九話
約束したあと、僕らは一緒に下へ降りた。彼は仕事、僕は庭へと別れた。
彼が何を見ていたのか。翔さんは、僕が暗闇がきらいなことを知っている。だからこそ、一緒に降り、何を見ていたか分からないようにしたんだろう。
アリスに言って、一緒に三階まで来てもらおうか。でも、どんな理由をつける? 翔さんのことを言えば、誓いを破ってしまうことになる。
芝生の上に仰向けになる。透き通るような高い青空を見ると、心まで透明に、清らかになるような感覚がする。肉体と魂が分離して、僕の意思だけが、小さな箱から抜け出して、空へと昇っていく。自由になる。
『消えない誓いをたてよう』
彼の言葉が脳で反響し、僕の魂が肉体に戻ってきた。
飄々とした彼には、やはり、何かしらの大きな秘密があったのだ。僕にとってたった一人の彼のことを、もっと知りたい。決行は、明日の昼過ぎにしよう。
その日の昼食、チーズ入りの卵焼きを溢してしまった。浴室で二度も床を滑りかけた。シャツのボタンをかけ違えたり、ズボンを前後ろ反対に履いたり。明日のことで頭が一杯で、目の前のことを疎かにしてしまう。
「大丈夫か?何か上の空みたいだけど」
地下へ下りる前に、アリスが尋ねてきた。彼女を不安にさせては駄目だ。「大丈夫だよ」と精一杯元気に言う。と、違和感が胸をよぎった。
いつも表情の変わらない彼女が、険しそうに眉を寄せている。どことなく目は虚ろで、息も荒い気がする。
「アリス、どうしたの? 気分悪い?」
「そんなことない。大丈夫だ……」
と、ふらりと倒れそうになる。目の前を手が伸びたかと思うと、翔さんが、彼女のからだを支えていた。
「アリスちゃん、顔色悪いよ」
「平気だ。ちょっと、目眩がするくらい……」
彼女の頬を汗が伝う。どう見たって、平気そうには見えない。
僕は最低だ。自分のことで一杯一杯で、大切な彼女がこんなに苦しそうなのに、全然気づくことができなかった。
「休んでていいよ! 僕、一人でも出来るから」
「しかし……」
彼女が何を不安に思っているか、僕は知っていた。
地下へ降りるまで、明かりはない。ランプの光だけが頼りだ。三階へと向かう階段と比べればとても短いものなのだが、一人で降りたことはない。
だが、明日は一人で決行するつもりなのだ。今日はその予行練習だと思えばいい。アリスを不安にさせないように、不安な気持ちを悟られないように、彼女の目を真っ直ぐ見つめ「僕なら大丈夫」と言った。
彼女はそれでも少し不安げだったが、「分かった。すまない」と承認してくれた。
「翔と二人で行ってくれ」
「いや、そんなんじゃ一人で歩けないでしょ! 僕は一人で大丈夫だから、翔さんは、アリスを部屋まで連れていってあげて」
「うん、分かった」
アリスが紙をポケットから出す。差し出す手は、少しだけ震えていた。
「健闘を祈る」
「任せて」
翔さんも、ぐっと親指を突き出してみせた。
僕ならきっと、大丈夫だ。
ランプの光が、行き先をぼんやりと照らす。
両側の闇が、僕をのみ込もうと手を広げているようだ。
一段、一段。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせて、ゆっくりと下りていく。邪悪さに取り込まれないように。僕はこの光と一緒で、闇のない、うつくしい心を持っている。闇にのまれることはない。大丈夫、大丈夫。
なんとか扉にたどり着いた頃には、息も絶え絶えだった。部屋のなかは明るい。扉を閉めて、ほっと息をついた。
*
終わったあと、アリスの部屋へと向かった。閉められた部屋のドアに、翔さんが寄りかかって立っていた。
「お疲れ、頑張ったね」
「ありがと。アリス、大丈夫そう?」
「うん。ちょっとお疲れ気味だったみたいだね。善意でシャツのボタン外してあげようとしたらさ、グーで殴られたよ。あの強さは元気な証拠だな」
翔さんが、じんわりと赤くなった頬をさする。その様子に笑いながら、安堵が心のなかにふわりと広がった。
━━その次の日、アリスが、消えた。