三話
翔さんが来てから数日後、久しぶりに、真由子さんが遊びに来てくれた。仕事がお休みになったらしい。近くの川へ行くお誘いだ。翔さんも行きたがったけど、アリスが許可しなかった。屋敷の掃除を一緒にするみたいだ。
「あの子、どう?翔くんだっけ。ちゃんと働いてる?」
「うん。話し相手になってくれるし。ちょっとだけ仲良くなれたかも」
初めて会った日、彼に抱いた恐怖。あれはまだ心の端っこに残っている。けれど、それ以降は同じことをされていない。もしかしたら、アリスが何かしら注意をしたのかもしれない。
真由子さんにもアリスにも、大事な人に心配をかけたくない。にっこりと笑ってみせた。
「翔さんは、アリスちゃんのことが好きみたい。色んなこと聞いてくるし」
「あらまあ。たしかにかわいいもんね。日本人離れしたくっきりした顔、本当にうらやましいわあ」
「だけど、真由子さんも綺麗だよ。笑顔がとっても素敵だし」
そう言うと、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
「五十のおばさんにそういうこと言わないの!そんな真顔で言われると、返事に困る」
「だって、本当だから」
「ああもう!うーん、でも嬉しいわ、ありがとね!」
真由子さんが好きだ。いつも明るくて、やさしくて、豪快で。彼女と話すと、元気が出る。
川に辿り着く。光が溢れて眩しい。斜面をそろそろと下り、靴を脱ぐ。服も脱いで海水パンツの姿になると、水のなかに飛び込んだ。
日焼け止めはたっぷり塗り込んであるから、日焼けしたせいでアリスに咎められる心配もない。真由子さんは僕みたいに水のなかに入りはしないけど、大きくて平べったい石の上に座り、足を水につけてぼんやりしたり、透き通った川の水を掬って飲んだりする。僕もそれに倣って水を飲む。つめたさがからだじゅうを駆け巡る。気持ちがいい。
潜り疲れたので、真由子さんの隣に腰を下ろす。空はオレンジ色に染まっていた。
「翔さんにも教えてあげたいな。こんなに綺麗なとこ」
「今度は連れて来なさいな。アリスちゃんを説得してさ」
真由子さんお手製の麦わら帽子の隙間から、短く切った髪がそよそよと揺れる。
耳たぶ辺りにある光に、はっと、この前のことを思い出した。
「それ、何? 翔さんも付けてたんだ」
耳元を指差すと、ああこれ、と真由子さんが耳たぶに触れた。
「イヤリングだよ。翔くんのつけてたのはピアスだね」
「何それ」
真由子さんの説明は、うまれて初めて聞くものだった。自らすすんでからだに傷をつけるなんて、考えられない。そちら側には、そんなせかいが存在するんだ。
「お洒落の一つね。私のつけてるイヤリングっていうのは、穴をあけずに引っかけてるタイプのやつだよ。綺麗でしょ」
たしかに、綺麗だ。エメラルドグリーンの光が、目にうつくしい残像を残してきらめいた。
翔さんが来てから一番変化したことは、なんといっても食事だ。
白ご飯、パン、ステーキ、カレー、シチュー。初めて知る、初めて食べるものたち。どれもボリュームがあり、味が濃いものが多く、たくさんは食べられない。でも、白ご飯は気に入った。見た目もつやつやと綺麗だし、口にいれ咀嚼すると、僅かに甘いお米の香りを味わえる。
翔さんは、「味のないものは食べられない」と、決まって白ご飯は何かと一緒に食べたり、ふりかけという荒めの粉を振りかけて食べている。
それから、アリスがよく朝ごはんに出してくれていたものは、キャベツやレタス、トマトというらしい。玉子焼きという食べ物は、翔さんが唯一作れる料理らしく、彼が作り初めてから味が濃くなった。でも、なかなか美味しいものである。
まだ熱いごはんに息を吹きかけ、冷ます。
翔さんが、唐突に切り出した。
「一週間経つね。今日でしょ、夏樹くんの仕事」
心臓が跳ね上がる。来た、と心のなかで呟く。アリスは何も言わない。
「アリスちゃん、俺も部屋に入れて、夏樹くんの仕事してるとこ見ちゃ駄目かな」
「何の必要性がある?」
至って冷静なアリスの声。しかし、僅かに動揺の色が見えた。
「ただの興味。一応アリスちゃんに説明はしてもらったけど、いまいちよく分かんなくて。ね、夏樹くんが『仕事』してるとこ、見せてよ」
仕事、にアクセントを込めて、翔さんがこちらに目配せする。まるで、説得に加勢しろ、とでも言うかのように。僕の心で、それまで引っ込んでいた恐怖がまた、頭をもたげる。
「夏樹くんは、俺が見てても平気?」
平気な訳ない。だってこの仕事は、僕一人で遂行するものだから。
でもそう断れば、また、理由を求められる。あの悪魔の笑顔で、責め立て、僕を崖のふちまで追い詰める。
震えるな。腕をぎゅっと握り締める。爪が濃いピンクに染まる。何か言わなきゃ、と唇をうごかしかけたとき、「やっぱだめだよねえ」と翔さんが気の抜ける声で言った。
「こーんな部外者が見てても、迷惑だよね。それに、仕事には守秘義務とやらが存在するんでしょ?俺、今までバイトはおろか、働いたことないんだよね。だから知らないけど」
「お前、じゃあどうやって生きてきたんだ」
「翔くんって呼んでほしいな! んまあ、色んな女の子に養ってもらってきたね。やさしくしてあげる代わりに、美味しいものと眠る場所、それから遊ぶ金が対価!」
「屑だな」
「ひでえ!あっでもアリスちゃん、今度の恋は本気だよ?これが恋することなんだなって……」
「やめろ、飯が不味くなる」
いつもの雰囲気が戻ってきて、ほっと息をついた。
*
昼食を終え、食器を洗い場に戻す。 翔さんがテーブルを拭きながら「自分の食器洗いくらい、夏樹くんにさせればいいじゃん」と言った。
「手が荒れるだろ」
「どんだけ過保護なの。子供でも食器洗いくらいしてるでしょ」
「僕もそう思う」
仕事なのは分かるけど、少しくらい、アリスの負担をなくしてあげたいよ。というのは半分本音で半分口実。家事に興味があり、実はやってみたいと思っていたのだ。
アリスをじっと見つめる。彼女はおろおろと視線を逸らし、「でも」「これは規則違反だ」などとごにょごにょ不満を溢していたが、そのあと「分かったよ」と了承してくれた。
洗剤をスポンジに垂らし、くしゃくしゃと握る。泡が立ってきたら、皿の上で滑らせる。皿の上の汚れが落ちていく。なんて爽快なんだろう。
「もうちょっと力入れなきゃ落ちないぞ!」
「こう?」
「そうそう!」
翔さんに教えられながら、全ての皿を洗い、水で流す。どれも、撫でると軽やかな音がする。
「アリス、これ楽しい!皿洗い、これから僕がしてもいい?」
振り返ると、アリスが頭を抱えていた。僕の視線に気づくと、彼女は乱れた髪を整えながら、諦めたように目を伏せた。
「……荒れない洗剤を買ってくる」
「ありがとう」
唇をほんのちょっとだけ上げてみせたアリスは、どことなく、寂しげに見えた。