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楽園をいきたい罪深い僕らは、  作者: 猫田ノコ
夜のとばりと悪魔
4/10

四話

湯船に浸かる。このあとある仕事が、こんなに憂鬱なのは初めてだ。

やることは至極簡単なことなのに、あんなふうに翔さんに質問された日から、何かが喉の奥につっかえている。あの行為には何の意味があり、何をもたらすのか。なぜ僕がやらなきゃいけないのか。何も分からない。今までは、そんなことは気にしたことがなかったのに。

濡れたからだを拭く。まっさらなシャツとベスト、胸にはネクタイ。あの部屋は神聖な場所であり、仕事のとき僕は正装をしなくてはならない。神聖な場所、神聖な仕事と一体化し、僕もまっさらな人間になる。

地下へと続く階段の前で、アリスと翔さんが待っていた。


「アリスちゃんと一緒に、部屋の外で待ってるだけだよ」


僕の心を読むように、翔さんが言った。

階段は薄暗い。先頭を行くアリスが持つ、ランプの光が頼りだ。ゆっくりと降りていくと、やがて、目の前に扉が現れる。

扉を開けると、翔さんが、中を窺うように首を伸ばした。視線から逃れるよう、アリスから紙を受け取り、急いで扉を閉める。

一週間前と同じ、真っ白な部屋。椅子。カメラ。何にも変わらないのに、どうしてこんなにも胸がざわめくのだろう。

数字を読み上げながら、僕は、夕食のあと飲む薬のことを考えていた━━もう一錠、増やさなきゃいけない。



僕のからだのうえを、巨大な蜘蛛がはっている。

ぞろぞろと動かす無数の腕が、肌を直接撫で回す。悪寒が走る。助けて、と唇をうごかしかけたけれど、声が出ない。それどころか、呼吸すらままならない。

気づけば首を締められていた。胸の上に乗っかっているのは、人のかたちをした悪魔だった。僕のせいだ。僕が、清らかな人間じゃないから。

アリスを何度も何度も呼ぶ。彼女は来ない。誰も僕を助けてはくれない。必死にもがくけれど、首を締めつける悪魔の手は緩まない。圧倒的な悪意が、殺意が、僕を蝕む。抵抗を赦さない。されるがままな僕を、蜘蛛が嘲笑っている。


「助けて、アリス。翔さん。助けて」


声になりきれなかった息が、唇からひゅうひゅうと漏れる。 顔じゅうに熱が上って、今にもはちきれそう。すると突如、悪魔の手が緩んだ。

さっきまで僕を殺しかけた手が、今度は僕を包み込む。拍子抜けするほどやさしい。うまれた赤子を抱くように、宝物だと言わんばかりに。その変化と安心感に、なぜか涙が止まらなくなる。いつまでもこのやさしさのなかに溺れていたい。僕を取り巻く、この世の全ての苦しみから、どうか守って欲しい。

意識が、遠のいていった。



僕の朝は早い。

目が覚めたのは、十時ぴったり。リビングへ向かうと、翔さんがアリスに説教されていた。


「どうしたの?」

「聞いてよ夏樹くん!」


翔さんが駆け寄ってくる。アリスは呆れ顔だ。


「ちょーっと夜遊びしてきたくらいで、かっかしちゃってさ。何、もしかして嫉妬かな?あ、夏樹くん、夜遊びって言うのはね」

「おい黙れ。今日は、最近疎かになってる屋根裏部屋の掃除をしてもらう予定だから、しっかり寝てしっかり働いてもらわないと困るんだよ」


アリスによれば、翔さんは昨夜屋敷から出、女の子を口説きに出掛けたらしい。


「都会にいるギャルみたいなのはいないけど、田舎の女の子もなかなかかわいいね。あと、意外と積極的で、それもまたギャップが」

「いらんこと夏樹に吹き込むな。これ以上変なこと言うなら、今日の飯は抜きにするからな」

「それだけは勘弁!」


じゃあ今日は、翔さんは忙しいのか。川へ行こう、と誘うつもりだったのだが、仕方ない。せっかく天気がいいからもったいないけど、今日は本を読んで時間を過ごそう。

書庫は三階にある。本を数冊選び、はしごを上ると、日当たりのいい小さな空間がある。クッションが置かれ、目の前には大きな窓。運が良ければ、そこから羽を休める小鳥を眺めることもできる。

ここにある本はどれも、不思議な物語ばかりだ。神さま、天使、悪魔、怪物、魔法使い。文を読み、挿し絵を眺め、彼らや彼女らの戦いや恋愛、友情に思いを馳せる。

愛とはうつくしいものだ。悪や罪は制裁するべきだ。当たり前なことだけれど、どれも、ここにある本たちで学んだ。アリスはほとんど何にも教えてはくれないし、真由子さんや春に、あんまり質問するのも気が引ける。それに比べて本相手では、気を使う必要もない。


「おーい!」


ふいに、下から声がする。見れば、翔さんがこちらを見上げ、手を振っていた。


「休憩もらったんだけど、そっち来てもいーい?」

「い、いいよー」


おおこええ、と言いながら、翔さんがおそるおそるはしごを上ってくる。上に辿り着くと、ほおっと息をついた。怖かったのだろうか。


「すげえな。落ちたら骨折るやつじゃん」

「怖いとこ駄目なの?」

「や、別に怖くないし!へえ、本読んでんだー」


翔さんが積み上げた本を一冊取り上げ、ぱらぱらと捲る。と、びくっと肩が揺れた。


「ってこれ児童向けのやつじゃん!小学校とか中学校の図書室にあるやつじゃん、なついわあ。いっとき、俺の学校で、本読むやつがかっこいいってブームになってさ、一冊でギブアップしたわ。あ、意味分かってないね。ごめん、忘れて」


