六話
アリスと春はまだ夢のなかだろう。足音を立てないよう、静かに屋敷を出る。窓から見たら、眩しい日の光を浴びることができたが、外はまだほの暗い。きっと木々に囲まれているからだろう。
「こんなに早く起きたのは初めてだろ」
「うん」
僕がまだ眠っているとき、既に夜は明けているんだ。目覚めたばかりの、生まれたての朝の空気を吸う。心まで透き通って、気持ちがいい。
そうだ。この庭を抜ければ、もっと朝の歓びを味わえる。
「ついてきて」
朝露に濡れた草花で滑りそうになりながらも、駆け出した。
行きつけの川は、今まで見たことがないような表情をしていた。水の流れが早い。その様は、まるで#生__せい__#を咆哮するかのようだ。
「こんなとこ、屋敷の近くにもあったんだな」
斜面を下りる。翔さんが手をかしてくれ、正直、よくここに来る僕にとっては要らない気遣いだったけれど、素直にやさしさに甘えることにした。
洗いそびれた顔を洗う。口をゆすぐ。手のひらに掬った水が、朝の光を纏っている。
「俺に聞きたいこととか、ないの?」
翔さんが、太陽を背にして平べったい石の上に立っている。金色の髪も、耳に光るピアスも、いつもより輝きを増して、まるで物語のワンシーンみたい。
「だって教えてくれないでしょう」
なぜ彼が、鍵をかけたはずの僕の部屋にいたのか。その疑問が沸くのは当然だ。
でもそれ以前に、翔さんは、彼自身のことを何も教えてはくれないのだ。疑問を持つのは今に始まったことじゃない。
シャツをめくり上げ、濡れた顔を拭こうとすると、翔さんがハンカチを差し出してきた。清潔そうなグリーンが、目にやさしい。
「……それ、綺麗なやつ?」
「失礼だな。女の子の部屋から盗んできた、それはそれは綺麗な……って嘘嘘、俺のやつだから。そんな目すんなよな」
へらへらしながら彼が言うことは信用できない。けれど、その肌触りと、大好きな花の香りは、アリスが洗ってくれたであろうことを証明していた。
礼を言って返す。その場に膝を抱えて座り込む。翔さんも、隣に胡座をかいて座った。
「まだちょっと暗いけど、こんなに早くにもう朝は来てるんだね。知らなかった」
「そうだよ。夏樹くんは朝寝坊かもね。俺は、五時とか六時とかに、ぱっと目が覚めるんだ。朝日が昇るのと一緒に起きるって、めちゃくちゃいかしてんじゃん?」
ま、寝るのは遅いんだけど。そう言うと翔さんは、ポケットから小ぶりのつぶれた箱を取り出した。その箱から、白くて小さな棒状のものをつまみ上げると、薄い唇でそれを咥え、ライターで反対側に火をつける。しゅぼっと、心地よい音。
離れた唇から、白い煙が吐き出された。焦げたような匂い。
「たばこっつうんだ。吸ってみる? なんちゃって。俺がアリスちゃんに殺されちゃう」
「気持ち悪くないの?」
隣にいる僕ですら、匂いにむせかえりそうなのに。咳き込まずに直接吸い込む翔さんを見ながら、なんだかこっちまで吸っているようで、気分が悪くなる。
「全然。最っ高だよ。これは俺の一部。無くなっちゃ生きてけない」
「そんなにいいものなの?」
「からだに有害なもんしか入ってないけど」
え、とからだが硬直する。翔さんがげらげらと下品な笑い声を上げた。ピアスといいたばこといい、彼は本当に理解不能な人だ。
「こうやって、すこーしずつ、ゆるやかに、命を削ってるんだ。この世なんてろくでもないだろ。どうせなら、気持ち良く、好き勝手してから死にたいじゃん?」
表面だけの薄っぺらい笑顔の下が、ほんの少しだけ、見えた気がした。
「僕も吸いたい」
目が合う。彼の唇からたばこが離れる。むせかえりそうな匂いが、僕の命を削っていく。
だーめ、と唇が言葉を形づくった。
「夏樹くんは、駄目だよ」
「なんで。なんで君が良くて、僕が駄目なの」
ろくでもないこの世。生きるせかいは違っても、僕のせかいだって、明けない夜みたいに真っ暗だ。こんなにも息苦しいのに。
目の奥がじんと熱くなる。彼の顔が僕に近づく。その目のなかに、僕の姿を捉えた。
「怖いなら、助けてやるから」
だから、ちゃんと、生きろ。そう言われた気がした。目が語っているようだった。
頬に触れる体温。そのあたたかさに、やっと、気づいた。
僕を救ってくれていたのは、翔さんだったんだ。