんに優しいんだって」
「ひぇー! 私の彼氏本当に最強……!」
こういう反応は、夏帆のいつもの調子だとわかっている。
それなのに、彼女を好きになってからというもの、こちらの好意に気付いて混ぜっ返しているのではなどと、臆病風が吹く。
気にならなかったことが気になって、弱気な自分も増えた。そんな自分に気付かれたくなくて、拓海はなんでもないふりをする。
「そうだ。夏帆さん、食う?」
「え? ――わ! 美味しそう。絶対好き」
拓海がポケットから取り出したチョコレートを、食べる前から好きだと言い切るところが可愛い。今朝コンビニで弁当を買う際に見かけ、夏帆が好きそうだからと買っておいた拓海が報われる。
「あ、それさゆちゃんが美味しいって言ってたやつだ」
「コタロー君」
教室のドアからひょっこりと、琥太郎が現れる。琥太郎はじぃっと、拓海の手の中のチョコレートを見つめていた。
「琥太も食ったん?」
「残念ながら、一つも」
「ほら」
「ありがとう」
琥太郎に渡すと、にこりと微笑まれる。個包装を解いている琥太郎に、夏帆が尋ねる。
「さゆちゃんって、噂のコタロー君のお姉ちゃん?」
「うん、そう。俺の義理のお姉さん。噂って、どんな噂なの?」
「あ、ごめんね勝手に、本人のいないところでぺちゃくちゃと。ええっと、コタロー君を劇的に高校デビューさせた、カリスマ美容師って聞いたことがあって……」
「あはは」
姉のことを思い浮かべているのか、いつもよりもずっと柔らかい顔で笑う琥太郎に、夏帆がほんのりと頬を染める。面白くなくて、夏帆の分の個包装をほどき、夏帆の口元にチョコレートを押しつける。
夏帆は少し驚いたものの、親が運んできた餌をぶんどる雛鳥のように従順に口を開く。
チョコレートを口に入れた夏帆は、パッと笑みを浮かべると、拓海にぐっと親指を向けた。
「美味い?」
「めっちゃ美味しい。やっぱり大好き」
「ならよかった」
琥太郎の物言いたげな視線を無視して、もう一つ夏帆のために手に取る。
「まだ入れてくれるの?」
あ、やばいかも。という拓海の直感は当たった。
「入れて、舐めたい」
拓海は目にも留まらぬ早さで包装を解くと、夏帆の口にチョコレートを突っ込んだ。
「夏帆さん、それもぐもぐしてて」
「?」
拓海に言われた通り、夏帆は口を閉じてもぐもぐとする。拓海が琥太郎をちらりと見ると、いつも笑みを浮かべている顔を引きつらせていた。
首を寄せ、小さな声で耳打ちする。
「絶対、変な想像すんなよ」
「そりゃしないけど……」
琥太郎はちらりと夏帆を見た。以前食堂でも、夏帆の奇跡的なワードチョイスで男子らを固まらせたことを思い出しているのだろう。
「珍しい特技だよね」
物は言いようだ。拓海は渋面でこくりと頷いた。