小学校、中学校、図書室。なんとなく聞き覚えのあるワードで、もう少し翔さんの昔の話を聞きたかったけれど、彼はそこでやめてしまった。

暫く二人で、静かに本を読んでいた。窓の向こうで、ちちち、と小鳥の鳴く声がする。「もう無理!」と翔さんが本をばたりと閉めた。


「こーゆーの苦手。愛の大事さとか、悪いことしたら駄目ですよーとか、説教くせえ。こんなんばかり読んでるから、夏樹くんは世の中のこと何にも知らないんだよ」

「おもしろくない?」

「うん、めちゃくちゃつまんない」


人それぞれ、好きなものも価値観も違うけれど、こうもはっきり否定されるとさすがに傷つく。

俯いたまま何も言えないでいると、翔さんが慌てた様子で「代わりに面白い話してあげるよ」と胸を叩いてみせた。


「俺の知ってるおとぎ話。とっておきのやつだぜ」


顔を上げる。聞きたい、と促すと、彼は嬉々として話し始めた。

それは、今まで読んできた、どの本の内容とも違うものだった。


あるところに、美人な女がいた。彼女を仮の名としてヨウコとする。彼女は容姿の整った男と結婚し、子宝に恵まれ、幸せな家庭を築いた。

男が仕事に出掛け、ヨウコが家の掃除をしていたある日、一人の女が尋ねてくる。ホウマンなからだつきをしていた彼女は、ヨウエンな雰囲気を漂わせている。ただならぬ予感がする。


「ホウマン?ヨウエンって、何?」

「や、そこはスルーしていいから。要するに色っぽかったんだよ」


女は家のなかに入ると、ヨウコに告げた。お前の夫はひどい人間だ。一人の女だけを愛することなどできない。それから女は、自分はヨウコの夫のアイジンであることを告げた。


「愛の人とかいて愛人ね。要は、男はすでにヨウコと結婚しながらも、別の女と愛し合ってたんだよ」


女のうまい口に乗せられ、ヨウコの怒りは女ではなく、男にだけに向かった。ヨウコは男を憎み、のちに殺してしまう。遺体の処理は、女も手伝った。彼の「被害者」として、意気投合したのだ。証拠がなく、目撃者もいない。ヨウコも女も、罪に問われることはなかった。


「ひどい話だね」

「これにはまだ続きがあるんだ」


実は女は、男の愛人でも何でもなかった。男は本当に出来た人間で、よく働き、妻を支え、妻だけを愛していた。それでもヨウコは男の愛を信じず、最後には彼を殺した。

女の目的は、ヨウコだった。近所に住むうつくしいヨウコに一目惚れした女は、どうしても彼女を手に入れたかった。女の唯一の武器であった、紡ぐ言葉の巧みさを利用し、ついにヨウコを手に入れたのであった。


「これで本当に終わり。怪物とか魔女とかより、人間が一番怖いっていう話。どう? 怖かった?」


初めて聞く、向こうのせかいのおとぎ話。魔法や化け物が出てこないからこそのリアリティーが、恐怖が、哀しみとともにねっとりと絡みつく。


「可哀想な話だね」

「へえ、誰が? 夫が、それともヨウコが? あるいは、女が一番可哀想だと思ったのかな?」


あ。また、あの顔だ。

きゅうと心臓が縮む。悪魔はまるで、僕を試し、裁いているかのよう。前みたいに、アリスはもう、助けにきてはくれない。負けずに、視線を逸らさず、口を開く。


「一番可哀想なのは、何にも関係のない子どもだよ」


その瞬間、彼のなかの悪魔が、嵐のように消えた。彼のからだに、一筋の光が音を立てて突き刺さるような、そんな衝撃が走ったのが分かった。

呆気に取られる僕と、小鳥の呑気な鳴き声。翔さんと視線が交錯しない。僕の視線から逃れるように、姿の見えない小鳥を眺めながら、「その通りだな」と翔さんが呟く。その声は、掠れていた。


どのくらい時間が過ぎただろう。翔さんが仕事中であったことを思い出す。


「休憩、終わりかな」

「あっやべ、アリスちゃんに怒られる!」


じゃあね、と翔さんが手を振る。はしごから金髪頭が見えなくなった、ちょうどそのとき、


「昨日の夜のこと、覚えてる?」

「え?」


昨日のこと。憂鬱な気持ちで部屋に入り、翔さんの言葉を考えながら、数字を読んだ。そのあとは? どう帰ったかも、夕食を食べた記憶も、薬を飲んだ記憶も、ベッドに横になった記憶さえ、なかった。


「夏樹くん、なかなか帰って来なくてさ。部屋んなかで倒れてたんだよ」


あれってさ、俺のせい? 翔さんがそう問う。答えられなかった。違うよ、と否定できなかった。


「ごめんよ」


何か言わなきゃ。身を乗り出したけれど、彼はもう、はしごの下辺りまで下りていた。するすると身軽に、さっき怯えて上がってきたのが嘘みたいに。

翔さんは、本当によく分からない人だ。弧を描いて湧く水のように、掴めない彼。よく笑い、ときに焦り、ときに恐ろしい悪魔になる。けれど、仲良くなりたいという気持ちに変わりはなかった。

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