二話
彼の部屋を案内したあと、アリスは用事が済んだと言わんばかりに無言でどこかへ行ってしまった。ベッドとデスクと椅子しかない部屋、彼と二人、その場に取り残される。
川崎さんはその場にリュックを投げ捨てると、「でけえ!」と興奮ぎみにベッドにダイブした。
「超やわらけえし。夏樹くんは、こんないいやつに寝てんだ、うらやま」
「川崎さんは、違ったの?」
「翔でいいよ。たぶん同い年くらいでしょ?」
誕生日は、毎回アリスがケーキを焼いてくれる。アリスが一緒にくれるメッセージカードには、「○歳の誕生日おめでとう」と書かれている。確か、それによれば。
「二十四歳だよ」
「えっ、俺の二個上じゃん!」
いいよ気にしないで、と慌てて言う。名前で呼び合えば、きっとすぐに打ち解けられると思ったから。
「ね、アリスちゃんに世話してもらってるんでしょ?」
「うん」
ベッドの傍の床に座る。翔さんはベッドから、こちらに身を乗り出すと、
「めっちゃかわいくね、アリスちゃん」
いいなあ、まじ羨ましい。翔さんはごろりとベッドに仰向けになり、ため息をついた。
「ハーフなのかな?今は俺に塩だけど、早く仲良くなりてえわ。飯作ってもらえんでしょ?」
「え、うん」
「何、一緒に風呂入ったり、添い寝とかもしてもらってんの?そこまでお世話する、みたいな?」
「そんなことしないよ。それは一人で出来るから」
びっくりしてすぐさま否定する。この人、僕がそんなに何もできない人だと思っているのか。
翔さんはきょとんと目を丸くしたあと、盛大に噴き出した。
「どうしたの?」
「や、夏樹くんってまじ面白いわ。気に入った」
ぎゃははは、とお腹を抱える笑い方は、アリスの言う通りちょっぴり下品だったけど、少なくともその姿は悪魔には見えなかったし、仲良くなれるかも、と心がほどける感じがした。
それから夕食まで、彼の部屋でお喋りして過ごした。僕は色んなことを聞いたけど、ほとんどは「アリスちゃんに怒られるから言えない」と教えてくれなかった。反対に彼からは、アリスちゃんのことばかり聞かれた。好きなものとか、趣味とか。彼女とは長年の付き合いだが、深くは知らない。というか、僕は彼女のことをほとんど何も知らなかった。
代わりに、彼女が料理上手なこと、掃除がとても丁寧なこと、いつも簡素なロングスカートばかりだけど、ときどきお洒落なワンピースを着ることなど、知る限りの彼女のことを教えてあげた。翔さんはちょっと物足りなそうだったけど、「マメないい子なんだね」と興味津々に話を聞いてくれた。
夜が更け、気づけば外は真っ暗だ。窓から、ちらちらと輝く星が見える。
翔さんは夜空を眺めながら、「今日はお仕事ないの?」と尋ねた。
「うん。一週間に一度だから。今週のやつは、昨日あった」
「ふうん」
彼は身体を起こすと、軽くベッドの上を叩いてみせた。座って、ということだろう。隣に座ると、耳元で囁かれる。
「次の仕事のとき、俺も部屋に入れてよ」
「駄目だよ」
何で、駄目なの?そう聞かれても、理由はない。それは重要じゃない。僕は一人であの部屋に入り、仕事をしなきゃいけない。
「……アリスに、怒られるし」
「俺が説得する。おそらくアリスちゃんは、最終判断は夏樹くんに任せる。夏樹くんがいいよって言ってくれたら、許されるよきっと」
「でも」
「でも、何?」
でも、でも。その先が出ない。続ける言葉が、理由がない。口のなかが渇く。
薄い笑みを浮かべる彼は、さっきまでの、友好的な彼じゃない。悪魔みたいに、僕の心のなかの何かを削っていく。
でも、何? 理由なんか必要なのか。僕は、一人であの部屋に入り、仕事をしなきゃいけない。そうでなきゃ。
「夕食の時間だ。……お前、何をした」
ドアが開く。アリスだ。彼女の目のなかに、真っ黒な炎が見えた。
彼女はこちらに歩み寄ると、僕に手を伸ばしてベッドから引き剥がし、抱き寄せた。その瞬間に初めて、自身のからだが震えていることに気がついた。
「アリスちゃんのことを聞いてたんだ。趣味とか、おいしい手料理のこととか。もっと仲良くなりたくて」
「夏樹が言えば、お前のことなどすぐにクビにする」
彼が怖い。だけど今の彼の顔は、もう悪魔じゃなかった。焦りの色を浮かべた、普通の青年の顔だった。
「何でもないよ。夕食にしよう」
微笑む。からだの震えは、いつの間にか止んでいた。
誰かと一緒にとる食事は、覚えている限りでは、おそらく初めてだった。翔さんが「一緒に食べよう」と言い出し、快く僕がオーケーしたのだ。
僕はいつもの席に座り、その隣にはアリス、向かいには翔さん。もくもくと食べ物を口に運ぶアリス、一方で、翔さんはと言うと。
「男にはこの量少なくね? 確かに美味しいけどさ。おかわり自由?」
「勝手にどうぞ」
「ういっす。あっそれとさ、なんか味薄くない?健康的だとは思うけど。ね、塩とかない?」
「キッチンの右上の棚にある」
「了解。俺、濃い味付けのほうが好きだわ」
翔さんがキッチンへと消えると、アリスがスプーンを置いた。
「大丈夫か?……その、あいつが、失礼なことしたんじゃないかと」
アリスはあまり感情が顔には出ない。だからこそ、こうして不安そうに眉を寄せているということは、よっぽど心配してくれている証拠だ。言うべきだろうか。でも、来週また仕事をするときが来る。話は、翔さんからしてくれるだろう。
「ううん。大丈夫だよ」
微笑んでみたけれど、アリスは不安そうに、何か言いたげなままだった。
「何で白飯じゃなくてお粥なの、アリスちゃん?」
翔さんが帰ってくると、アリスは再びスプーンを手に取り、無表情に戻った。
「そのほうが消化がいい」
「おかゆ?……っていうの、これ」
初めて耳にする言葉だった。
は、と翔さんが聞き返したので、もう一度同じ言葉を繰り返す。と、げらげらと笑われた。
「そんなことも教えてもらえねえの?これはお粥。ビョーキのときとか、お腹痛いときとかに食べるんだよ。それか、じいちゃんばあちゃんとか」
「そんなに限定された料理じゃない。普通に食べるだろ」
「普通はご飯かパンじゃね?あっ俺、朝はパン派でーす!」
「聞いてねえわ」
なんだかんだ、アリスと翔さんは相性がいいのかもしれない。そろそろと「お粥」を口にいれる。軽く咀嚼したのち、喉をやさしく流れていく。何だか、いつもより美味しく感じた。