八話
それは、仕事当日の昼過ぎ。僕は、探偵にでもなった気持ちで、翔さんがいるであろう三階へと向かっていた。
この屋敷は三階建てで、一階にはリビングなど人が集まる所や(もっともほとんど来客はないのだが)、浴室、アリスや翔さんの部屋などがある。二階には僕の部屋、図書室、それからほとんど空き部屋だ。そして三階は、正直どうなっているのか隅々までは把握しきっていない。ほとんど使わないので、電球すらついていない、窓もない、薄暗い部屋が多い。アリスや翔さんが掃除してくれているみたいだから、きっと、埃っぽくはないんだろうけど。
アリスは買い物をしに出かけ、屋敷には翔さんが残された。でも探しても見当たらない。そこで、三階にいるのではないかという説が僕のなかで浮上したのだ。
暗い場所は苦手だ。どうして三階は、窓がこんなにも見当たらないのだろう。
一人で上がるのは怖いけれど、翔さんがいる、だから怖くない、と言い聞かせながら一段一段上がっていく。
階段を上がり終え、ふと、薄暗いなか明かりが溢れているのを見つけた。
それは淡くささやかな光で、階段から右に曲がって一番奥の部屋からのものだった。おそらく翔さんが掃除しているのだろうが、なんとなく、すり足で向かう。ごくりと喉が鳴る。
開いたドアから、そっとなかを覗く。がさがさという音。ランプが映し出す、床に散らばった古本や紙切れの山、棚を漁る人影。
振り返った人物の顔を、ランプの光が淡く照らす。鼻、唇、目。青白い肌の上に、浮きだった部分が暗く縁取られた。
声にならない悲鳴を上げる。足の力が緩くなり、その場にへたり込んだ。
「ちょ、大丈夫? 俺だよ、俺!」
彼がランプを自身の顔に近づけた。翔さんだった。
心臓の鼓動の速度が落ち着いてから、尋ねた。ここで何をしているのか。掃除ではない、というのは明白だった。掃除用具は持っていないようだし、というよりは、まるで何か探しものをしているようだったから。
翔さんは口をつぐんだままだ。答えてくれない。
「言えない? アリスに怒られるから?」
ずるい。何にも教えてくれないことも、薄暗がりのせいで表情がはっきり分からないことも。
翔さんは首を振ると、
「違う。その……今見たことは、アリスちゃんには黙っていて欲しい」
「どうして?」
翔さんは暫く考えたあと「深いとこまでは教えられないけど」と前置きした。
「俺がこの屋敷に来たのには色々事情があってさ。夏樹くんは勿論だけど、アリスちゃんにも秘密にしてる。誰にも言わない。これは俺の問題だから」
突き放すような言葉。けれど、そんなつめたい言葉とは裏腹に、口調はなんだか弱々しかった。
広いせかいを生きる彼に、秘密の一つや二つ、あったってしょうがない。
「分かった。……だけど」
大切なことは何も教えてくれなくても、秘密だらけでも、彼の正体が悪魔だとしても。翔さんは僕にとって、かけがえのない人だ。きっとそれが変わることはない。
「約束して欲しい。仕事、辞めないで。ずっと、ここにいて」
たとえその「事情」とやらが解決しても、どうか、そばにいて欲しい。
翔さんの目がきらりと光る。僕の手を、彼の指がなぞった。くすぐったいような、不思議な感覚が肌を走る。
「なあ、指切りって知ってる?」
小指と小指が絡む。ふと、本で見た蛇の絵を思い出した。強固に絡み合い、ほどけることのない蛇。解けない呪いの象徴。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲ーます」
「えっ何それ怖い……」
「や、そういうのがあんのよ。破ったら針千本飲む、そんくらいの覚悟で約束する。絶対に破らない。相手にそういう意気込みを示すわけ」
蛇のように絡む二つの指の向こうで、翔さんが真剣な眼差しを向けている。
「約束する。ここにいるよ」
「……夜遊びくらいは、別にいいよ」
なんだか気恥ずかしくなって視線を逸らす。翔さんが噴き出した。
「あんがと、そりゃ助かるわ」
指に力が入る。小指の先に赤く熱がこもった。
「夏樹くんは、俺の変な行動とか、やってることとか、今見たこととかを誰にも言わない。その代わり俺は、ずっとここにいる。助けを求められたら、助けてやる」
「誓って?」
翔さんが頷いた。
「消えない誓いをたてよう」
指がほどける。
ほのかに残るこの熱が消えても、誓いは消えない。それは、おとぎ話で男女がするような、ロマンティックなものではない。けれど、僕にとってこの呪いは、恐ろしいほど愛しく、うつくしいものに思えた。