相澤鹿ノ子は宇宙を知った
相澤鹿ノ子は、中学3年生の受験生である。
日々の暮らしは裕福とは言えないが、特許を持つ小規模な町工場の社長の娘なので、彼女を私立の大学に四年通わせる準備は整っているのだと聞かされている。
そのお金も、どこか仕事が滞り焦げ付けば解消するために手をつけられるのだろうと、両親の忙しさと、いままで何度も約束を反故にされた恨みから鹿ノ子は話半分に受け止めていた。
鹿ノ子はごく普通の少女である。
自分が特別だという思い込みは、先月ほどに捨てた。丁度中学2年生の頃合にかかる、自分が特別だと思い込む心理的な働きを恥ずかしく思う程度には、鹿ノ子は自身が体力も学力もさほどない、近所の公立高校に行くのが関の山の人物だと思い知っていた。
それでも僅かに燻る"特別な自分"が、鹿ノ子の意識を高い所に置いていた。
過度なラベリングは良い結果をもたらさないと知りながら、鹿ノ子は「男は」「女は」「親は」「大人は」「子供は」と知った口をきく。
勉強が不得意だというのに、わかったような口をきく。無垢な友人がかっこいいと言ってくれるのに優越感を感じながら、「いや、私は普通よ」といってみせた。
ごく普通の少女であるが故に、鹿ノ子は世の中によくある、徳の高いとは言えない行いに良く馴染んだ。
大人とてよく沈む沼に、子供が沈んでもよくある事の一つだろう。
そんなごく普通の少女である鹿ノ子は、ごく普通であるが故に受験勉強に行き詰まりを感じていた。
ある夜、これ以上はヒントが無いと無理だと悟った鹿ノ子は、明日勉強はできるが世の中の事は知らない無垢な友人に勉強を教えてもらおうと決めこんで、布団の中に潜りこんだ。
夏の夜であることもあり、ずっと勉強していた頭の奥がくつくつと煮えている。
疲れているのに考えようとしてしまう鹿ノ子の脳は、鹿ノ子が布団に入ってもずっと取り留めのない事を考えていた。
なぜ自分はこうも矮小な人間なのだろうか。
矮小な自分が普通であることは、なんとさみしいことだろうか。
なぜ人々は高潔ではいられないのだろうか。
なぜ人々は無垢ではいられないのだろうか。
普通である私が良くなれば、普通の基準をあげられるのだろうか。
今をより良くするにはいったいどんな人間になるべきなのか。
時はこの思考の際もこんこんとながれていて、認識した時点ですべて過去なのに、今も未来もどこにあるのだろうか。
そもそも思考も感情も、知覚までにラグがあるではないか。
全く自分の手に負えないところで産まれるそれらを、どうにかしようと思っても無理なのではないか?
思考の海は広がっていき、全ての根源を求め始める。海が広がるまぶたの裏で、鹿ノ子は不意に星々を見た。
ここはどこだろうと思った時には、鹿ノ子は宇宙にいた。永遠に暗く、熱も冷たさも遮るものの無い、物理的に訪れるには難しい場所。
鹿ノ子は思った。
ああ、そうか。意識だけならば誰だって宇宙に触れる事が出来たのだ。
意識の根源を求めて深く潜り、それでいてどこまでも高く俯瞰した鹿ノ子の今いるべき場所は一人の人間の脳ではなく、全てが産まれる可能性の坩堝、大宇宙なのだ。
普段は肉体に支配されているから、意識が広がることができなかっただけなのだ。
すべてを知るために、全ての可能性が漂う宇宙に鹿ノ子はその意識を広げていく。
今の鹿ノ子は意識であるから、電磁嵐のオーロラにも、恒星の熱線にも焼かれる事は無い。どこまでも広く、薄く、全てに触れる膜のように、或いは無限に巡らされる糸のように、鹿ノ子は宇宙に広がっていく。
意識の速さならば、宇宙の最外周にも触れられた。いまも最初の大爆発の初速度とともに広がり続ける宇宙は、その広がりと最初の速度に縛られていた。
本当ならば無限の速度を持つはずの光を毎秒おおよそ三十万キロメートルとしか定義できない理由に触れた鹿ノ子は、無限の意識であるはずの己が宇宙に縛られている事に気づいて、その外に飛び出した。
光子は宇宙の外にも散っている。大爆発の初速という縛りから解放された鹿ノ子は、はじめて光を追い越した。
鹿ノ子は広がり続けた。
意識の次元から物理の次元には行けなかったが、意識の次元から見れば物理の次元の事が手に取るように分かった。
一次元の線、二次元の面、三次元の奥行……それらで構成された世界しか知らなかったはずの鹿ノ子は、四本目と五本目の垂直軸を当たり前に感じ取っていた。
しかし、そこにあったのは悲しみだった。
「私は、たったあれだけの世界で苦心してたのね」
今はもう焦点を合わせる事にすら苦心するような、爆発の初速に縛られた宇宙。その中にある小さな銀河の更に末端。顕微鏡で観測する事すら難しい矮小な太陽に縛られた惑星の中。
そんなちっぽけなところの更に片隅で、別段欲しくも無い将来のために日々を無為に過ごしていた。
意識の次元にいるから物理には干渉できないが、それでも悲しみが彼女を襲う。
このままこの意識の次元にとどまって、本当の普通に……いや、普遍になってしまおうか?そんなことも思った。
だが、存在しない鹿ノ子の口元に浮かんだのは笑みだった。
「ふふっ、結局私は人間なのね」
宇宙の外も含めたすべてに広がり続ける鹿ノ子は、それでも"相澤鹿ノ子"のままだった。
鹿ノ子だって気づいていた。本当ならば、鹿ノ子は自分をとうに捨てて、何も考えず宇宙に広がり続ける無色の意識になっているべきだ。
これだけ広がって、これだけ知って、現実も空想も物理も死も異なる次元も異なる世界も覗き見る事が出来るのに、鹿ノ子が思うのは最初の思索の原因である己の人生であった。
不満に思っていようが何だろうが、そこから逃れる事は出来ない己に、鹿ノ子は改めて自分が普通の少女であることを思い知っていた。
起きよう。
鹿ノ子は広げていた意識を縮めていく。
知ったはずの根源が離れていく。初速に縛られた宇宙の片隅に、ブラックホールですらない物質型惑星の重力に、囚われていく。
戻ってしまえば得た神秘が失われることに鹿ノ子は気づいていたが、彼女にはもっと大事なことがあった。
自分の身体に重なり、脳に戻り、意識が体に馴染むたびに鹿ノ子の自我は薄まっていく。
眠りという肉体の状況に支配された意識は、ノンレム睡眠の理に埋もれて脳の奥深くの記憶をただひたすら整理する作業に従事していった。
目覚ましが鳴る前に、鹿ノ子は目をさました。
何か壮大な夢を見た気がするが、普通の少女で普通の脳みそを持つ鹿ノ子は夢の事をうすらぼんやりとしか覚えていなかった。
しかしその夢が、寝る前に大事な事を忘れていた事を教えてくれていた。
「夜食食べたのに歯を磨いて寝るの忘れてた……うぇ~」
口の中に違和感を覚えた鹿ノ子は、昨晩の己の乙女を捨てたかのような行動を嘆きながら、女子としての己を取り戻す為に洗面所に向かって行った。