西郷どんのあり得ない、高さ
ところで、昨日の放送で、NHK大河ドラマ『西郷どん』が終わった。
かつて、この場所でも2度ほどこの作品に関しては書かせてもらっているが、ちょうどその頃から見始めて、基本それ以降はすべて見ているつもりだ。
おそらく、西郷どんというのは、こういう感じの人だったのだろうという実像に近い人物像を描けていたのではないか、という気持ちにさせられたから、作り手がわとしては、成功だったと思う。
なにか、白々しいほど、国や人のためを考え、少しでもそれらが良くなるように考え行動し、物事を成し遂げた人、といった描かれ方だったと思うが。そういった人間が存在しうるとしたら、ああいう描き方になるだろうな、と、納得させられるものがあった。
むろん、普通の人には無理な生き方だろうし、すごく高潔な理想を掲げてそれを降ろさなかった生き方だったとは思うが、そして、そんなことが、可能なのかと我が身や私の周りの人や、テレビの中の人たちを見てさえ、そんなことは今の時代には不可能だと断じ切ってしまえるかとも思うが、考えてみれば、彼がいまなお語られている理由というのは、その、他人ではけっしてなし得ない公明正大な、無私な生き方を死ぬまで貫いたからだろうから、すごくマユツバな話だなぁ、と、思ってしまうのも無理ないことだと思う。
その、あり得ない、存在だぅたがゆえに、その死後、神として祀られることとなったのだろう。
ちゃんと調べたわけではないが、第二次世界大戦のときのいわゆる『軍神』を除くと、明治の乃木希典が神として祀られた実存した人物の最後ではないかと思われるが、彼は、明治天皇崩御時、あとを追って自害して果てるという、究極の忠義を世の中に示したという天皇中心主義で国を守っていこうとする国家にとっての多大なる、それ以上を望むべくもない最高の「功績」があった。
に対して、西郷どんは、その、天皇統べる国家に弓を引いた反逆者である。
昨日も作中そういう言葉が出ていたが、「賊」として死んでいったのである。
よく、その反逆が無実の罪だったことが死後判明して、その罪を取り消し、神として祀り、その怨念を断ち切ろうとすることは、歴史を紐解けばいとまがないが、西郷どんは、時代が新しいからことの是非は白黒つけられると思うが、その集団の武装から始まって、万を越す人数による示威行動、等を考えれば、なにをどう言い訳しても、当時の国家にとっては反逆だっただろう。
にもかかわらず、死後、神として祀られる。
しかも、維新三傑の筆頭である扱いは、死後ある時期以降まったく変わりない。
考え難い事例であろう。
ただの知ったかぶりだが、フランス革命におけるロビスピエールが、当初革命軍リーダーとしてフランス王制討伐という偉大な功績を残しながら、最終的に断頭台の露と消えたことを思えば、その「異様さ」が伝わるのではないかと思われる。
どちらも、前政権打倒までは、大きな力を発揮し、その人がいなければ、前政権打倒はあり得なかったとまで思われるほどの大功を立て、その後その効ゆえに前後の政府で中心的な高位の存在となり、それを政変によって追われ、最終的には、その自分が作り上げたと言っても過言ではない政府に殺害される。
まぁ、ふたり、似ているといえば似ているだろう。
そして、けれど、その死後の扱いが、西郷どんのみ神格化されているのは、お国柄を通り越して、その人の持つ人間性であったと、私は思うものである。
だから、昨日最終回だった『西郷どん』に描かれていた西郷どん像は、その無私無欲を含めて、今も当時もあり得ないと思われるほど稀有な潔さを持っていたのだろう、と。
その、清潔さがあったから、彼は死後神となったのだろうと。
なら、通常いうところの、「所詮はドラマだから」という人物像が、彼の場合のみ「ドラマの中の登場人物のような魅力的な人間だったから」そう扱われる存在になった、という実像を思い浮かべたとしても、それこそが彼の人物像の描き方として正しいのではないかと思ってしまうのである。
あ、あと、追記だが、この時代の人たちの(むろん西郷さんの無私を含めて)凄いエピソードのひとつが、この作品のほんとうのラスト辺りでポツリと語られていたが、西郷さんの盟友であり、最後は政敵となった大久保利通が、西郷さんの死後、1年ほどで暗殺されてしまう。
死後、彼は、多額の借金を残していた、というエピソード。
当時、日本のほとんど独裁者のような存在(司馬遼太郎さんの描き方)だった大久保の資産が借金で終わるなんて、なにをどう考えても本来ならあり得ない(今日何度目の「あり得ない」だろう?)話である。
当時、偉くなって、利権にありつき、金を自由にするというのは、一般的な風潮だったと思われるが、しかも、西郷さんも大久保も、もともと貧乏武士の出身だから、栄達したいし、金を手にしたいと思うの、至極当然の欲望だろうし、現に、そういう高官が頻繁に罪に問われたりしている事件も起こっている。そういった中でのふたりの無私は、あまりにも感動的な話である。
西郷さんの方は、最後は職をなげうっていたわけだから、まだわかるが、大久保利通に至っては、今の総理大臣以上の権力を有していたにもかかわらず、死後に借金、って。
ま、私はそのことを、高校時代に前述司馬遼太郎さんの書いた『翔ぶが如く』で知って以来、歴史上日本で一番好きな偉人は彼になってしまっているのだが。
(だから、文中大久保利通の方が敬称略なのは、まさか『様』とは書けないからでした。)
(けど、『どん』って、敬称なのかなぁ?)