30:一番可愛いかっこしてきて
「よっ」
二月某日。
入試を終え、受験した大学の正門から出た梨央奈は、ぎょっとして立ち止まった。門の外に、我が物顔で立つ万里がいたのだ。
案の定、通り過ぎる女子高生がみんな振り返っている。梨央奈は慌てて万里の腕を掴むと、道の端に寄った。
「ななななにして」
「何してって、俺んちそこやし」
ここ通ってる大学だし。と、まるで近くのコンビニに来ましたと言わんばかりの顔で言われ、梨央奈はため息をつく。
確かに万里にとってはその通りなのだろう。近所に梨央奈が来たから会いに来た。たった、それだけのこと。
(でも、それだけのことで、ほっとして……泣きそうなくらい嬉しいんやもん……)
ずっ、と鼻を啜った梨央奈に気付いた万里が、梨央奈の腰を引く。自分の大きな体で包むように抱き締めて、ポンポンと頭を叩いた。
「梨央奈。お疲れ様」
慈しむような優しい声に、梨央奈はぶるりと体を震わせた。緊張でキリキリしていた精神が、ゆっくりと落ち着いていく。
悔しいことに、涙がこぼれ始めた。
絶対に見られたくなくて顔を埋めると、万里の胸に顔をすり寄せるかたちになってしまった。けれど万里は梨央奈に突っ込むことも、からかうこともなく、梨央奈の背をゆっくりと撫で続けている。
(一人やったら、余裕やったのに……)
泣く予兆など、一切なかった。一人で大学を出て、電車に乗って、地元まで何の不都合もなく帰れたはずだ。
なのに万里に会った途端に――大学の建物にも、他の受験生にも、正念場にも、問題にも、会場の寒さにも、電車にも――全てに緊張して、本当は心細かったことを自覚させられた。
(会ったのが、試験受けたあとでよかった)
試験を受ける前にこんな精神状態になっていたら、とてもではないがまともに鉛筆を持つことすら出来なかった。
すんすんと鼻を啜る音が小さくなってきたのを察したのか、万里は泣き止んだ梨央奈に声をかける。
「今日も塾行くんやろ」
梨央奈はこくんと頷いた。
「送ってってやる」
万里がそう言って、当然のように梨央奈の手を引いた。
手を引く万里に、梨央奈はとぼとぼとついて歩く。連れて行かれた大学の駐車場に見慣れた車を見つけ、いつものように助手席に乗り込んだ。
いつの間にかほっとしてしまうほど、この車にも慣れていた。
車が発進し、外の景色が変わっていく。
「お祝い何がいい?」
スーパー探せば、まだ牡蠣あるかもな。と運転しながら言う万里に、梨央奈は返事を出来なかった。
「梨央奈?」
すぐ隣から、優しい声で名前を呼ばれる。
梨央奈は両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、目をぐるぐるとさせた。
(――い、言わなきゃ……)
二人きりの空間と、受験を終えた事実に、梨央奈は突然の激しい焦りに襲われる。
(受験……終わっちゃったから、言わなきゃ)
琥太郎と話してからは呪文のように「受験が終わったら」と言い訳をしていたが、その言い訳がいよいよ出来なくなってしまった。
生唾をごくりと飲み込んだ音がいやに響く。
(――言わなきゃ。二人きりだし、終わったし、頑張んなきゃ――だから……今)
「梨央奈?」
赤信号で車を止めていた万里が、梨央奈を覗き込んでいた。梨央奈は驚いて顔を仰け反らせる。
「どうした。どっか寄り道するか?」
前にもそうやって、万里が梨央奈を心配してくれたことを思い出す。
『なんかあった? 友達と喧嘩した?』
あの時も、万里と親しい女性に嫉妬して、梨央奈が今のように空回っていた。
勝手に一人でぐるぐるとしてしまう梨央奈を、責めるでも、問い詰めるでもなく、万里は綺麗な夜空を見せてくれた。
(そういうところが、好きで……)
梨央奈はぎゅっと拳を握りしめる。
(だから、私が頑張らないと、いけんのんよ)
「――清宮さん」
「ん?」
「い、今」
「うん」
「……か」
「か?」
「……彼女、いますか?」
青信号に変わったため車を発車させた万里は、まるで野良猫を警戒させないため細心の注意を払っているかのように、ゆっくりと返事をした。
「……いない」
片手でハンドルを握り、片手で自分の顎をさすりながら万里が、おもむろに口を開く。
「ようやくか」
感慨深そうな、しっとりと吐息に濡れた声だった。
梨央奈は目を見開くと、運転席の万里を見る。細い道に入ったため、万里は両手でハンドルを握り、車を動かしていた。
「梨央奈。明日、出かけよ」
この状況で明日誘われる意味を考え、梨央奈は口ごもった。
「明日俺にちょうだい。用事ある?」
そういう殊勝な物言いをされると、梨央奈が素直になれると知っていて、万里は甘えた声を出す。
「……ないです」
「なら迎えに行くから。一番可愛いかっこしてきて」
「……え?」
これまで、牡蠣を焼くための汚れてもいい格好や、部屋着や、ちゃんちゃんこ姿ばかりを見せてきた相手に、着飾った格好なんか今更恥ずかしくて見せられるはずがない。
ぽかんとする梨央奈を笑った万里が、前を向いたまま言う。
「俺、白が好き」
(は? 白を着てこいと?)
そんな風に言われたら、梨央奈は絶対に白を選べない。そんなこと、とうに知っているくせに、わざとのように万里は言った。
「んじゃ、明日な」
結局それから塾に着くまで、一言も何も言えなかった梨央奈を塾で下ろすと、万里は自宅へと帰っていった。きっと今日はもう、吉岡家には来ないのだろう。
「……ど、どうしよう」
梨央奈は受験の合否の不安も全て吹き飛ぶほど、明日着ていく服のことしか、考えられなくなっていた。








