七話
屋敷に戻ったあとは、九時過ぎまで自分の部屋で静かに過ごした。翔さんに、早く起きて屋敷を抜け出したことは誰にも言っちゃ駄目、と釘を刺されたからだ。それと、服を着替えることも命じられた。たばこの匂いが付着しているからだ。
部屋のなかで、翔さんのことを考える。
彼が救ってくれた悪魔なら、あの日、僕を絞め殺そうとしたのも翔さんだったのだろうか。あれは確かに、殺意だった。本気で僕を、殺そうとしていた。
だけど、不思議と怖くなかった。だって彼は、二度も僕を救ってくれた。「怖いなら、助けてやる」と、そう言ってくれた。それに、やさしい悪魔になら、殺されても本望だとすら思う。
春は朝食後、ちょっとゆっくりしたあとに帰ってしまった。別れ際、僕の手を握り締めて「またね」と言った。真っ直ぐな彼の目は、ほんの少し充血してみえた。
屋敷をあとにする前、彼が、アリスではなく翔さんに軽く会釈したのが引っかかった。気持ち悪い、などと言っていたが、何か心境の変化があったのだろうか。
話し相手がいないので、寝室でベッドに寝転がり、春からもらったCDを聴くことにする。ポップなメロディーと、女性シンガーの陽気な歌声が流れる。春が書いた和訳を見ると、なんとも対照的な暗い歌詞だ。
「よう」
ノックもせずに翔さんが入ってきた。咎めるのも諦める。彼はこういう人なのだ。
「なんかいい曲聴いてんね」
「仕事はいいの?」
「ちょおっと抜け出しただけよ。アリスちゃんは別の仕事してるから、バレないバレない」
ベッドに遠慮なく腰を下ろしてきた彼に、寝転んだまま、和訳の書かれた紙を渡す。
「女性の嘆きの歌だよ。愛する人は屑で駄目な奴だけど、好きだから何でも赦せてしまう。持ち物全てが彼が使うお金に消えて、最後には、彼女の自慢の髪まで売ってしまうんだ」
明るいメロディーが、逆に、哀しい歌詞を引き立てている。
「へえ」
「そういえば翔さんも、女の人たちからお金をもらってるんだよね。ほら、やさしくしてあげる対価としてさ」
屑だ、とわらうと、翔さんは冗談っぽくげんこつをつくって殴りかかるふりをしてみせた。
「そんな言葉覚えんなよ。てか夏樹くん、言うようになったな」
「そうかな。ちょっと仲良くなれた気がして」
翔さんは紙を返すと、「親愛の印に、教えてやろう」と窓に目をやった。
「その曲の主人公は、盲目的に、相手の人間に依存しているんだよ。だから、駄目だと分かっていても、尽くすことも愛することもやめられない」
「もうもく? いぞん?」
初めて聞く言葉である。
彼は、漢字を指でシーツの上に描きながら説明し始めた。ベッドが軋む。
「『盲目』とは、目が見えないことを言うんだけど。ここでは、目が見えないみたいに正常な判断ができなくなるくらい、愛してしまうって意味。それから『依存』とは、そうだな、これがなきゃ生きていけないってくらい、その対象に心を預けちゃうんだ。心を占めて、支配して、それを中心に自分のせかいが廻るんだ」
「それって、恋と同じ意味?」
同じような話を、本で読んだことがある。恋に落ちた生まれの違う男女が、親の反対から逃れるために駆け落ちする話だ。
翔さんは首を振ると、
「そうとも限らないな。これの意味は多岐に渡って……うわ、哲学的な話になりそ。俺、馬鹿なのにこんな話できる訳ねえわ、ごめん。あとは自分で考えて」
「自分で始めたくせに、丸投げだ」
悪かったな、と翔さんがわざとらしくむっとした顔をしてみせた。
彼が「そろそろ戻るわ」と立ち上がる。別れ際、彼のことを何か少しでも知りたくて、試してみたくて、「助けてくれてありがとう」と声を掛けてみた。
彼は振り返らないまま、ドアを開け、がちゃりという金属音とともに言葉を残した。
「鍵かけるなよ、助けようにも手間取るからな」
盲目的。依存。翔さんが教えてくれた言葉を考える。
僕は、アリスとはあまり話さないし、春や真由子さんとは度々会える訳じゃない。それに比べて翔さんとは、幾度となく会話を交わしている。それはとりとめもないものだったり、新しい知識やものの見方だったり、あるいは、僕の理解しきれない、意味ありげで不可解なものだったり。それに彼は、僕を救ってくれたことを認めた。
こんな特異な存在は、僕にとっては、翔さんがただ一人だ。それは、僕が生きることを赦されたせかいが、こんなにも狭いものだから。だけど翔さんは違う。翔さんは、広いせかいを生きている。きっとたくさんの人たちと繋がり、僕の知らない話をして、僕の知らない色んなかたちの関係を築いているんだろう。
それってなんだか、不公平だ。
まるで僕だけが彼を一方的に欲し、一方的に、盲目的に、依存しているみたいだ。
ベッドにうつ伏せになる。頬に触れるシーツのこの場所。さっきまで、翔さんが、言葉をなぞっていたあの場所。彼の残像までたどろうとしてしまう自分が、どうしようもなく情けなかった。
翔さんは、不思議な人だ。
彼がそれまでどんなふうに生きてきたのか、ここで働くようになった経緯は何か。そして、へらへらした笑顔を見せる一方で、ときどき、ちらりと悪魔の影が現れるのはなぜか。分からないなりにも、僕が知る僅かな情報を頼りに、彼はこんな人なんだとかたちづくるしかない。
けれどある日、それに、まったく新しい更新があった。しかも、それまでの彼への評価ががらっと変わるような更新が。